第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成26年3月13日

西飛鳥における後・終末期古墳の様相




関西大学文学部日本史・文化遺産学専修 教授
米田 文孝 氏

 

講演要旨

明治時代と並び、この国の形に大きな影響を与えた飛鳥時代。激動する東アジア古代社会において倭国が日本として本格的にデビューし、仏教をはじめ新たに導入された制度・様式等を積極的に取り入れ、律令制による天皇を中心とした中央集権国家を形成した時代像について、後・終末期古墳から考えます。
 

 1.はじめに
 ご紹介にあずかりました、関西大学文学部の米田文孝です。
 ご当地との係わりは30年位前,大学院生の時に恩師の網干善教先生から言付けられ、書類などを末永雅雄先生のお宅(網干先生と師弟関係)へ、いわゆる今日でいうパシリをしていた時に始まりました。その後、『常歩無限』と題した関西大学考古学研究室創設から20年間の歩みを回顧した冊子の刊行作業に加えていただき、末永先生のお宅に足繁く通ったことも懐かしく思い出します。現在も、末永先生の墓参や池尻にある狭山池博物館に学生を連れて年に1回ぐらい来訪しており,何かとこの地と深いご縁があります。
 前置きはさておき、本日は「西飛鳥における後・終末期古墳の様相」という話題を通して、飛鳥時代の実像を垣間見ます。

2.飛鳥時代の国際性(文明開化の時代)
 本題に入るまえに、明治維新に先立つ第一の文明開化の時代ともいわれる飛鳥時代とは、どのような時代かを概観しておきましょう。現在の明日香村といえば、「まほろばの飛鳥」といわれることもあり、牧歌的な田園風景(歴史的景観)を思い浮かべる方が多いと思います。しかし、飛鳥時代の実態は古代東アジア世界における飛鳥時代前期までの倭国、天武・持統朝(飛鳥時代後期)以降の日本の中で唯一の都会(宮都)であったという心象を描いていただければと思います。
 ここで、飛鳥という名前の由来と地名の起源についてふれておきますと、何故、「飛ぶ鳥」と書いて「アスカ」と読むのかについては諸説があります。たとえば、天武天皇時代の元号である朱鳥、「あけみどり」が訛ったものとする説や、『万葉集』に詠まれる明日香の枕詞であり、特別な意味が無いという見解や、古代日本に大きな影響を与えた仏教との係わりから、紀元前3世紀のインド・マウリア朝のアショカ(阿育)王の名前が訛ったものとする説、浅洲や平坦地を指す「スカ(洲処)」に接頭語の「ア」がついたという、飛鳥地域の自然地形に由来するという説などがあります。私自身は枕詞説に共感を覚えていますが、古来より権勢の象徴である大きな鳥が舞う「アスカ」には、飛ぶ鳥という枕詞がつく。これから飛鳥という名前になったのではないかと思っています。皆さんも諸説についての議論に思いをめぐらせて下さればと思います。
 また、「アスカ」という地名自体は「安らかなる宿」、安宿と書く言葉の転訛ではないでしょうか。斉明天皇時代の663年、百済・倭国の連合軍は朝鮮半島・錦江の河口部付近で唐・新羅連合軍と激突しますが、この白村江の戦いで大敗・滅亡した百済の遺民が倭国に到来し、まずは一時的に腰を落ち着けた土地に抱いた印象に由来するというという説にロマンを馳せます。
 一般的に飛鳥時代とは、飛鳥寺の造営が開始された588年、あるいは推古天皇が豊浦宮で即位した592年から、藤原京から平城京に遷都する710年までの約120年間(7世紀)とする場合が多いようです。律令制による天皇を中心とした中央集権国家の完成を急いだ時代であるとともに、激動の古代東アジアに倭国(日本)が本格的にデビューした時代です。隋唐帝国から律令制度をはじめとした外来文化と、弥生・古墳時代からの伝統的な文化を継承・融合しつつ、新たな時代を創成した大変革の時代でした。飛鳥時代後期(天武・持統朝)には大王の称号が天皇に、そして倭国の国号が日本に変わり、飛鳥の宮都を中心に本格的な漢字の使用が始まった時代でもあります。

