第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年12月17日
南極から地球と人類の未来を考える



朝日カルチャーセンター社長
国際基督教大学客員教授
柴田 鉄治 氏

                     講演要旨

 
南極は国境もなければ軍事基地もない平和の地です。また、地球環境のバロメーターでもあります。2回にわたる南極行の写真とともに、南極の素晴らしさと、「人類の未来のために、世界中を南極にしよう」という夢を語ります。
 

まえおき
 今日の新聞に4代目の南極観測船「しらせ」南極到着のニュースが出ていました。朝日の女性記者に加えて全国から選ばれた奈良の高校の先生と千葉の小学校の先生の2名が乗り込んでいます。初めての試みですが、南極のすばらしさを全国の青少年に伝えるには先生に行ってもらって南極授業をしてもらうのが一番だと考え、極地研究所に強く要望して実現したものです。南極は自然がすばらしいのはもちろんですが、南極条約に基づき国境もなければ軍事基地もない人類の共有財産として各国が観測に協力し合う平和なところです。環境を守り、人類を守るために南極のすばらしさを世界に広げることが大切です。私の主張「世界中を南極にしよう」は、地球の寒冷化ではなく、世界中を南極のような「環境を守りつつ平和な地球にしよう」というものなのです。

Ⅰ.北極と南極の違い
 北極は海ですが南極は日本の約40倍の面積をもつ大陸で、何千年、何万年と降り積もった雪が凍って平均2000mに達しています。海抜の高さでは、世界で最も背の高い大陸です。人類がその存在を知ってからまだ200年余しか経っていません。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコットが南極点一番乗りを目指して激烈な競争を繰り広げたのが、1911年~12年のことで、いまから僅か97年前のことです。その同じ年に日本の白瀬探検隊が南極点を目指し、なお1000キロもある地点までだったとはいえ、南極大陸を踏破していることを我々は誇りにしてよいことだと思います。

Ⅱ.日本の南極観測が始まって52年
 国際地球観測年(IGY)に各国が協力して南極観測に挑もうという計画が進んでいることを知った朝日新聞社の矢田喜美雄記者が日本も参加できないかと考えたのが発端でした。敗戦から10年のまだ貧しかった国民を元気づけるニュースにもなると朝日新聞社が学界に提唱し、賛同を受け、政界・官界をも説得して、日本は南極観測に乗り出したのです。初代の観測船「宗谷」が氷に閉じ込められるたびに国民はハラハラし、ソ連の「オビ号」に助けられたと聞いてホッとし、昭和基地に置き去りにせざるを得なかった15頭のカラフト犬のうちタロとジロが生きていたというニュースに日本中が沸きかえったこともありました。一時は観客動員数日本一になった映画「南極物語」でこのことを知った人も多いと思います。

Ⅲ.私の南極体験
 「宗谷」の老朽化で4年間中断したあと、新しい観測船「ふじ」を建造して観測を再開したその第7次観測隊に、30歳の私は報道記者として同行しました。このとき私は南極の大自然の素晴らしさにすっかり魅せられたのです。接岸した「ふじ」の近くに集まってきた500羽にもおよぶ可愛いペンギンのしぐさに、私はすっかりとりこになりました。氷山の魅力もすごい。暴風圏を通過するとき船底の丸い砕氷船はよく揺れますが、そこを過ぎて見えてくる氷山は、何万年もかけて降り積もった雪が固まってできた氷が大陸から零れ落ちたものですから純水の氷であり、大昔の空気が詰まっています。氷山の氷で「水割り」を作ると、その空気がはじけて挨拶するように小さな音を立てます。氷山の“つぶやき”とか“ささやき”と名づけてその音に耳を傾けながら飲むと格別の味がします。科学的には氷山の氷は、昔の大気の様子を知らせてくれる地球の「過去帳」であり、たとえば3000mの深さのところから掘り出した氷の空気は70万年前のものだったことが判明するなど、貴重な資料といえます。

