第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2019年12月20日

東大寺の大仏に込められた願い


   


手塚山大学客員教授 半蔵門ミュージアム館長
西山 厚氏

講演要旨

なぜ、聖武天皇は大仏を造ったのでしょうか。
大仏は2度焼かれ、重源と公慶によって再造されました。
3
人に共通する願いはなんだったのでしょうか。

大仏の見方がすっかり変わってしまう驚きの物語が展開します。
 



はじめに
 奈良に大仏様があることは、子供をはじめ殆どの日本人が知っています、そして聖武天皇が造られた事も知られています。
しかし、案外大仏様の事をわかっていない、本当は誰も知っていないし必ずしも知られていないと思います、今日はそのお話をしたいと思います。
特に、聖武天皇はもともと大仏を奈良ではなく滋賀の紫香楽に造ろうと思い造りはじめたのですが、諸事情で中止をしてしまいました。
どうして聖武天皇は紫香楽に大仏を造ろうとしたかは未だに謎ですし研究者の誰もわかっていません。
そこで私なりの考えをこれからお話したいとおもいます。

大仏様と華厳経
 まず、大仏というのは大きいから大仏と言ってますが、実は本当の名前は盧舎那仏(るしゃなぶつ)といいます。
盧舎那仏と言うのは華厳経の中のお経に出てくる大事な仏様の事です。そこで華厳経とはどういうお経で、盧舎那仏はどういう仏様かをしらないと大仏様の事を知らないと言うことになります。
 では、華厳経とはどういうお経なのか、華厳とはどういう意味なのかと言いますと「華でかざる」と言うことです。厳とは厳しいと言う字ですが、ここでは「かざる」と言う意味でお華でかざるお経が華厳経なのです。
そのお華というのは本当のお華ではなく人の行いの事を言います。すなはち誰かが何処かで良い行いをすると、それが小さなお華になってこの世界を美しく飾る、そして皆でこの世に存在するものを良くして美しく飾っていくと説いているのが華厳経です。

華厳経の考え方
 いい事をしたくてもこの世の中で例えは認知症とか重い障害を持って生まれてきた子供は、したくても出来ない人もいますし、又この世界を美しく飾る事が出来たのでしょうか、出来るのです。それは華厳経存在そのものがすでに一つの華になって美しく飾っていると説いています。それは人間だけではなく、すべての動植物だけでもなく存在そのものが一つの華になって飾っているのが華厳経の考え方なのです。
この世界に存在しているあらゆる物がすべて等しく尊いという究極の平等思想が華厳経の考え方なのです。この華厳経に基づいて大仏様が造られています。
お経には約5000巻と沢山ありますが、聖武天皇はその中で華厳経が最高だと言っています。故に華厳経の考え方を知らずに大仏様を語る事は出来ないと言う事になります。
私事で恐縮ですが、私の母が生前気持ちが沈んでたり、元気がない様なおりに華厳経の考え方の、どんな存在も一つの華になって世界を美しく飾っているという話をしていたもので、華厳経には強い思い入れがありました。

盧舎那仏
 盧舎那とはどういう意味なのか、これはインドの言葉を中国で翻訳された漢字ですが、盧舎那仏と毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の2通りに訳されています。そして盧にも舎那にも毘盧にも何も意味もありません。
これはインドの言葉のVairocana  ヴァィローチャナという言葉を漢字に直す時に、意味を無視して似た発音の漢字を引用したものです。
では、ヴァイロ-チャナとはどういう意味なのか、光の仏で太陽のような仏様と言う意味です。
太陽がないと世の中は真っ暗で氷の世界で人間だけではなくあらゆる生物が生きられないので、太陽は明かりと温もりをくれるあらゆる存在を与えてくれるのがヴァィローチャナで、それが大仏様ということです。