3.近年における西飛鳥の後・終末期古墳の調査結果
 さて、被葬者の権威を前方後円墳に代表される古墳の規模や副葬品の質量に反映させた古墳時代から飛鳥時代に時は移り、古墳の役割やその意義は大きく変化しました。それまでの厚葬の時代から、乙巳の変(大化改新)の翌646年、『日本書紀』の記事にみえる「大化二年三月甲申詔」、いわゆる大化薄葬令に代表される薄葬の時代を迎えました。この大化の薄葬令の実効性については、考古学や古代史の視点から多様な議論があります。
 飛鳥地域における古墳は、乙巳の変を前後して大きく飛鳥時代前期と後期に区分することができます。また、墳墓が造られた地域でみると、飛鳥時代前期の古墳は飛鳥地域の東側、同じく後期の古墳は西側に造られる傾向があります。すなわち、本日の話題である西飛鳥の終末期古墳は、飛鳥時代後期に造営されたものが多いことになります。

石舞台古墳

 ここで、飛鳥時代前期の古墳を代表して、天井石の推定重量約77dをはかる巨大な横穴式石室が露呈している石舞台古墳をみておきましょう。高松塚・キトラ古墳の発掘以前は、明日香観光といえば、飛鳥寺と石舞台古墳が中心でした。石舞台古墳の発掘調査が実施された約80年前には、水田の中に巨大な玄室の石組みだけがポツンと露呈していました。このような姿は近世(例えば、名所地誌『西國三十三カ所名所圖繪』)まで遡れますが、末永雅雄先生が現地調査を担当された昭和8(1933)年と同10(1935)年の画期的な発掘調査以降、外堤と空壕を備えた一辺(下段)が50mを超える二段築成の大型方墳と推定されるようになりました。ただし、墳形を上円下方墳とする説もあります。
 昭和51(1976)年の発掘調査では、石舞台古墳の造営時にあたり、先行する小型古墳(7基以上)の墳丘と石室を壊し、その上に石舞台古墳の外堤部を構築していることが確認されました。石舞台古墳の被葬者は、先行する古墳をも改葬し得た権力者の墳墓であったのです。また、石舞台古墳の玄室内からは凝灰岩の細片が出土しており、家形石棺が埋置されたことが推測できますが、徹底的に破壊されていました。埋葬時には盛大な葬送儀礼(権力の継承)が行われたと想定されますが、現在の社葬をイメージすればよいかと思います。
 この石舞台古墳の周辺には、都塚(金鳥塚)古墳や塚本古墳、細川谷古墳群などが造営されました。また、全長300bを超える大前方後円墳である五条野丸山古墳や平田梅山(欽明天皇陵)古墳、菖蒲池古墳なども、古墳時代後期後半から飛鳥時代前期の古墳です。なお、菖蒲池古墳の横穴式石室内にはその内面に黒漆、外面に朱彩を施した棟飾付の家形石棺が安置されており、黒漆を手がかりにした場合、石棺から木棺への移行を示す時期のものとも考えられます。