Ⅳ.40年ぶりの南極の姿
 47次観測隊に同行した私は、氷山の浮かぶ海を見て40年の間隔がタイムスリップし、30歳の私と70歳の私が一体になるような不思議な感覚に襲われ、その後の旅の間中、それが続きました。久しぶりにふるさとに戻ったとき「子どもに戻った」ように感じるあの感覚に似ていました。
 今回の「しらせ」は、「ふじ」より砕氷能力も格段に向上していましたが、それでも氷に体当たりを繰り返すチャージングを500回もして昭和基地へ着きました。途中、船が氷の中で止まったとき、見物にやってくるペンギンの姿を楽しみにしていたのですが、前回500羽も歓迎してくれたペンギンが今回は非常に少なく、個体数が減少したのかと心配しました。しかし、あとで集団棲息地(ルッカリー)に行って見ると、以前と変わらぬ数のペンギンがいたので安心しました。多分何度も観測隊が来るので好奇心が薄らいだのかも知れません。
 そして今回基地への第一便で着いたときに驚いたことは、建物が島中に増えてアンテナ類が林立していたことでした。40年前はいわば山小屋同然でしたが、今は小都市の感、昔の建物は物置として隅に追いやられていました。40年前には風呂もトイレもなかった夏隊員の宿舎も、今は朝から風呂が沸き、トイレはウォッシュレットまで備わっているのです。レストランもすばらしいものでした。医務室には“中央病院”という看板を掲げて女医さんがいました。日本の観測隊員にはじめて女性が登場したのはやっと20年前からで、最初の30年間は男だけの世界でした。各国とも女性隊員の参加についてはいろいろ議論があったようですが、日本は外国より参加が遅れたようです。
 南極の夏は白夜で、元旦に日の出を拝もうとしても、日が「出る」のではなく、太陽が地平線に一番近い、低い位置にある時ということになります。1日中照っているので、日中の気温は摂氏6度になることもあり、周りがぬかるむこともあります。寒さに慣れますと「暖かいな」と思うほどです。太陽発電が大いに活用され電力をまかなっていました。ただブリザードになりますと、自分の手の先も見えなくなります。日本の観測史上唯一の事故は、4次隊の福島隊員が犬の餌をやりにいったあと戻れなくなり、8年後に遺体で発見されるという残念なことがありました。その後は必ず2人で、飛行機の場合も2機で行動することになっています。
 47次隊でも「ドームふじ基地」で発病した日本の一隊員を、ドイツ、スエーデンの飛行機でリレーして日本へ送り返してもらったことがありました。南極ではこうして各国が助け合っているのです。
 基地ではごみの山が見られましたが、基地のクリーンアップ作戦が実施され、ごみを日本へもって帰る作業をしているということでした。40年たって一番変わったのは通信で、最初のころはモールス信号で原稿も漢字の説明もカタカナで一字ずつ送っていたので実に大変な作業だったのですが、今回はメールと同じように送れるし、インターネットも使えて、電話も市内と同じようにできるようになっていたのです。また、変わっていないところとしては、いうまでもなく南極の大自然、さらに昭和基地での夏作業のやり方も、科学者や医者も全員総出で早朝から深夜まで建設作業に取り組むやり方は同じでした。

Ⅴ.南極観測の科学的意義
 南北両極で見られるオーロラは、太陽からの電気をもった粒子が地球の磁石の極に引き寄せられて上空の空気とぶつかって光を発するものです。当然暗い冬にしか見えません。私が40年前に訪れた時は「南極は宇宙に開かれた地球の窓」という言葉はこのオーロラのためにあったのですが、今は隕石のためにあるといえます。氷の上では発見がたやすく、隕石発見は日本隊の特技といってもよく、この30年間に南極で見つかった約2万個の隕石のうち8割は日本隊の発見によるもので、日本はいま世界一の『隕石持ち』なのです。
 南極はまた、いま世界の注目の的である地球環境問題のバロメーターでもあります。地球温暖化が進んで南極の氷が融けたらどうなるか。南極の氷の消長は、世界の気候変動や海面上昇のカギをにぎるものであり、また、温暖化の原因となる大気中の二酸化炭素の増加は産業革命以来であることなども、「地球の過去帳」である南極の氷床の分析から明確になったのです。さらに、清浄な南極は、地球の汚染度を知るバロメーターでもあり、南極にあるはずのないPCBが見つかったりもしています。
 また、地球の成層圏で太陽からの紫外線などをカットしている、いわば地球の「日焼け止めUVカットクリーム」ともいうべきオゾン層に、大きな穴があいている「オゾンホール」を南極上空で発見したのも日本隊の功績であり、その原因とされているフロンガスの規制という新たな地球環境問題を登場させました。オゾンホールの発見によって「地球の病気はまず南極に現れる」という言葉まで生まれ、南極観測の重要性をあらためて示したのです。

