第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成22年12月16日
江戸幕府は海洋国・琉球から海外情報を得ていた




神戸女学院大学総合文化学科教授
真栄平 房昭 氏

講演要旨

これまでの「鎖国」イメージではなく、新たな歴史の見方について学ぶ。
その一例として、江戸時代における「琉球王国」をとりあげ、中国との交流を中心に見ていく。
近世の海外交流の窓口の1つであった琉球を通じて日本にもたらされた「海外情報」についても具体的に紹介したい。
 

1.はじめに
 私達は、江戸時代をどう考えるかを出発点にして、その考え方・歴史の見方を、海外からの情報を通じて見て行きたいと思います。
 今日は情報化社会と言われ、さまざまな交流がインターネット等を通じて入って来ますが、こういった事は今後も続くであろうし、情報化社会という歴史の歯車が後戻りする事は無いと思います。ただ懸念されるのは、人と人とのつながりが希薄になってはいないかということです。

 今の高校生・大学生は、携帯のメールのやりとりはしているが、年賀状とか、手紙を書いたりするコミュニケーションが減っているという情報化社会の別の一面もあると思います。
では「情報」という言葉は、いつの頃から、誰が使いだしたか?というと、明治以降に生まれたものであり、一つの有力な説として、森鴎外が「情報」という言葉を最初に使った人ではないかと言われています。後程申しあげますが、江戸時代の人は、別の表現「風説」という言葉で表現しており、「風説書」という書類で幕府の元へ届けられていました。江戸時代にもさまざまな海外との交流がありました。

2.江戸時代は鎖国か? 鎖国イメージの見直し
 最近の歴史研究では、これまでの歴史の見方について問い直しが進められています。固定的な見方ではなく、さまざまな見方から問い直されるものだと思います。江戸時代についても同様に、固定的な江戸時代像は、この20~30年で大きく変わって来ました。現代では、新しい事実も分り、新しい見方になっています。江戸時代は鎖国か?という問いは25年前頃から問い直しが始まり、事実の発掘を行い、見方を修正して来たわけです。

 私は、博物館の展示の中で生かしたいと思い、その一つとして国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)で日本の歴史を発信する展示のパネルを作成して来ました。
この数年間「江戸時代の鎖国像」を問いなおしながら、どう公開するか議論を重ね、昨年夏オープンし、20年前からの江戸時代の歴史の問い直しが姿を現して来ました。

 鎖国が「国を閉ざしていた」という閉鎖的なイメージではないという例として長崎で始まった交易があります。長崎は、オランダ、中国船が来航し、オランダ、中国との貿易額は大きなものがありました。従来の歴史研究では、鎖国令が5回発せられ、1639年鎖国の完成という説明になっていましたが、当時は「鎖国」という言葉すら無かった時代でした。
「鎖国」という言葉は、18世紀になって江戸の中期頃エンゲルベルト・ケンペルが使い出し、彼の発行した日本に関する情報の本は、英語、オランダ語、日本語に翻訳されました。日本語に翻訳したのは、志筑忠雄という通事(通訳)であり、初めて「鎖国」という言葉が使われたわけです。ただケンペルの真意は「閉じられた国」というイメージでは無かったようです。このように「鎖国」は、18~19世紀の造語であることが分って来ました。
この時代、外国との交流の実態はどうか?というと、オランダとの交易は17世紀より18世紀の方が盛んになっており、中国との貿易も増えている。鎖国になったのに交易量は増えているという矛盾したことになっており、本当に鎖国か?ということになるわけです。

3.江戸時代の対外関係 〈4つの口〉
 鎖国というイメージの見直しが進められ、4つの視点から鎖国をとらえ、複数のチャンネルで世界の物や情報が入るマルチチャンネル型の対外関係を江戸時代の日本は持っていた。
①長崎口…幕府から派遣された長崎奉行が、中国とオランダの窓口となり、交易が行われていた。
②対馬口…対馬では、対馬藩が幕府と朝鮮王朝と外交の仲立ちをし、交易が行われていた。朝鮮通信使が、朝鮮→対馬→九州→大阪→京都→江戸と回り交流を深めて行った。
③松前口…松前氏が、幕府の意向を受け蝦夷地(アイヌ)と産物の交易を行っていた。本州・特に大阪へ昆布の販売も行われていた。(大阪の昆布問屋)  その先のロシアとの交易も行われていた。(毛皮など)
④薩摩口(琉球、中国)…幕府の意向を受けた薩摩藩が、琉球を支配下におき琉球王国を媒介として数百年間中国との交易を行っていた。
以上4つのルートで物や情報の交流が行われていたわけですが、本日は④の薩摩口ルートを中心にお話しを進めたいと思います。