高松塚古墳

 前置きが長くなりましたが、本題の西飛鳥の古墳に入ります。まず、石舞台古墳から見て西北方向、南北約1.6キロメートル、東西約0.8キロメートルの狭小な範囲を中心に、宮都や主要な寺院が造営され、歴史書『日本書紀』に描かれる飛鳥時代(7世紀)の出来事が起こりました。大王・天皇でいうと、皇極(斉明)天皇から文武天皇の時代に相当します。この狭義の飛鳥地域の西方、現在の近鉄吉野線の西側一体を一般的に西飛鳥と称します。
 高松塚古墳は、後述する西飛鳥(天武・持統天皇)の陵園、今日にいう霊園をイメージしていただければよいかと思いますが、この陵園の中に伝統的な埋葬施設の最終形態の一つである、切石組の横口式石槨を主体部とする古墳として造営されました。高松塚古墳が造られた時代は畿内地域で前方後円墳が築造されなくなって約1世紀、火葬の導入で文武天皇をはじめとした天皇の陵墓も小型化し、大きな陵墓が造られなくなった時代です。高松塚古墳は昭和47(1972)年の発掘後、国営飛鳥歴史公園の高松塚周辺地区として整備されました。
 高松塚古墳の発掘調査以前の状況をみておくと、本来約23mあった墳丘(二段築成の円墳)はその周囲を一回り削り取られ(直径約18b)、果樹園(柑橘栽培)として利用されたり、交錯放棄地になったりして竹が生い茂っていました。墳丘は仏教導入にともなって本格化した寺院建築で普及した版築技法で堅固に築かれているため、お椀を伏せたような腰高な形態(墳丘直径に対して墳丘高が大きい)を示しており、南側下方からの見かけ上の高さは約9.5bあります。また、風水思想を背景に選地された地点に造られた墳墓と推定できます。
 高松塚古墳で発掘された漆塗木棺(棺身長約199a×幅約58a)は、石槨床面上に置かれた木製の棺台(長さ約217a×幅約66a×高さ約17a)上に載せられていました。その内側は黒漆の上に朱塗りで、外側は黒漆の上に金銅製透飾金具が付けられ、金箔が貼られた可能性もある豪華なものでした。被葬者は推定身長約160aの熟年男性で伸展葬されていましたが、『日本書紀』や『続日本紀』にみえる皇子や官僚の没年記事との対照から、被葬者を特定する有力な手がかりの一つです。
 副葬品には舶載された海獣葡萄鏡(径16.8a)や、正倉院に納められた金銀鈿装唐大刀と類似した銀荘唐様大刀の装具、金銅製透飾金具などの棺関係品や、玉類(ガラス製丸玉・粟玉、琥珀製丸玉)などが出土しました。これらの副葬品は、いずれも重要文化財に指定されています。なお、築造年代を判定する規準とできる海獣葡萄鏡は、現状で12面の同型鏡(原型から多数の鋳型を製作して量産した鏡)があり、中国の独狐思貞墓出土品は西暦698年に相当する墓誌をともなっています。
 ところで、高松塚古墳という名称は近世の山陵図などの記録類に描かれたように、その墳頂部に1本の大きな高い松の木が生えていたので、いつしか高松塚とよばれるようになったと考えられます。明治時代初期までは、御陵山古墳として文武天皇陵と治定されていました。壁画修理に伴う墳丘調査では地震による亀裂があり、浸透した雨水により壁画が汚染されたことが判明しました。墳丘の土を取除くと、16枚の凝灰岩を組み合わせた横口式石槨が構築されていました。石室解体後、現地には発掘調査の成果を反映させた二段築成の墳丘が、暫定的に築造されています。石槨内部の壁画(国宝)は、高等学校の教科書巻頭や副教材の図録に、「飛鳥美人」と称される西壁女子群像を中心に、発掘調査当時に撮影された極彩色の画像が掲載されてきました。その後、皆さんもよくご存じのように、カビの繁殖で壁画が汚染・劣化し、解体修理されることになりました。現在、春秋期を中心に年に何回かの壁画の公開日がありますので、現状はどうか、どのような修復が行われているのか、機会を捉えて実見していただければと思います。
 なお、高松塚古墳=飛鳥美人と、目に触れる機会が多い男女群像が壁画の主題と思われている方もありますが、西壁の奥にあり盗掘者が西壁に寄せた木棺底板に阻害され見落としたのか、日・月像や玄武像のような意図的な損傷から免れて結果的に遺った壁画であり、男女群像は従属的な図像であることに注意する必要があります。あくまで壁画の主題はキトラ古墳と共通する天文図と日・月像、四神図ですが、皆さん共々、盗掘者の見落としに感謝しましょう。
 ここで、皆さんが高松塚古墳の石室に入られ、天井部を見上げたら中心に天文図、その下位には日・月像と四神像、四隅に男女群像が見えることになりますが、その主題は星宿図ともよばれる天文図(北極五星・四輔)が中心です。これに相応する地上界の場所が宮都に建造された大極殿です。この大極殿にいる地上界のリーダーを中国では皇帝、日本では天皇と称しますが、分野説や陰陽五行説を背景とするこの関係を小宇宙として表現したのが、高松塚・キトラ古墳の壁画の本題です。
 繰り返しますが、4群16人(男女各8人)から構成される男女群像は、高松塚古墳に固有の付加的な図像です。今後、高松塚・キトラ古墳と類した壁画古墳が発見された場合にも、天文図と日・月像、四神像は必ず揃っているでしょうが、高松塚古墳に描かれたような男女群像が描かれている可能性は低いと思います。