聖武天皇の考え方
 あらゆる物に平等に明かりと温もりを与えてくれる仏様を聖武天皇は造ろうと考えてました。奈良時代には肖像画はありませんでした、それは魂をぬかれると言う意味で嫌われての事で、聖武天皇がどういう顔、容姿をしていたかはわかっていない。
鎌倉時代には肖像画はありますが、それはある程度想像して描かれたものです。聖武天皇は大仏を造る時にすべての動植物が共に栄える世の中を造りたいと言われています。
聖武天皇本人の言葉は「動植ことごとく栄えんとす」と言われています。
 ところで研究者や学校では一切教えていないのは、この言葉が綺麗事であると思っているから避けたためで華厳経を知らないからです。
しかし、すべての動植物及び人間が共に栄える世の中は私はありえないと思っていますしこれからも無いと思っていますが聖武天皇は本気なんです、故に苦しむ事になります。
しかしながら、聖武天皇は大仏を大きな力と沢山の富を使って造るなと言い、一本の草、一握りの土を持ってきた人にも手伝ってもらおうと言う一体何を考えている人なのでしょうか。
聖武天皇の奥様は光明皇后で最初に女の子が生まれ(後の孝謙天皇)ました、その後年経って待望の男子が生まれたが病弱であった為仏様にすがり観音像を177体造り、観音経を177巻写経し回復願ったが1年未満で死去してしまいました。
それで先に生まれた皇女が、やがて皇太子(阿部内親王)となり孝謙天皇になっていくわけですが、2010年にNHKが平城遷都1300年と言うことで大仏開眼のドラマの中で主人公孝謙天皇を描いていました。
亡くなった皇子のお墓が今はないですが奈良ドリームランドの横に聖武天皇の皇太子として祀られています。又皇子の冥福を祈るため奈良の山にお寺(山坊)金鐘寺(後の東大寺)を建立しています。
聖武天皇は子供の死、のほかこの時代は旱魃飢饉、大地震、天然痘等が起こりこれは徳がない私一人の責であると思い悩み苦しむ事から大仏が誕生する事に。天平12年(740)に聖武天皇は(40歳)河内国の知識寺(智識寺)で盧舎那仏を拝し大仏造立を決意しました、ここで言う知識とは仏教の信仰のもと、民間でさまざまに活動する人々と言う意味です。
 従ってこの寺は民間の力を結集して建てられたお寺と言うことになります。
そこで、聖武天皇は小さな力をたくさん集めて造る事を決意しました。
そして紫香楽に造ろうと考え都を平城京から恭仁京(くにきょう、今の木津川市)に移して紫香楽への道を整備する事になります、と言うことは聖武天皇は紫香楽に行った事がないのです。
 なぜ聖武天皇は紫香楽に大仏を造ろうと思ったのか。
聖武天皇43歳の7431015日に紫香楽ですべての動植物が共に栄える世の中を造りたいとの大仏造立の詔をだします。

