第8回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年1月27日
江戸を支えた商人の町・大阪




関西学院大学 大学院教授
宮本 又郎 氏

講演要旨

江戸時代は「停滞社会」と見られ勝ちですが、決してそうではなく、経済的には大きな躍動があり、近代への準備がなされた時代でした。そのなかで、大阪は全国経済の中心として、大きな役割を果たしました。なぜ大阪が繁栄したのか、米市場、ものづくり、問屋と両替商、江戸や諸国との関係などについてお話しします。 

1)大阪の成り立ち
 商人の町・大阪といってもそれは江戸時代以降のことです。先史時代・古代からの大阪の簡単な歴史を見ますと、大阪は現在の海岸線よりもずっと東まで海で、そこを河内湾と呼び、干潮時逆流する波が早いため、航行困難な波つまり難波、或いは浪速(なみはや)などと呼ばれていました。その後淀川などが運ぶ土砂で埋まって上町台地とつながったのです。

 その後河内王朝の難波大隈宮、高津宮や、長柄豊崎宮、難波宮が造られ、都あるいは陪都として200年間利用されました。したがって、この時代の大坂は、“難波”時代とも呼べる政治の中心都市の時代でした。それと同時に国際都市でもありました。三越の在った高麗橋付近が難波津として、貿易船や遣唐使船の発着に利用されました。
 仁徳天皇の時代には難波の堀江が造られ、これが現在の大川であります。しかし784年に長岡京遷都、そして794年に平安遷都、以降大阪は歴史の舞台から影を潜めてしまいます。この間むしろ堺のほうが発展しました。
 再び大阪が歴史の前面に出てくるのは1496年に蓮如が、もともと難波の宮があったところに大坂本願寺(石山寺)を建立したときからであります。古代の大阪が栄えていたころから700年後のことであります。しかし多くの人を集めた本願寺も信長との合戦に敗れ、上町台地から退却しました。この中世の大阪は宗教都市であったといえます。

2)近世大坂の成り立ち
 次に栄えるのは1583年に秀吉の大坂入城してから後のことです。南の堺を港とし、天満を寺町として、南北を軸に展開しよういうのが秀吉の都市プランだったとされています。しかしその直後大地震に見舞われたため、計画を変更し東西に発展させようとした。そして伏見などから商人を呼び寄せたところが船場であります。
 そして東西に走る経路を「通」と呼び、南北のものを「筋」と呼んだ。当時は現在とは逆に「通」がメインで「筋」はサブあった。
 この頃は武家の政権都市であったと言えます。大坂落城後家康の外孫松平忠明が城主(1615~1620)となり冬の陣夏の陣で荒廃した大坂を復興させました。三の丸城地に武士や町人を住まわせたり、船場や島之内の市街整理を行いました。その後、忠明は郡山に転封になり、大坂は1619年に大名領から天領になりました。1634年家光が來阪、地子銭(税金)免除となり堺、阿波、土佐、近江、薩摩などの各地から商人が集まり始めました。今も土佐堀や阿波座、安土町などの地名が残っているのはそのためです。
 もうひとつ重要なのは仁徳天皇時代に掘られた大川に加えて東横堀、西横堀、道頓堀、長堀などが開削されたことであります。これには、土地の造成、水運路、下水溝の三つの役割があります。また、これらの堀川は成安道頓や各地の商人などによって開発されました。その後、江戸時代になってから大坂は商人の町といわれるようになり明治以降も経済都市となったのです。
 以上のように、大阪は、古代は政治都市・国際港湾都市、中世は宗教都市、秀吉の時代は武士の政権都市、江戸時代以降は経済都市・商人の町という4つの系譜を持っているといえます。
3)江戸時代の大坂
 船場は堀川で区切られた南北2キロ東西1キロの範囲で南は島之内、西を下船場に接する民活による干拓造成の地であります。堀川には約200の橋がかかり、大阪城に通じる12の公儀橋を除くとすべて民間の資本で作られたものです。
 行政面でも町人の自治権は強く、行政司法警察の機能を持つ大坂町奉行の下で天満組・北組・南組の三郷の惣年寄、町年寄などが自治を行っており、小西来山の「…お奉行の名さえおぼえず年暮れぬ」にあるように、いわば「市長」の名さえ知らずとも暮らせたのです。