キトラ古墳

 高松塚古墳の墳丘は本来、直径約23b位ありましたが、キトラ古墳の墳丘は直径約14bです。発掘調査前はヒノキの植林で、墳丘では椎茸の原木栽培場でした。高松塚古墳やキトラ古墳の構造や規模には共通性があります。また、マルコ山古墳と平城京の北方にある石のカラト古墳には壁画は描かれていませんが、終末期古墳の中においてこれら4基の古墳は、ときに四兄弟とよばれることもある規格性や共通性が高い一群です。
 キトラ古墳の調査は高松塚古墳の発掘調査から10年以上も後であったので、CCDカメラで盗掘穴から石槨の内部を撮影、発掘前に石槨内部の状況を確認することができました。CCDカメラの首をくるりっと回して入口の閉塞石(南側)を見ると、朱雀像が映りました。高松塚古墳では盗掘時に剥落して失われていた朱雀像が確認され、これで四神図が揃ったと大きく話題になりました。高松塚古墳やキトラ古墳の石槨内には、同時に2人ぐらいしか入れません。あらかじめ描いておくことができる朱雀像を除き、南側から太陽光が差す限られた時間、充分な照明がない中で、素早く描ける非常に手馴れた熟達の画師集団が描いたものと想定できます。
 キトラ古墳では、高松塚古墳の男女群像に相当するものとして、十二支像(獣頭人身像)、中国でいう十二生肖が描かれています。壁画の描き方は、フリーハンドで描くのではなく、貴重な紙を用いた粉本を生乾きの漆喰の壁に当てて上から竹ベラなどで転写し、その後、墨で輪郭線を引き彩色していることが観察できました。この観点から高松塚古墳も壁画も再調査された結果、同様に転写していることが確認されました。研究調査技術や分析機器・方法などの進歩に歩調を合わせ、先行する発掘調査成果が再検討・吟味され、新たな事実や解釈が得られるという好例の一つです。
 ところで近年、藤原京の大極殿の南側に近接して確認された2穴一組で一列に並ぶ柱穴群が注目されましたが、これは元日朝賀の儀式に使われた幢幡の支持柱穴の遺構です。高さ約9bと推定される幢幡は三足烏を象った銅烏幢を中心に、その左右に日月を象った日・月像幢、さらに外側に四方の守護神を刺繍した四神(青龍・朱雀・白虎・玄武)幡を中心に樹立されました。歴史書の『続日本紀』大宝元年(701年)の記事には、文武天皇の治下で執り行われたこの儀式の描写があり、「文物の儀、是に備われり」(学問・芸術・法律などが整った)と、古代国家が完成したと高らかに宣言しています。
 この元日朝賀という儀式は、天皇と臣下が主従関係を確認する重要な儀式です。現代における元旦の「お年玉頂戴」はこの儀式の名残ともいえますが、飛鳥時代前期までは墓前の葬儀で執り行われていた重要な儀式が、幢幡などを用いて都城の中心にある宮域で行なわれるように変化しました。なお、奈良文化財研究所が神宮文庫に所蔵される『文安御即位調度之図』などの古記録類を参考に幢幡の復原品を制作していますので、機会があれば是非実物をご覧下さればと思います。
 なお、先ほどみた野口王墓(天武・持統陵古墳)は、この一列に揃えて樹立された幢幡列、大極殿とその南側に広がる朝堂院・朝廷(藤原宮)の中軸線を南方にまっすぐ伸ばした延長線上に位置しています。この南北の延長線は高松塚古墳の発見当時、マスコミにより命名された、いわゆる「聖なるライン」に相当しますが、飛鳥・藤原京の陵園は隋唐帝国の陵園制を参考に、野口王墓を西北の隅角部として西南方向に広がっているものと想定されます。時間の関係から解説は省きますが、この西飛鳥の陵園内には高松塚古墳やキトラ古墳などに加え、岩屋山古墳やカナヅカ古墳、束明神古墳、マルコ山古墳、中尾山古墳など、重要な後・終末期古墳があります。