4.琉球王国と日本
 琉球は、やや特殊な歴史を歩むことになりますが、どういう経過があったのか、琉球史の主な出来事を検証してみたいと思います。
1591年 島津氏は、秀吉の命じた朝鮮出兵の軍役を琉球に対してその一部負担を転嫁したが、琉球は応じなかった。(15,000人の内7,000人分)
1605年 島津氏は、徳川家康に琉球出兵の許可を請い、家康は許可した。
1609年 島津氏は、琉球を制圧、琉球王尚寧以下100名を捕虜にした。
1611年 島津氏は、琉球の検地を完了(89,000石)、琉球王帰国を許可した。掟15条を下達し、以後幕末維新まで薩摩の支配下に入った。与論島までが島津氏直轄地となった。(かつては喜界島までが琉球領)また日本列島の最西端与那国島までが日本文化の影響範囲である。

5.琉球使節が見た北京
 海外情報が琉球を通じて日本(幕府)へどのようにして入って来たか?という問題です。江戸時代には「情報」という言葉は使われていなく、「風説」と呼ばれていました。
海外情報だけではなく、国内の大名家文書にも「風説書」が残っていて、幕末維新の動乱時の情報が多く残っています。世の中の動きに対する新しい情報を集めるのは人間の習性であり、江戸幕府も海外の事を知りたかった。その為、オランダ人に命じて、ヨーロッパ情報も取り込んで行くわけです。それが「オランダ風説書」と呼ばれる情報でした。この情報は、ヨーロッパからオランダ東インド会社本部を経て長崎に入って来ます。それを日本人通事達に翻訳させ、早馬で江戸に届けるという形で情報を集めていました。これが長崎口の役目だったわけです。
もう一つの情報源は中国でした。長崎に来る中国人の大半は、南の方(広東省、福建省、浙江省)から来た人達でした。毎年70艘ぐらいの貿易船が、江戸時代を通じて日本に交易にやって来ました。物産(生糸、絹織物)を満載し日本に来て、長崎を経由して全国に流通させていました。その中で最も有名な消費地が西陣でした。西陣の問屋は、中国産生糸を輸入し絹織物にして全国に販売していました。

 一方輸出は何かというと、鉱石(物)です。江戸時代最も重要な輸出品である鉱石を求めてオランダ船は日本にやって来ました。17世紀の鉱物は銀でした。これを求めて南蛮人、ポルトガル人、スペイン人、オランダ人、イギリス人が日本にやって来たが、埋蔵量が少ないので掘り尽くされてしまい、次に銅が有力な商品になり、精錬して延べ棒にし、海外(オランダ東インド会社、中国商人)に輸出していました。精錬業者は日本人の「泉屋」(現在の住友)であり、幕府から許可を得て、特権的商人になって急成長して行くのですが、その経営を支えたのは伊予別子鉱山でした。
銅の延べ棒輸出の見返りに、中国、オランダの情報をもらい、「唐風説書」、「オランダ風説書」として早馬で江戸まで届けました。
こういう形で、物と情報がリンクし合って、「鎖国」と言っても実態はそうではなく、さまざまな情報交流、物産交流があったわけです。

 琉球使節が、琉球口を通じて幕府へ伝えた情報の中に清代の北京地図があり、城壁、紫禁城、天安門、四訳館跡(琉球使節の宿泊所)、象房(ベトナム、シャムからの朝貢物)、国子監(国立学校)、孔廟、雍和宮(ラマ教寺院)、天主堂(キリスト教)等詳しく表示されています。中国の文化は一枚岩ではなく、漢民族、少数民族、チベット民族等、複数民族が住んでおり、宗教も混ざり合っていました。そのために北京には、仏教寺院、孔子廟、ラマ教寺院も混在しているわけです。そんな中キリスト教が、日本と違ってすんなりと北京に入って来ました。カトリック教の天主堂の中で、琉球人とロシア人神父が出会いました。彼の名は牧志朝忠と言い、首里王府の役人であり、中国語を学び、帰国後異国通事(通訳官)に抜擢されました。フランス船来航時には、通事の非凡な才能を発揮、薩摩藩主・島津斉彬に気に入られ、琉球から薩摩に呼び寄せられ活躍しました。こういう人物を生み出したのも、海外との関係・交流があったからなのです。

