第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年11月19日
歴史から見た近世大阪
~先人たちの近代的な精神に学ぶ~



日本経済新聞社 編集委員
関西大学法学部非常勤講師
脇本 祐一 氏

                     講演要旨

 
激しく環流する貨幣が大衆(町人)を生み出した江戸時代。世界に冠たる経済制度や近代的な思想、芸術文化の華やぎは、発達した貨幣経済の賜物だった。“町人の都”の成り立ちに触れながら「民」がもっとも輝いた時代の意味を考える。
 

はじめに
 歴史に学ぶというのは、過去に起こった出来事の意味を、今の視点で考えてみることで、未来のヒントを得ようとするところにあると考えます。

楽市楽座
 戦国時代という中世の終わりに織田信長は登場し、近世という新しい時代の幕を開けた。
信長が天下統一に際し、楽市楽座という経済政策を導入した。
中世の経済活動は「座」という一種のギルドが特権を付与されて仕切っており、座の商人が物の値段など取引の一切を決めていた。それが全国の商取引の指標になっていた。座の特権を担保したのが、例えば油だと、軍事的にも政治的にも権威を持っていた石清水八幡宮である。ここは源氏の氏神で、京都の朝廷や貴族も広く帰依していた。
戦国期は、ご承知のように各地に新興の戦国大名が割拠して覇を唱えておりました。戦国大名は軍事拠点であり、経済活動の拠点になる城下町を建設して領国経営に当たった。城下町建設の原動力になったのが、領国経済の成長で力を付けてきた新興の城下町商人です。彼らは座の商人に支配されない、自由な経済活動を望んだ。そこに目をつけたのが、戦国大名を代表する信長です。天下統一には軍事力がいる、その裏付けには経済力がいるので、新興の城下町商人に自由な経済活動を保証せねばならない。その為には、既得権益で守られた「座」を無くす必要があり、それが楽市楽座という経済政策であった。

広瀬旭荘
 大阪・京都・江戸の三都で生活をした儒学者の広瀬旭荘は19世紀はじめ、著書「九桂草堂随筆」の中で、「天下の貨七分は浪華にあり、浪華の貨その七分は船中にあり」と書いている。江戸後期の大阪には全国の物産の7割が集まり、その内の7割は船で運ばれてきた。即ち江戸時代は海運の時代でした。
もうひとつ 旭荘は三都の比較をしている。
大阪人は「貪であり、殺気があり、富を尊ぶ」(進取の気性に溢れたバイタリティの持ち主が大阪人で、富即ちお金を大事にする)
京都人は「細であり、矜気(きょうき)があり、土地を尊ぶ」(繊細で、尊大であり、都という土地柄を大事にする)
江戸人は「夸(か)であり、客気(かっき)があり、官爵を尊ぶ」(気位が高くて、義侠の趣きがあって、身分を大事にする)
三都夫々性格が違うと言っている。これは19世紀はじめの話であるが、それより100年前(17世紀末から18世紀のはじめ)の元禄時代に、井原西鶴は「日本永代蔵」の中で「金銀こそが町人の氏系図だと」言っている。「天下の台所」の大阪の実態をよく表わしている。

関一の「大大阪の精神」が問いかけるもの
 大正後期から昭和初期に、大阪の歴史をよく理解して市政運営に当たった第七代市長の関一が書いた「大大阪の精神」(大正12年)を読むと、近世の大阪がどのように形成されてきたかがわかります。関一は「近世の大阪は伝統的に、自治の町であり、町人の都として特有の文化を発達させた。この自由で個人的な空気のなかで企業家精神が発達した歴史を大阪は持っている。近代の大大阪の建設も自由な進取の企業家精神が発揮できる町にするべきだ」と言っています。

秀吉による大阪城下町の建設
 太閤秀吉によって着手され、徳川の手を経て現在の町の原型が出来上がった。秀吉の大阪城下建設は二期に分かれ、当初は東横堀川の東側の城内が大阪だった。二期計画では、東横堀川から西へ延びて、現在の御堂筋辺りまで城下が広がった。今の船場に当たる地域ができたのはこのときです。
続いて第三期に相当するのが、夏の陣の戦災復興事業です。徳川氏の手でさらに西に城下町は延伸して木津川岸まで広がった。
秀吉は、もともと政治や経済、文化の中心だった京都と、国際貿易港の堺との間に、巨大都市・大阪を建設して、京都~大阪~堺を結ぶメガロポリスを計画していた。それが、慶長の伏見地震で堺が壊滅状態になり、計画は変更されて、堺に代わる外港が船場の西端、安治川周辺につくられることになった。
秀吉が目指したのは中央集権制で、度量衡の統一、関所や座の廃止のほか、はじめて統一貨幣を発行した。天正大判や博多御公用銀がそれです。豊臣を倒した後、徳川政権はそっくり秀吉の政策を引き継いだ。貨幣については慶長小判や丁銀、慶長通宝などの金貨・銀貨・銭貨の三貨体制を整備した。大阪について政治機能を抜いて、全国経済の中央市場と位置づけた。