牽牛子古墳

 『日本書紀』の記事によると斉明天皇の治下、中大兄皇子がはじめて造ったという漏刻(水時計)台は、水落遺跡であると推定されています。現在の時間に縛られて生きざるを得ない我々の生活形態がはじまったのは、この漏刻台の設置にはじまります。時をも支配した斉明天皇は仏教や道教、さらに神仙思想にも影響された人物で、「石の都」「水の都」の印象で語られる飛鳥の景観を形作った大土木工事を次々と行った姿が『日本書紀』に記述されています。
 例えば、水落遺跡の北側にある饗応施設(迎賓館)と想定されている石神遺跡や飛鳥京苑池遺構、酒船石遺跡など、斉明天皇の時代には須彌山石や石人像をはじめとした石造物の設置や苑池の整備など、石材を多用した土木工事が盛んに行われた時期です。また、韓国の慶州にある雁鴨池(アナプチ、臨海殿址)との関連性が考えられる飛鳥京苑池遺構は、渡堤で南北に分けられた2つの池から構成されていますが、継年的に実施されている発掘調査では次々と新たな発見があります。なお、この飛鳥京苑池は大正5(1916)年に「出水の酒船石」として知られる導水用石像物が掘り出された場所で、この石像物は現在、京都東山の名園内に移設されています。
 さて、牽牛子塚古墳の話題に戻りますが、最近の発掘調査により版築で堅固に突き固められた墳丘の表面が凝灰岩で覆われた八角形墳であることが確定し、斉明天皇の真陵ではないかという説が高まりつつあります。現在、宮内庁は明日香村に隣接する高取町の車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵に治定、越智崗上陵として管理しています。牽牛子塚古墳の墳丘形態は八角形ですが、その築造当初から八角形であったと想定できます。一方、八角形墳にはこれとは別に、後述するように国家的な祭祀形態を整える目的から、築造後にその墳形を八角形に修陵した山陵もあると考えています。
 つぎに、牽牛子塚古墳の埋葬施設(横口式石槨)は特殊な構造で、二上山から採石して運搬した巨大な一塊の凝灰岩を刳抜いています。埋葬施設はこの巨塊を刳り抜いた構造で、一つの開口部(入口)に間仕切り壁で区切られた、2つの墓室が設けられています。石槨入口は凝灰岩の内扉と、石英安山岩の外扉で、二重に閉塞されています。現在、造付けの棺台上に安置されて夾紵棺に葬られた2人の被葬者は誰か、候補者捜しが話題になっています。
 また、石槨を囲うように石英安山岩を角柱状に加工した切石(外護列石)を立て並べ、天井部は礫塊と漆喰で防水工事を施した、「石の女王」の奥津城(墓所)に相応しい重厚な構造を備えています。現在、環境整備事業が段階的に進められており、5年後には築造当初の姿に復元された牽牛子塚古墳が公開される予定と仄聞していますので、皆さん共々楽しみに俟ちましょう。
 ところで、後・終末期古墳の大型横穴石室に至るまで、石室構築に用いられた一番大きい石材は一般的に天井石でしょうが、飛鳥時代前夜までの石材は天井石を含めて、人数と時間をかけると運搬することができる大きさ(重量)で、時間をかければ埋葬施設を構築することができます。一方、前代までに造営された大王墓と比較して、終末期古墳の墳丘規模自体は急速に小型化しますが、例えば牽牛子塚古墳の石槨に用いられた、小口の大きさが3〜4bを超える凝灰岩巨塊を二上山から運ぶためには、新たな技術の導入に加えて多数の人民を計画的に徴発・動員し、道路や運河、橋梁を整備する必要があります。