大仏建立
 最初大仏は紫香楽宮の甲賀寺に造られますが、いかに大仏を造っていくのか大仏は銅で出来てますからいきなり銅は無理なので、体の中に木組みを造り(当時の資料で体骨柱)初め、そこに聖武天皇自ら体骨柱を建てる縄を引く事に参加する様に聖武天皇は身分の上下関係がない人です。
 そして大仏建立に全面的に応援してくれたのが行基さんのグループです。行基さんは人望の厚い人で小さな力を沢山集めて行動を起こすという考え方が聖武天皇と同じ事から応援をしましたし、近鉄奈良駅前には大仏様の方をむいて行基さんの噴水があります。
又、行基さんは宗教活動の一貫としてお寺や池を造ったりしましたし、日本最古のため池の狭山池の改修工事を手掛けた事でも知られています。
 しかし、大仏建立は建立への反発の人達の放火と悪い事に地震が続き中々うまくいかず、建立は無理と考え、そして聖武天皇は奈良に戻ってくる訳です。
但し大仏建立は諦めた訳ではありません。ちなみに聖武天皇はこの難題で思い悩み病気になり、それに連動してクーデター未遂(女性天皇廃止―孝謙天皇)事件が発生するというざわついた状況にありました。
 それで奈良に戻ってきましたが、恭仁京、恭仁宮、紫香楽は廃墟となっていてでもそこには山城国の国分寺があり、又聖武天皇は都を恭仁京に移す時に平城京にあった大極殿を解体して持ってきており、当時国分寺には七重塔を建てなければならなかったのですが、今は礎石しかなく廃墟となっていますし甲賀寺も同じ状況になっています。
 では紫香楽宮はどうなっているかと言いますと、今は田圃です。しかし近年この田圃が調査され柱の根っこが見つかり、その柱の年輪を調べた結果742年~743年に伐採された事がわかりそこに宮が有ったとわかったのです。
又そこからは朝堂院の跡(約100m)みつかり政治の中心になりつつあった。なぜ聖武天皇は紫香楽に大仏建立を考えたのか?紫香楽宮の東側に飯道山―ハンドウ山(664m)という山があり、私の考えではこの山があったから聖武天皇は大仏建立を考えたと思っています。
この山に神仏習合で山伏の修験の山である飯道神社(水を守り、森を守る神様)があり、そのあたりに大きな岩が沢山あります。
ところで、二月堂の回りにはつの神社があり、そのつに飯道神社(いいみち)がありますが、この神社が大仏と平城京を守る神社の役目を果たしていて又、飯道山も紫香楽宮と大仏を守る神様であり、山であると私は考えていますから従って私は聖武天皇が紫香楽に大仏を造ろうと考えたと思っています。
なぜ聖武天皇が行った事がない紫香楽に大仏を造ろうと思ったのか、それは誰かに聞いたからです。
 それは東大寺の初代別当の良弁(ろうべん)僧正(689773)と思っています、彼は滋賀県で様々な活動をしてゆかりのお寺が沢山ありますが、代表的なお寺が金勝寺(栗東市)でありそこにはグンダリ明王が祀られていて、本堂には良弁さんが祀られている。
実は飯道山を開いたのが金勝寺のお坊さんだと伝えられています。そこで良弁さんは聖武天皇に紫香楽に大仏を造る事を勧めたと思われます。
 さて、聖武天皇は奈良の何処に大仏を建立しようとしたか、それは皇子が祀られている金鐘寺が選ばれた訳ですが、それは聖武天皇の私事ではなく、良弁僧正の拠点だったからで、そこでは毎年華厳経の勉強会が開かれていました。
そして、そこに大仏が造られていくことになります。そして記録によりますと、聖武天皇、光明皇后、阿部内親王が盧舎那仏を11万千7百余の燃灯を数千の僧をして午前時まで供養したと記してます。

良弁僧正とは
 平安時代初めに出来た説話集の日本霊異記によりますと、聖武天皇の住まいの東の方から光がさしてきて一人の行者ウバソク(在家の仏教信者)がいて、その前に、執金剛神(今でも東大寺に祀られている)がおられて、良弁さんはいつも拝んでいました。
 この執金剛神は回だけ1216日に公開されます、それはその日が良弁さんの命日だからです。
そして今から1267年前752日に大仏様が完成しました。大仏開眼・開眼とは魂を入れる儀式をいいます。大仏の建立には延260万人(当時の人口約百万人)が協力しており、聖武天皇の小さな力を沢山集めて造るという考えが成し遂げられた。
 そして大仏に魂をいれたのは菩提僊那(ぼだいせんなーインド人)という人で大きな筆で魂を入れました。ちなみに作り物に魂を入れられるのは筆のみです。
どうして菩提僊那が魂をいれる事になったかは、748年は行基さんが大僧正で仏教会のトップであったが(749年に死去)そして751年に菩提僊那が大僧正でトップになった事が要因、本当は聖武天皇がいれる事になっていたが病弱でお坊さんに(行基さんの弟子)なっていて、菩提僊那に頼んだ為であった。
 そして筆、青い紐、聖武天皇が履いていた赤い靴等は正倉院に保存されている。聖武天皇は開眼年後に死去し、東大寺聖人(菩提僊那、行基、良弁、聖武天皇)の一人として名を残しています。
聖武天皇の東大寺の大仏に込められた願いはすべての動植物が共に栄える世の中をつくりたいと言うことで造られていった訳です。
奈良を訪れた際違った意味で東大寺を再認識して訪れて頂ければ有難いです。
 長時間のご清聴有難うございました。

《講師未見承》



2019年12月 講演の舞台活花

 

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