藩際経済の共同租界
 江戸時代は300の藩がそれぞれ領国を統治する分権国家だった。各藩は藩経済を維持・発展させるのに、自国の産物を大阪に搬送して販売し、必要な物資や兵器を購入したり、国許や江戸藩邸が必要とするお金を送金した。従って中央市場の大阪は、藩際経済、今でいうところの国際経済の結節点として共同租界のような性格をもった町だった。
「天下の台所」の「天下」には二つの意味があった。即ち幕府と諸藩です。大阪は天領だから幕府とは政治的、あるいは士農工商の身分的な上下関係にあるが、諸藩との関係は経済的な取引関係だから、対等であった。しかも、分権国家なので、天領といっても幕府は諸藩を無視して勝手な統治はできなかった。
いわば大阪は権力の真空地帯だった。当時の日本は身分制度によって侍が支配する国ではあったが、こと大阪に関しては権力の真空地帯という町の性格から、必然的に町人が活躍する余地が大きくなった。

蔵屋敷は経済外交の拠点
 共同租界を象徴するのが治外法権に守られた各藩の蔵屋敷です。諸藩は中之島界隈を中心に蔵屋敷を作って経済外交を担った。名前のとおり物産を保管する倉庫の機能もあったが、もっぱら蔵屋敷は通商外交の大使館のような役割を持っていた。これに対して江戸にある藩邸は政治外交の大使館といえる。元禄時代には100近くの蔵屋敷が大阪に置かれた。
諸藩の通商外交が重要度を増すのに付随して生れたのが歓楽街の新地です。有力な町人を接待したり、蔵屋敷の留守居役が情報交換する場が必要になった、それらは「御振る舞い」「御組合」と呼ばれ、堂島川の北側に堂島新地や曽根崎新地が造成された。今の北新地の原型です。

町人の財力
 元禄時代の記録では、「長者」は資産が銀1000貫超 石高換算で7万石に相当、「分限者」は3万5千石に相当、「金持ち」は1万石相当した。
ちなみに最大の豪商だった鴻池の資産は銀5万貫 石高換算で350万石になる。対して幕府の石高は収入ベースで800万石だから、資産ベースで350万石に相当した鴻池はじめ、町人の財力がいかに大きかったかがわかる。

町人の都都市開発と町人自治
 大阪夏の陣の戦災復興では町人が実質的な街づくりをした。元和元年(1615年)から15年間に開削された、道頓堀・江戸堀・京町堀・西横堀・長堀・海部堀・立売堀・薩摩堀などの堀川はすべて町人請負でした。この地域は湿地帯であったから土地を造成するには、水を抜いて木津川に落とす為の堀川が必要となった。
ここで町人の知恵が発揮されたのが、江戸堀の開削に際して発行された銀札です。桔梗屋と紀伊国屋が発行した、いわば建設債券=紙幣だが、正貨と交換することを約束した紙幣を発行して工事の事業費を賄った。(日本最古の紙幣は伊勢の山田羽書で、伊勢商人が発行した地域通貨である)