 このように、巨塊を運搬するという行為は、大王・天皇の権力を視覚化して人民に誇示する行為でもありました。一連の造墓事業の帰結点である古墳自体も重要ですが、造営する過程を通じて大王・天皇の権威を人びとに見せ示す舞台でした。大化薄葬令では造墓にあたり、人民に負担をかけない配慮が規定されていましたが、実態は必ずしも条文通りではなかったようです。
 例えば、マルコ山古墳の近くの南下する傾斜面に築造されたカヅマヤマ古墳でも、その造営工事には延べ約5,000人の人民が動員されていたと推定されています。このカヅマヤマ古墳は一辺約23bの二段築成の方墳ですが、埋葬施設として吉野川流域の結晶片岩を漆喰で塗り固めた磚積石室を構築しています。平成17〜18(2005〜06)年に行われた発掘調査の結果、地滑りした石室が大きく分断され損壊していることが判明しましたが、その原因が地震であることが突き止められたことでも注目されました。この地震は遺物の出土状態の検討などから、室町(南北朝)時代の1361年8月3日に発生した正平の東海地震の蓋然性が高いと推定されています。前述した高松塚古墳の墳丘(版築)を損傷したのも、この地震かも知れません。
 牽牛子塚古墳に話を戻すと、飛鳥時代後半には移動に困難をともなう重厚な家形石棺から、容易に持ち運びが可能な漆塗棺が流行します。その中でも牽牛子塚古墳の夾紵棺は、最高位の棺構造とすることができます。夾紵棺とは後代の仏像製作にも用いられた脱括乾漆製の棺で、原型に布と漆を交互に張り重ね、貴重な漆を潤沢に用いて製作されました。高槻市にある阿武山古墳に埋納されている棺も夾紵棺ですが、この古墳の被葬者は藤原鎌足墓と想定されています。また、牽牛子塚古墳の出土品中、最も注目される七宝製六角形飾金具についてみると、この飾金具は9点以上出土していますが、連接して亀甲繋紋を構成したものと推定できます。この亀甲繋紋で表飾された器物は何かと考えると、その候補の一つとして、斉明天皇が溺愛したものの夭折し、合葬を望んだという皇孫・建王(葛城(中大兄〕皇子の子)の遺骨を入れた、筥の外面を飾っていたのかもしれません。
 上記したように、牽牛子塚古墳は八角形墳と確定しましたが、埋葬施設の規模から火葬骨を埋納したと推測されている中尾山古墳や、昭和34・35(1959・60)年実施の墳丘調査成果が公表された天武・持統陵古墳も八角形墳です。現在、檜隈大内陵として治定される野口王墓古墳は1235(天暦2・嘉禎元)年に盗掘を受けましたが、その時の記録である『阿不幾之山陵記』の記述によると、透彫りと格狭間で飾られた金銅製の棺台上には朱塗の夾紵棺、礼盤状の台上には外容器の金銅桶に納められた銀製筥が安置されていたようです。この夾紵棺には天武天皇が納められ、金銅桶内の火葬骨は持統天皇のものと推測されています。