Ⅵ.南極条約とは
 1959 年に制定され、61年に発効した南極条約は、厳しい冷戦下で国際地球観測年を終えた米ソ両国が、互いに相手側が南極に軍事基地を造るのではないかという疑心暗鬼にとらわれた結果、生まれたものだが、できあがった条約は素晴らしいものだった。第 1 条に軍事利用の禁止をうたい、第2条、3条で科学観測の自由と国際協力を定めています。第4条で領土権の凍結を決め、第5条以下で核実験や放射性廃棄物処理の禁止など、環境保全を厳しく求めています。
 当時、南極に基地を持っていた日本を含む12カ国が署名して制定されましたが、最も難航したのは領土権の凍結でした。原署名国12カ国のうち、英、仏、ノルウェー、アルゼンチン、チリ、オーストラリア、ニュージーランドの7 カ国が南極に領土権を主張しており、それらの国を非主張国の米、ソ、ベルギー、南アフリカ、日本が説得した形です。とくに日本は、白瀬隊の探検を論拠に、南極に領土請求権があるとしていた主張を戦後の講和条約で放棄した国として説得役に回ったといわれています。
 私が参加した7次隊は、昭和基地からの帰途、東隣のソ連の基地を訪れたとき、言葉が通じないのに大歓迎を受けました。また、西隣のベルギー隊を「ふじ」に招いて交流したときもそうでした。南極がパスポートもビザも要らない、人類の理想を先取りした地球上で唯一の場所であることを実感したのです。さらに3年後の1968年、私は第9次隊による極点旅行を取材するため、アメリカ隊の飛行機で南極点の基地に飛び、南極点での日米両隊員らの心温まる交流ぶりを目の当たりにしました。この2 回にわたる南極行で、世界は一つ、人類はみな兄弟姉妹であることを実現している南極という地に、私は深く感動したのです。

Ⅶ.世界中を「南極」にしよう!
 70歳になってもう一度、南極を再訪したのは、私の残りの人生を「次世代にこの南極のすばらしさを伝える語り部になろう」と決意したからです。各国が国益を主張してぶつかり合っていたら、戦争はなくせない。人類の理想を先取りしたという点では、南極は地球の憲法九条だといえましょう。敗戦直後には、ノーベル賞の湯川博士もしきりに言っていた「世界連邦をつくろう」という言葉も、いまや誰も言わなくなり、国益ばかりを主張する風潮が強くなってきました。たとえば、地球温暖化を防ぐための京都議定書から「国益を盾に」米国が離脱したり、中国が参加しなかったりしていますが、これではとても地球環境は守れない。
 また、核兵器を持ちたいという国が、いまのように次々と現れてくるなら、やがては核戦争が起こることになるでしょう。核戦争が起これば、地球と人類は破滅します。つまり戦争をなくすにも、地球環境を守るにも、国境を超えて地球全体を一つに見る視点が欠かせないのです。「愛国心」ではなく、「愛地球心」でなくてはならないのです。
 ちょうど私が南極から帰ったころ、竹島をめぐって日韓両国が激しく対立していました。それを見て我慢できなくなり、「竹島問題、解決に南極条約の知恵を」と題する意見を朝日新聞に投稿したことがあります。かつて領土権を主張して旗を奪い合ったりしていた英国とアルゼンチンが、南極条約によって人類の共有財産とし、いまは仲良く協力し合っていることを伝え、日韓両国もそれを学ぶべきだと主張したのです。
 これからの世界は「国境を超えた視点」を持った人を育てていくことが大切なのです。この講演会もその一つで、みなさんも私の話をぜひお子さんやお孫さんたちに伝えてください。私も最近、子供向けにそのことを「国境なき大陸―南極」という本にして冨山房インターナショナル社から出しましたので活用していただけたら嬉しく思います。
 私は去年また、ピースボートの船に乗って、4度目の南極に行きました。ちょっとお金はかかりますが、みなさんもぜひ行って見てきて下さい。若い人は観測隊員になって行っていただきたいと思います。地球の一角に人類の共有財産という形で、理想を実現したモデル地域があるのです。「世界中を南極にしよう」という形でそのことを次の世代に伝えることに皆さんも一役買っていただきたいと思います。






平成21年12月 講演の舞台活花



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