 大坂は摂・河・泉合わせて総石高70万で、幕府御三家旗本御家人合わせて106人の領主が支配していました。このうち大坂を本拠にしている大名は6家に過ぎず、他は関東など遠くから飛び地のように支配していたに過ぎません。そのため非領国として封建支配が非常に弱かった。「天下の台所」と呼ばれた所以は、「天下」とはどの領国にも属さない、「台所」とは経済的交易場という意味で、いわばインター藩市場、藩際市場であったといえます。

 人口の面では現在の北区中央区西区の範囲で1633年に27万人、一番多い1760年代(田沼時代)には40万人、幕末には上記の範囲から外側に移住があり30万に減少した。(大坂の範囲が広がったとも言える)こうして17世紀後半に「天下の台所」の姿が整った。

4)蔵屋敷と堂島米市場
 堂島の米市場の成立、米やお茶の専門の問屋の成立、両替商という専門の金融機関の成立が見られ、交易ルートとしては河村瑞賢が整備した西回り航路が発達し、日本海側の物資を下関経由で運び、大坂は以前からある樽廻船などの東に向かう航路と結び交易の中心地になりました。

 日本の人口は江戸時代の間に3倍弱の高い成長率で、1720年頃には3300万人になっています。畿内には往古より渡来人などが来住し、木綿、菜種油、酒造、金属加工などの面で優れた技術を持つ高い工業生産力の蓄積がありました。このため、地方からの農水林鉱産物などの生産物の流入があり、大坂からは手工業品が出ていきました。江戸は当時まだ後進地であったために大坂から物資を運ばれ、その対価として江戸からは幕府貨幣が大坂に入ってくることになりました。地方の領国間には取引はなく、大坂を中心に放射線状に地方領国との交易が行われたのです。 

 農民が年貢として納めた米を大名は一部は食料として消費しましたが、大半は大坂に送り売却して財政を維持しました。西回り航路整備以降は全国から毎年150万~200万石ものお米が大坂に集まりましたが、大坂で消費されるのは40万石くらいで、後は外に出て行くことになります。各藩は蔵屋敷を中之島界隈・天満辺りに設置し、仲買人に米切手の形でこれを売り、仲買人はこの米切手を堂島米会所(最初は淀屋米市)で売買しました。堂島では、この米切手の取引と並んで、帳合米という先物取引もおこなわれていました。堂島の帳合米取引は非常にすぐれたシステムで、世界最初の組織的な商品先物市場と言われています。この堂島には1300人位の仲買人が取引に参加していたことがわかっています。相場は旗振り通信によって東は江戸、西は久留米まで伝えられ、和歌山まで3分、広島まで40分という驚くべき通信速度で伝わったようです。

5)工業都市大坂
 1714年の幕府の調査結果によると、大坂は米、材木、菜種、綿、干鰯などの第一次産品(工業原産品)の移入が多く、菜種油、縞木綿、長崎下り銅、白木綿、酒、綿実油などの工業製品の移出が多かったことが分かります。つまり大坂は原材料を移入し、それを加工して移出する工業都市たったのです。高い技術力の存在がうかがわれます。江戸に行くものは「くだりもの」と呼ばれる高級品でした。鴻池家は清酒の江戸送りで財を成し、両替商に進みました。江戸で消費される酒の90%近くが大坂から送られたものでした。大量の河内木綿、泉木綿も作られ、大量に江戸に送られました。油については畿内の耕地面積の3分の2が菜種畑で占められ、江戸で消費される60%は上方のものでした。しかし醤油は幕末には銚子や野田に技術が取り入れられて関東で生産・消費されるようになりました。