越塚御門古墳

 越塚御門古墳は、牽牛子塚古墳の墳丘東南側に近接して全く新たに発見され、所在する小字名を参考に命名された古墳です。発掘当初は、牽牛子古墳の基壇法面を護るための外護列石の一つと推定されていましたが、その周囲を掘り下げると、刳抜式の横口式石槨とバラス敷きの墓道が検出されました。石室は床石に天井石を被せる形式で、今来谷にある鬼の雪隠・俎板と同じ構造です。石槨内からは黒漆膜片が出土し、漆塗木棺が納められていたものと推定できます。また、石室の中軸線と墓道の中軸線とが一致しておらず、墓道の構築時期や墓前祭祀との関係に注目できます。
 なお、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の被葬者は、竹田皇子と推古天皇が当初埋葬された植山古墳と改葬された山田高塚(推古天皇陵)古墳のあり方が参考になります。飛鳥時代前期の大王墓は改葬が一般的でしたが、牽牛子塚古墳の被葬者も当初埋葬された古墳から殯の期間を経て、牽牛子塚古墳に改葬されたという考え方の一つの根拠になっています。初葬された古墳の候補としては、鬼の雪隠・俎板古墳や岩屋山古墳などとする諸説があります。また、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の前後関係ですが、牽牛子塚古墳の墳丘に一部掘り込んで越塚御門古墳の墳丘が版築で構築されていることから、牽牛子塚古墳の築造後、越塚御門古墳が造営されたことが判明しました。
 この先後関係は、牽牛子塚古墳の造営時期を特定するために有力な手がかりを与えます。先述した石英閃緑岩を用いた鬼の雪隠・俎板型の石室は、飛鳥時代後期には造られなくなっていることや、牽牛子塚古墳が合葬墓、越塚御門古墳が単葬墓であることやその立地などから、『日本書紀』天智天皇6(667)年2月条にある「天豊財重日足姫(斉明)天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す」という記事との関連性に注目できます。なお、『日本書紀』の記事によると、間人皇女は天智4(665)年2月25日に薨じ、斉明天皇はこれに先立つその治世7年目(661年)の7月24月、国運を賭けて唐・新羅連合軍と対決するべく出陣した百済救援の途次、筑紫・朝倉宮で崩御し、波乱に富んだ一生を終えました。同年11月、飛鳥に帰京した斉明天皇の遺体は川原寺で殯宮(葬儀・埋葬までの仮安置)を行いました。
 持統天皇に続く文武天皇から、その事蹟は『続日本紀』に記録される時代になります。この『続日本紀』の文武天皇3年10月の条に、罪人に恩赦を与えてから、越智山陵と山科山陵を営造したという記事があります。この「営造」あるいは同条の後段に出てくる「修造」という用語の解釈(新造か改修)をめぐり、古代史や考古学の研究者において多様な見解が出されており、造営時期の特定にも関連しています。斉明朝を出発点として大王(天皇)家は実質的な支配権を強めていきますが、私は国家としての祖先祭祀(式年祭)を体系化し、王統譜の正当性を誇示するため、天武天皇の遺志を受け継いで墳形を八角形に整える大規模な修造工事(山科山陵)や、墳丘周辺の整備工事(越智山陵)が実施されたのではないかと考えています。

4.おわりに
 1960年代までは史料批判を通じて、『日本書紀』に記された内容は潤色・曲筆に満ちたものと考えられていました。しかし、考古学による発掘調査の成果として、例えば墨書され内容に改竄のない木簡の出土をはじめ、『日本書紀』に綴られた記事の内容と発掘調査の成果とは整合性が高く、『日本書紀』の信頼性は回復しつつあります。今後とも、飛鳥地域の発掘調査では古代(飛鳥時代)史を塗り替える新たな発見が陸続と公表されることでしょう。
 与えられた時間も迫ってきましたが、例えば天文図や日・月像、四神図が一定の法則で描かれている高松塚古墳やキトラ古墳の壁画を出発点に、大相撲土俵の方位を示す方色や鯉幟の五色の吹流し、甲子園球場の名称などが現在に脈々と受け継がれていることが判ります。方色や吹流しなどは時代々々に単独で生み出されたものではなく、歴史の流れとして分野説、陰陽五行説という思想や原理を背景にして生まれてきています。
 すなわち、我々は大きな歴史の流れの中で生活していて、これらを知って生活するということは、より心豊かな生活が出来るではないでしょうか。こういうものは、如何なる考えをもとに出来ているのか、そして現在に受け継がれているのか、悠久の伝統というものに包まれて我々が生かされているということの一端を知ることで、過去から現在・未来に生きるヒントの一つとしていただければ、誠にありがたく思います。
 ご静聴、ありがとうございました。  (以上)
〔講演会の要旨であるため、引用参照文献の記載は省略させていただきました。〕




平成26年3月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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