第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年7月16日
 
脚力尽きるとき、山更に好し
~老いのよろこび~



桃山学院大学文学部教授
串田 久治 氏

                     講演要旨

 
「考」を漢和辞典でひくと、その部首が「老」だとわかります。文字の成り立ちからすれば「老」と「考」とは同義です。「老いる」とは、思慮分別が備わり人間的に円熟することです。それなのに、「老いる」ことを忌み避けていませんか?
 

1.はじめに
 本日のテーマ「老いのよろこび」について、「老いる」ということに喜びに感じている方はおられますか?(反応なし) では、逆に、「若返りたい」と思っている方はどうでしょうか? 今手を挙げられた方(多数)、講義の最後にもう一度お聞きますので、どうぞ心しておいて下さい(笑)。
 私は、国立・公立・私立と、3種類の大学を渡り歩いて来ましたが、いい経験をしたと思っています。「末は博士か大臣か」と言われた昔とは違い、今の日本では大学教授も博士も尊敬の対象ではありませんが、大学で学ぶということの意義は、今も昔も変わりません。この熟年大学も同じです。
 一般に小・中・高では「生徒」、大学では「学生」と言われますが、何が違うのでしょうか? 私の勝手な解釈ですが、「生徒」は「生きること徒(いたずら)なり」、ただ生きているだけ、それに対して「学生」は「生きることを学ぶ」者、すなわち、大学はいかに生きるかを学ぶ場だと、いつも学生に言っています。この熟年大学も、この先どう生きるかを学ぶ場です。ですから、今日は是非「老いのよろこび」を実感していただきたいと思います。

2.「老いのよろこび」(Ⅰ)
 秦の始皇帝が不老不死を希求したことは、よく知られていますが、始皇帝は「老い」に不安を感じ仙薬を求めたのでしょうか? それとも、徐福という宣伝マンのプロパガンダに乗せられたのでしょうか?  「老い」を受け入れることができなかった始皇帝は、徐福に「不老不死の仙薬があります」と吹き込まれ、まんまと口車に乗ってしまったのではないでしょうか。
 そもそも肉体的成長とは、死に向かって一歩一歩近づいていることに他なりません。しかし肉体の衰えと精神の衰えとは、必ずしも一致しません。確かに、歳を重ねることは肉体的老化を意味するのですが、肉体的老化=精神的老化ではないでしょう。
 近頃はやりの健康ビジネスのコマーシャルは、若返りたいというのが人間の本能であり、それを代弁しているかのように喧伝しますが、若返ることは本当によいことなのでしょうか?   漢字の成り立ちからいえば、「老」と「考」は同義です。考=寿考=長生き=老となるわけです。色々な説がありますが、「老」のヒの部分は化学の「化」、髪の毛が「化す」、すなわち「老」は白髪になった人を意味します。「考」は、腰が曲がって杖をつくほど歳をとれば、人は知性も分別も備わる、だから「考」なのです。「老いる」ということは、若い時より立派な人間に成長したということにほかなりません。
 ですから、中国では「老」は尊敬を表す文字です。中国人にとって教師は「老師(ラオ・シー)」であって、決して先に生まれただけの「先生(シエン・ション)」ではありません。また、日本人はとかく若く見られることを喜ぶのに対して、中国人は実年齢より上に見られる事を好む傾向があります。西洋の影響を受けた最近の若い中国人女性は必ずしもそうではないようですが、それでも、知識人層は今でもそうです。外見の若さより人間的成長を重視しているからだです。日本でも、江戸時代の貝原益軒は、その著『養生訓』に、老いてこそ得られる楽しみを満喫することを勧めています。そこには、「若返りたい」という欲求は微塵もありません。ましてや、若き日を懐かしむセンチメンタリズムは更々ありません。
 中国の経書のひとつ『礼記』には、「人は生まれて十年を幼と曰(い)い、学ぶ。二十を弱と曰い、冠す(成人式)。三十を壮と曰い、室有り(結婚して家庭をもつ)。四十を強と曰い、而して仕う(仕事に精を出す)。五十を艾(がい・よもぎ=白髪混じりの頭)と曰い、官政に服す(一段と仕事に磨きがかかる)。六十を耆(き)と曰い、指使(しし)す(人に命令することなく指さすだけで周りが動いてくれる)。七十を老と曰い、而して伝う(これまでの人生で得たことを後世に伝える)。八十・九十を耄(もう)と曰う」とあります。
 また、孔子も、「我れ十有五にして学に志し、三十にして立つ。四十にして惑わず(ようやく自分の生き方に自信が生まれる)、五十にして天命を知る。六十にして耳順(した)がい、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず」(『論語』為政篇)と言います。まさに「耆艾」(きがい)の五十代六十代は、人間として現役の絶頂期ということです。
 「人生七十、古代稀なり」と言ったのは唐の杜甫ですが、古稀まで生きたということは、それだけで立派なことです。老いて益々心穏やかになり、人生で得たことを後世に伝えることに生きる喜びを感じることが出来る。それが七十代です。しかし、八十・九十ともなれば、視力も体力も減退します。しかし、それでも、人生の喜びを味わう感性はいよいよ鋭くなります。
 このように、「老いる」ということは、こんなにもすばらしいことなのです。それなのに、最初にお聞きしましたが、どうして今更若返りたいのですか? 本当にそう思いますか?

