第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成26年2月13日
「雨森芳洲」
〜元禄享保の国際人〜




大妻女子大学比較文化学部 教授
上垣外 憲一 氏

講演要旨

江戸期の日朝交流史に屹立する思想家の生涯、朝鮮通信使が称賛した語学力と人道主義に根ざす平等思想。偏見や自文化中心主義を否定する現代的思索を展開しながら、国学の擡頭で忘却された思想家が現代に甦る。
 

 始めに
ご紹介にあずかりました上垣外です、私は今東京に住んでいますが、以前大阪狭山市の帝塚山大学で教えておりましたので、大阪狭山市とは無縁ではありません。

日本と韓国
今日の話は日本と韓国の間で仕事をした人についての話です。豊臣秀吉の文禄慶弔の役の後、雨森芳州は江戸元禄時代(1700年頃)の平和な時代に活躍した人です。江戸時代の日韓の関係は基本的に友好でした。江戸時代の初期の日韓関係は、文禄慶弔の役の後始末が終わった後、友好平和が始まりました。
 江戸時代の日本と朝鮮の関係は、通信の国と言はれていました。通信とは中国語では手紙で伝える事です。朝鮮から来る通信(手紙)は朝鮮国王の手紙です。日本からの返書は徳川将軍の手紙です。両国の主権者同士の手紙の交換でした。
 江戸幕府の海外の国との付き合いのしかたは二つありました。日韓では『通信』で、日本とオランダの関係は『通商』でした。オランダから来るのは商人だけです。輸出商人、だけで外交使節の往来はありませんでした。又中国との関係も通商でした。長崎のみに中国の貿易商人が来るだけでした。中国から日本は文化的に大きな影響を受けました。しかし外交使節は往来していませんので、政治的な関係は有りませんでした。
 豊臣秀吉が死んだ後、徳川家康が朝鮮との間で平和条約を結びました。それによって江戸時代の日韓友好が成り立ったわけです。しかし今のような西洋式条文ではありません。それは日本側(家康)から、へりくだって平和条約の手紙を送ったのです。家康は戦争よりも朝鮮との貿易を復活したかったのです。そもそも日本人は外交が下手ですが、日本のなかで外交の上手かった人は、聖徳太子と徳川家康だと思います。

雨森芳洲
 雨森芳洲は寛文8年(1668年)に生まれ、宝暦5年(1755年)に亡くなりました。滋賀県高月町の出身です。父親が医者の関係で、初めは医者を志しますが、後に儒学へ転向します。木下順庵の門下に入り、新井白石、室鳩巣らと共に優れた学者になりました。
 雨森芳洲が朝鮮との外交に接した話をします。彼は何故か対馬藩に就職し、朝鮮方佐役になります。対馬藩は、米は余り取れなかったが、中国、韓国との貿易(通商)での財政が豊かであった為、彼を改めて長崎で口語中国語を習得させる為に費用を出し、勉強させ(中国、韓国の人と代わらないほどの語学力になったと言われています)。後に朝鮮関係の諸事の役目につかせました。雨森芳洲は長崎で中国語を勉強した後、朝鮮のプサン(江戸時代プサンに行けるのは対馬の人だけでした)に3年間駐在します。そこで芳洲は朝鮮語を習得しました。芳洲は江戸時代には珍しい二つの国の言葉(中国、韓国)を話す事が出来る人でした。朝鮮通信使では、「芳洲は三ヶ国を喋る人で、特に上手いのは日本語だ!」と言っているほどです。通信使来日に際しては真文役となって江戸へ随行、また参判使や裁判役など、他の儒学者にみられない異彩を放ちました。幕府との折衝にも尽力し、徳川家宣の政治顧問となった新井白石と、通信使の待遇や国王号の改変を巡って議論を戦わせ(1711)、貿易立藩対馬の立場から銀銅輸出にかかわる経済論争を展開(1714)します。彼は60歳過ぎまで朝鮮外交をしました。江戸時代唯一外交関係を持っていた国は朝鮮だけでした。朝鮮通信使を招く費用は莫大で、江戸幕府は年間費用の三割位(百万両)を使っていたみたいです。

交隣堤醒とは
 雨森芳洲の交隣堤醒(1728)とは、対馬藩主に朝鮮との外交はどの様に行わなければならないのかと書いた意見書で、優れた本の一つです。
 交隣とは事大、大につかえるという意味です。中国は皇帝(エンペラー)、徳川将軍は日本国王(キング)、朝鮮も国王です。東アジアでの外交関係では、皇帝を名乗るのは中国だけでした。日本の天皇は微妙で、中国側では日本を格下の国王と思っています。
 儒教の外交は格式が問題です。家康は中国と貿易をしたかったのですが、日本が同格を主張した為に、中国との外交、貿易を諦めました。それで東南アジアとの貿易を盛んにしました。家康の主張は分かります。そもそも国と国との立場は対等ですから。秀吉が朝鮮(中国に行くための通り道)と戦争をした理由はそこにあります。同格の国どうしが付き合う事が交隣です。ですから日本と朝鮮は同格(交隣)です。お互いに独立国であって、お互いに平等です。
 芳洲が言いたい事は、国として同格であるということは、その国の文化が、どちらが優れているとは言えないということです。例えば来日した朝鮮の人に日本酒を勧めます。勧められた朝鮮の人は「旨い」と言うでしょう。だが日本酒が三国一の酒とはいってはいけません。芳洲の言いたいのは、相手が誉めた言葉が一番では無いということです。自分を一番と思うと相手をバカにする事にもなります。交隣堤醒には、朝鮮人に「貴方の国王は庭に何を植えていますか?」と日本人が質問をしたら、その朝鮮人は、我が国王は「麦を植えている」と聞いて、「下国にて候」と言った。そのころ江戸時代日本では、花(アサガオ)が流行っていて、国王が麦を植える事をバカにしたのです。芳洲は国王自ら農業をすることを良い事だと言っています。相手の国の文化を知らないと、民族と民族の間には誤解が起こりやすい。それは自分の物だけが優れていると思うと、相手をバカにする事にもなります。これは小さな例ですけれども、これが、積み重なって行く事で、その国全体がバカになっていきます。これが危険だということです。外交をする時こういう細かい事を知っていなければならないのです。相手の国の慣習、考え方を分かっていないと紛争が起きます。
 芳洲は小さな事でも、ゆるがせにしてはいけないと言っています。即ち私達が見てちょっと変だな、おかしいなと思う事があれば、何故そうなのかと探ってみれば、誤解や偏見や、たいていの事は避けられる、と芳洲は言いたかったのではないかと思います。これで今日はお話を終わります。




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