企業家精神の発露
 商法のような取引ルールの無い中で、経済活動をスムーズに行うために町人は何をしたか。
両替商金融
 江戸時代は江戸を中心とした関東経済圏では金遣い。対して上方経済圏は伝統的に銀遣いなので、取引の決済には金と銀との両替が必要となった。しかも、幕府の正貨である金貨や銀貨のコインは鉱物資源だが、元禄時代には、すでに金・銀は戦国時代ほど産出しなくなっており、通貨供給(マネーサプライ)に限界があって常に経済成長の足を引っ張る恐れがあった。いわゆるデフレ圧力で、江戸時代を通じて世界的に見てトップクラスの為替や手形などを駆使する信用経済が発展したのは、こうした幕府の正貨不足が背景にありました。
ここに両替商の出番がある。正貨による通貨供給不足を補うのに、藩札・為替手形・小切手をフルに活用したのだが、為替手形や小切手などの与信をしたのが両替商である。
これら信用貨幣は、両替商の大きな財力が与信の裏付けになった(鴻池の資産についてお話したように、豪商と呼ばれた町人の大きな財力は経済発展に不可欠だった)ちなみに両替商という新しいビジネスを創業したのは、大阪の豪商・天王寺屋五兵衛で、三代将軍の家光の治世だった寛永年間です。
株仲間
 町人は株仲間という同業組合を作って、商取引のルールや値決め、品質管理など一切のことを自主的に行った(この株は売ることが出来た)。 株仲間は、独占的なカルテルだとして今も批判する学者がいるが、実際には経済活動を円滑に進める効用の方が大きい。それが証拠に、天保の改革で、老中の水野忠邦が株仲間の解散を命じた結果、物価が暴騰して経済活動は大混乱している。

米市場(株仲間の集大成と言えるのが堂島米市場である)
 米延売りとは米の先物取引のことである、政治商品であるコメの値決めを大阪商人に委ねるのを幕府は長い間、よしとしなかったが、八代将軍の吉宗の時代に米仲買や両替商600人が幕府に嘆願して、堂島米会所に先物取引が認められた(バックには加賀藩や長州藩がいて開設の運動を応援した)。
世界最大のシカゴ商品取引所の取材をした時、モデルは「堂島」であると広報担当副社長が話してくれた。シカゴ取引所より100年以上も前、大阪商人は世界に先駆けて商品先物取引という先進的なシステムを作り上げている。そのことはシカゴ取引所の便覧に書かれております。

町人自治
 当時の大阪には武士は最大でも1万人程度しかおらず、人口40万人の大都市を実質的に治めたのは町人である。武士の警察力に頼ったのでないことは、大塩平八郎の乱で露呈した。烏合の衆が暴発しただけの騒動に大阪町奉行所が対応ず、大阪城兵が出動してようやく鎮圧したことは、平時に町人自治が機能していたことを裏づけている。
町人が、市役所のよう惣会所を天満・北・南の「大阪三郷」に設け、惣年寄、町年寄など夫々役職を決めて町政に当たった、勿論、町奉行所との連携はあるものの、身分制度にかかわらず町人の自治意識が強くなっていった。
道修町の薬種商出身の俳人、小西来山の「お奉行の 名さえ知らずに 年暮れぬ」という句がそれを物語っている。
冒頭に話した、関一・元市長の「自由なる個人的で云々」という表現にあるように、大阪町人の自由な気風は一面で近代文学の萌芽となった。元禄文化を彩った近松門左衛門や井原西鶴の作品にそれは代表されます。そこに共通するのは、封建体制の中では、反封建的ともい得る人間賛歌である、

商都は学都なり
 同じく関一は「大学は都市と共にあり、都市は大学と共にある」と言っています。
懐徳堂(5人の町人が作った町人学問所、1724年)が有名だが,町人学問所としては、平野郷の含翠堂(1717年)の方が先である。
中世の終わり、平野は堺と並ぶ完全な自治都市でした。含翠堂は七人の平野商人が作った(七名家と言われる)。学主は三宅石庵でした、この人は懐徳堂の初代学主にもなります。懐徳堂は設立前から含翠堂と関係がありました。

三宅石庵は各学派の良いとこ取りをしたので、“ぬえ学問”と揶揄されたが、一つの学統に寄りかからない石庵流は大阪町人の気分や大阪の風土にふさわしいものだった。
大阪の町人学者は、実践の中で身につけたものを学問的にレベルアップしてゆくのを理想とした。臨機応変に、対処療法的に問題を考えて解決する実学を好んだ。懐徳堂の学問レベルは高くて、江戸にあった幕府の昌平坂学問所と並び称された。そこから富永仲基・山片蟠桃・草間直方・中井竹山のような錚々たる町人学者が輩出しました。