6)貿易商品の集散
 鴻池家に並ぶのは住友家です。銅吹き法(南蛮吹き:鉱石から銅や銀などを分離する方法)を白水という外国人から学んだ蘇我理右衛門の実子友以が住友に入り、鰻谷で精錬を始め、その後、伊予に別子銅山を発見して銅山経営も始めました。住友の精錬銅は大坂から長崎に送られ、そこからオランダに輸出されました。唐物・唐反物・唐薬種が長崎から大坂にやってきて全国に送られました。俵物(海産物)も全国から大坂に集められて、長崎に送られて中国に輸出されました。現在の日本の貿易依存度は30%程度ですが、鎖国の時代にもかかわらず、江戸時代の貿易依存度が11%もあったのは驚きです。

7)問屋と両替商
 大坂には多くの問屋があり、最初は万問屋でしたが、商品ごとに採算が合うようになると、370以上の専業問屋が生まれました。両替商も出始め、お金の両替から発展してお金の貸し借りを始め、しだいに銀行のようになっていきました。手代などが集まって金銀両替相場を決めた場所が現在の大阪証券取引所の辺りにありました。地理的には北浜の方に両替屋が多く、道修町には唐物問屋(輸入商)、本町界隈には繊維問屋、島之内には小売商が多かった。越後屋は江戸で庶民相手に正札をつけて現金掛け値なしの商法で成功し、大坂にも進出しました。最近まであった三越のところです。

8)大坂の繁栄を表す言葉
  このように大坂は繁栄したが、それを表すさまざまな言葉があります。例えば、松平定信の「大坂の地は輻輳第一の地にして四方の都会ここにまさるはなし・・・」、或いは、草間直方の「大坂衰微すれば天下の衰微、実以って大坂は天府の国也」「大坂衰微すれば諸国も衰微するの道理あり」などであります。

9)江戸後期の大坂
 しかし江戸後期になるとだんだん地位が低下してきます。金融と商業が中心となってきて、いわゆる産業の空洞化が起こり、技術を誇っていた工業都市の性格が薄れるようになったのです。一般に財を成すと新儀停止、祖法墨守の状態になるといわれますが、リスクをとらなくなったのです。そして大坂を中心とする市場構造が崩れ、技術伝播の結果、さまざまな製品が各地で造られるようになり、大坂を介さず地方同士がネットワークのように結びつくようになりました。江戸でも江戸地周り経済圏が発達し、大坂への依存度が相対的には落ちてきたのです。人口統計で見ると、大坂の人口の全国人口に対する比率は1721年で6%、幕末では衰退して4%、しかし明治以降は盛り返し、第二次大戦中に落ちて、戦後盛り返し、万博以降はまた衰退してきているという推移をたどっています。今は7%くらいです。これから盛り返せるかどうかが重要な課題であります。

10)おわりに
 大阪のイメージといえば、経済都市で、がめつい町、しかもそれを自虐的に売り物にしている嫌いがありますが、それはひとつの面に過ぎず、過去大坂は不断に変貌してきました。難波宮、大坂本願寺、大阪城は同じ場所にあったものです。そして、その跡に大阪ビジネスパークができています。江戸時代には水の都と言われ、明治中期からは煙の都と言われ、河内木綿から紡績産業へと変遷してきました。
 大坂は千年の伝統を守り続けようとする京都や奈良とは違って、古いものを壊しながら新しいものを作り出すという「接木の思想」で発展してきた町です。「暖簾を守るために暖簾を付け替える」という言葉があります。伝統と革新とは、相反するものではなく、伝統を守るために革新していくことが必要であるということなのです。地盤沈下を防ぐために昔の「天下の台所」をもう一度取り戻そうなどという声もありますが、過去にこだわらず、5つ目の系譜の大坂を目指すべきです。また過去の変革を見てみると、革新は外からやってきています。河内王朝しかり、蓮如は北陸から、秀吉は尾張から、江戸時代の大坂商人たちも各地からやって来ています。柳田國男は「常民は漂泊者との出会いによって覚醒され活力を付与される」と言っています。純血主義より混血主義であります。異端、逸脱、異質ということを大切にしなければいけない。他所から来るものを大事にしなければいけない。そしてそういう人たちが活躍できる場を提供することが、大阪が生き延び、勢いを取り戻す術であると私は思います。




平成23年1月 講演の舞台活花



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