3.「老いのよろこび」(Ⅱ)
 では、漢詩を通して、「老いのよろこび」を共有してみたいと思います。最初は陶淵明(
365427年)の「雑詩(其の六)」です。

 〈通釈〉
若かった昔、老人が何か言うのを聞くと、いつも嫌がって耳を塞いでいた。ところが何と五十歳になった今、気がつくと同じことを自分がやっている。若かりしころの歓楽を再び求める気は更々ないが、月日の経つのがこうも早いと、この人生は二度とは来ないのだと痛感する。であれば、持てる財をはたいて積極的に楽しみ、駆け足で去るであろう残りの歳月を全うしよう。子供はいるが財産は残すまい。死後のことまで思い煩う必要はないのだ。


 陶淵明が言うように、人生は一度きりです。五十年・六十年なんてあっという間です。であれば、残された人生をせいぜい楽しみましょう。自分で働いて得たお金を、子どもに残す必要はありません。すべて使い果たしましょう。死んだ後のことなど考える必要はありません。
 同じく陶淵明に「子を責む」という詩があります。




〈通釈〉
左右の鬢の毛は真っ白になり、皮膚は色艶を失ってしまった。5人の子供がいるのに、そろいもそろって勉強嫌いときた。長男の阿舒は十六歳にもなるのに、無類の怠け者。次男の阿宣はもうすぐ十五歳だというのに、まるで文章学問が嫌い。その下の雍と端とは十三歳だとはいえ、六と七の区別もつかない。末っ子の通は九歳になろうというのに、梨や栗をねだるばかり。とはいえ、これも天の定めた運命ならば、酒でも飲んでよしとしよう。


 私はこの詩にとても親近感を覚えます。親はみな自分の子どもに期待しますが、だいたいが期待はずれ、これが現実です。でも、みな元気でいることを素直に喜び、そろそろ子どものことで悩むのは止めて、残された自分の人生を好きな酒を飲んで精一杯楽しもうというのです。「そろいもそろって出来そこないばかりだ」と言いながら、子どもたちに対する愛情がほとばしっています。
 次に、宋の蘇軾(
10361101年)の「玲瓏山に登る」という詩をご紹介します。本日の講義のタイトル「脚力尽きる時、山更に好し」の一句は、この詩にあります。


〈通釈〉
玲瓏山の、二匹の青龍にも似た、あの二つの高い峰は、一体何年もの間、あのように直立不動で聳えてきたのだろうか。近づくと、老人の痩せた背骨のように曲がりくねって、それでもなお、空に寄りかかるように立っている。そこを登ってゆくと、紅く色づいた広い稲田を背景にして、青葉が波のように風に翻り、青い玲瓏山の両峰が、白雲をつき破って聳え立っている。山頂近くには曲がりくねった九折巌が続き、その近くには、月を眺め風を貯えるにちょうどよい三休亭が設けられている。歩き疲れて、足を運ぶ力も尽きようとする時、高山の景色はひときわ美しく見える。しかし、自分は所詮限りある人間の身、これ以上、無窮の美を追い求めることはしないでおこう。


若い時は元気ですから、限界というものを知りません。頂上まで休憩せずに一気に登ります。しかし、老いると休み休み登らざるを得ません。しかし、途中で立ち止まって辺りを見回すと、美しい風景を発見します。若いときは勢いに任せて駆け登ったので見えなかったものが、立ち止まることで発見できる。このような発見もまた、老いたからこそできるのです。
最後に、南宋の辛棄疾の「醜奴児」という詞(*1)を読んでみましょう。



〈通釈〉
(上片)若いころは愁いの滋味を理解できず、とかく(愁いを求めて)高殿に登りたがった。むやみに高殿に登っては、新しい詞に無理やり愁いを詠んで気取っていた。
(下片)今では愁いの滋味を嘗め尽くし、愁いを詠もうとしてはやっぱり止める。詠もうとしては止めると、さて裏腹に口をついて出たのは「涼しくて素晴らしい秋だなあ」と。


 辛棄疾が言うように、若いときは悲しみや苦しみに敏感で、「愁い」を気取りたがります。例えば失恋したらもうこの世の終わりのように悲しく苦しい。辛いことも多くて、まるで悲劇のヒロインかヒーローのような気になって「愁い」を口にする。
 しかし、人生の悲しみも苦しみも嘗め尽くした老人は、軽々しく「愁い」を口にしません。少々のことであたふたしません。肉体は老化しても、精神が成熟している証拠です。「老いる」ってすばらしいと思いませんか?


(*1)詞とは、唐代に楽曲の歌詞として生まれた韻文形式の文学で、宋代に最も栄え、「宋詞」と呼ばれる。

4.最後に
 さて、最初に「若返りたいですか?」との質問に、大半の方が手を挙げられましたが、そんな苦しい若者に戻りたいですか? せっかく円熟した人生を、また未熟な青二才に戻りたいと、本当に思いますか?
 この歳まで生きてもう充分社会に貢献してきたのですから、陶淵明の言うように、残された人生を精一杯楽しみましょう。そのためには、もてるお金はすべて使い果たしましょう。さっそく、明日の朝、銀行に行って預金を引き出して下さい。子供に財産など残す必要はないんです。自分のために使いましょう。
 できそこないの子どもでも、いいです。自分の人生じゃないんですから。子どもは自分の人生を切り開いていきます。みなさんは今まで立派に生きて来ました。役割も果たして来ました。これからの人生は、飲みたいときに酒を飲み、食べたいときに美味しいものを食べ、したいことをして楽しみましょう。それは老人の特権です。その特権を棄てる手はありません。

 そうして「老いのよろこび」を実感できれば、必ず心豊かになります。そして、この心の豊かさこそが他者に対する優しさを育み、穏やかな社会を実現するのだと、私は思います。






平成21年7月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
過去5年間の舞台活花とその時の講演要旨を組み合わせた
「講演舞台活花写真画廊」のブログも
ご覧ください。

講演舞台写真画廊展
(↑をクリック)