富永仲基(醤油醸造業)は30才そこそこで亡くなった天才的な思想家であり、哲学者である。「加上説」という独自の手法によって儒教、仏教、神道を批判し、懐徳堂の異端児ともいわれた。
山片蟠桃(枡屋と言う両替商の番頭)は、破綻寸前の仙台藩の財政を救済すると同時に、家運の傾いていた主家の経営を立て直した。経営者としてもトップクラスの人物である。
学問のベースは儒学(懐徳堂は儒学を教える。)だが、辞世が「地獄なし、極楽もなし、我もなし、ただあるものは人と万物」だったように、蟠桃はすごく唯物論的です。麻田剛立に師事して天文学を学んだこともあって、早くから太陽暦の導入を提唱しており、日々の商売を通した実践で鍛えられた、実証主義的な合理主義に特徴がある。西欧の近代主義とつながる要素を持っているのは、そのためだろう。

麻田剛立(杵築藩の御典医。脱藩して、懐徳堂の中井竹山・弟の履軒を頼って來阪、私塾を開いて天文学を教える)
月にはクレーターが200位あるそうですが、その中に麻田剛立にちなんだ「アサダ」という名前のクレーターがあります。これは数年前、冥王星を惑星から準惑星に格下げした国際天文学連合(IAU)が認めたもので、今でも国際的に評価されている人物です。日本の天文学の祖とされます。
出身は侍ですが、大阪にいて中井竹山・履軒兄弟はじめ懐徳堂とは深い交流があり、事実上の町人学者です。
麻田の弟子に質屋出身の間重富と、大阪定番の下級武士の高橋至時がいる、高橋至時は小惑星に「よしとき」という名前が付けられている。二人はのちに幕府の天文方に登用され、「寛政の改暦」を完成させている。その弟子が伊能忠敬です。
江戸時代の学問には儒学系と蘭学系がありますが、大阪の知のネットワークを見ると、二つの学統が融合している。建前にとらわれない、実証主義的な実学を育んできた大阪の学問的な風土の成せるところです。

橋本宗吉(電気学の祖、傘職人)の才能を見込んだのが、間重富です。間の援助で橋本は江戸に遊学し、日本の電気学の祖となる。
博物学の木村蒹葭堂(堀江の造り酒屋の主人)は蒹葭堂会というサロンをつくり、珍しい膨大なコレクションに惹かれて、当代一流の文化人たちが入り浸っていた。文人大名の松浦静山、作家の上田秋成、俳人の与謝蕪村、探検家の最上徳内、画家の池大雅、狂歌の太田蜀山人らジャンルを超えて交流があった。
道頓堀では、興行主が現われて、蒹葭堂のサロンに珍しいコレクションが加えられるとチラシを配って実演・展示していた。まさに「知の巨人」と言われた蒹葭堂らしいし、学術的なコレクションを商売のネタにする商魂は大阪ならではでしょう。

海保青陵(丹後・宮津藩家老の息子)は学問をしたいとして浪人し、全国を歩いた旅学者である。
その旅先で、経済や産業のいろんな現場を見る、当時は交通手段が発達していなかったので、旅を通して見聞きした現実が青陵の独特な学問を作り上げる。彼は「乱世は王道だが、治世は覇道を以ってなす」と書いている。
乱世は君主の徳が大事だが、平和な世は藩単位の経済戦争を勝つことが大事だとして、一藩重商主義を提唱した。経営コンサルタントとしてモテモテで、加賀藩や尾張藩など多くの藩の経済指南役に呼ばれた。

青陵が新しい統治の原理として主張したのが「取引」です、君と臣の間柄は取引(=市道)、即ち契約関係だと言う。経済競争だから勝ち負けがあるが、そういう大きな枠組みの中で競争することにより、全体の福祉が増進すると考える。このように青陵の思想には近代経済学に通ずるものがある。経済というと、それまでは経国済民・経世済民という儒教的な考え方がもっぱらだったが、儒教的な考え方から経済を開放した最初の人が青陵だと言ってよい。

まとめ
 江戸時代は暗黒時代で、封建制の停滞した社会だと学校で教えられたが、まったくの嘘でして、封建制ではあったが「民」が力を発揮する、決して封建的社会ではなかった。
そのことは、私たちが将来を考えた場合、民主党政権になって予測は付かないが、地方分権をマニフェストに掲げているように中央集権から地方分権に踏み出さねば、この国の仕組みはもたないであろう。
霞ヶ関で全てを決めるという、明治以来の官僚制度が行き詰まっている。制度疲労どころか壊れかかっている。そのときに、近代よりも一つ前の近世はどうだったか、もう一度考えて見る意味があると思う、




今回も新型インフルエンザ感染防止のため入り口で手の消毒をお願いしました。



平成21年11月 講演の舞台活花



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