6.「琉球口」からの海外情報
 中国で起こった出来事が、海外情報として琉球を媒介にどのようにして日本にはいって来たか?を具体的に見て行きたいと思います。

 「華夷変態」という風説書が内閣文庫にあります。琉球人が幕府に伝えた情報です。中国情勢に関するさまざまな風説を伝えています。特に、1644年に清が明を滅ぼすという大事件が起きました。 中華(明朝)が夷狄(清朝)に滅ぼされる、明清交代という天下を揺るがす大事件でした。
これを日本側では「華夷変態」と呼んでいます。日本は明(中華)を応援しました。中華が滅ぼされ夷狄に代わられる事を好ましく思わない人達が幕府の中枢部(特に儒学者)にいました。その中で「華夷変態」という言葉が生まれたのです。林羅山家系の林家が海外情報を管理する役割を担っており、さまざまな情報が残っています。その中には中国の軍事紛争をめぐる情報が、琉球ルートからもたくさん入っている事が分ります。具体的に一例を挙げて見ますと、トルファンの東に「ハミ」という小さな部族国家がありました。このハミを制圧する為に北京から軍隊が派遣されました。
この情報が琉球ルートを通じて幕府に入って来ました。このように、幕府には内陸部の話からヨーロッパ情勢の情報まで、広い範囲の情報が入って来たわけです。

7.近世日本の中国認識と琉球の位置
 八代将軍吉宗は、内政改革だけでなく、海外情報にも敏感だったという側面もありました。ハミ国の動きも琉球を通じて積極的に情報を集めようとした事が分る資料が、内閣文庫に残っています。内容は、清朝の官服制度や武器について情報を収集しようとしたわけです。このように、琉球ルートの情報は幕府側からの要請に応じて集められており、積極的に幕府が情報の収集に努めていることであり、だからこそ鎖国という問題を考える見直しになるという事です。
琉球ルートの情報の流れは、中国から琉球へ伝わった情報が薩摩へ入り、さらに長崎から送られる情報とあわせて、薩摩から江戸へ送られます。
薩摩藩主へ集められた情報は、島津斉彬と考えを同じにする一橋派の5人(伊達宗城、近衛忠煕、徳川斉昭、松平慶永、阿部正弘)に伝えられます。つまり薩摩藩を中継地として日本各地に広がる情報ルートがあった事が分ります。
斉彬が、一橋派の信頼が高かったのは、海外情報に明るかったからです。ペリー来航時も、琉球からの海外情報を異国通事の牧志朝忠から入手しています。島津斉彬が、目をかけ育てた次の時代を担う人材の中に、幕末維新に活躍した西郷隆盛、大久保利通の両名がいました。

8.19世紀東アジア転換期における海外情報の事例
 中国で1851年「太平天国の乱」という内乱が起きました。封建制を打倒して自由平和の国を作ろうと洪秀全が、清朝に反旗を翻したわけです。十数年もの間長江流域各地で内戦状態が続き、この期に乗じて英・仏列強が介入、中国に進出して行きました。この内乱の為に中国の国力が消耗されて行きました。これに呼応するかのように、ロシア・トルコのクリミヤ戦争が始まり、この時に、一人の女性ナイチンゲールが敵・味方関係なく介護するという、後の赤十字の思想に繋がることになります。ヨーロッパ情勢が大きく変わって行きますが、こういった内乱やヨーロッパ情報が琉球ルートで薩摩藩・島津斉彬の元へ届けられて行ったわけです。

9.結びとして
 一般に我々は、鎖国という言葉に慣れ親しんでしまった結果、それを無批判に受け入れて歴史のイメージを間違って理解している側面もありました。海外情報を受信する多様なチャンネルがあった事を、本日は4つの口、とりわけ琉球口を中心とした琉球ルート情報についてご紹介しました。

 現代を生きる日本人は、インターネットが発達しても、それだけでは十分ではなく、さまざまな民間交流で、国際交流しながら海外情報を集めて認識することが重要であります。世界をどういうチャンネルから認識して行くかという事を考える1つの手立てとして情報を手がかりに歴史を見るという話です。

                    ≪講師未見承≫





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