第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年6月21日
 
含羞(はにかみ)という美しい文化



京都大学名誉教授
竹内 洋 氏

                     講演要旨

 いまや臆面なき人間が跋扈する下流大衆社会になってしまった。大切なのは教養にうらづけられた含羞ではないだろうか。奥ゆかしく美しい日本の文化について考える。
 

1 自己紹介
 京都大学大学院卒業後関西大学で12年間教え、その後20年間京都大学で勤めました。定年後関西大学文学部にもどり勤務しています。紹介の中に大学院教授とありましたが、日本では1990年ごろより大学(特に国立大学)のグローバルスタンダード化をすすめ大学院生を増やそうとした。大学院修了の専門家の増加を目的にしたのです。以前は学部生徒の教育がメインだったが現在は大学院のほうにウエイトが移った結果大学院教授と呼ばれています。今も昔も教える対象は学部学生、大学院生でその点は変わりません。 
 63歳での定年後、どこかの大学からのオファーがあるかと思っていたところ、以前に勤めていて「サヨナラ」した大学である関西大学からお話があったのです。いわば「私が捨てた「モトカノ」からの温かい申し出で、学長自ら我が家を訪問してまでのお話だったので、関西大学とはとても「カンダイ」だと思った次第です。現在は認可申請中ですが、認可されれば来年からは浅香山に関西大学が設置する人間健康学部の学部長をすることになっています。

2 朝まで生テレビ!
  本題に入りますが、いい日本語でだんだん忘れ去られていく言葉―言葉というものは一つの倫理でもあるのですが―そのなかで「含羞」という言葉があります。私は宵っ張りで、「朝まで生テレビ」を見ることがあるのですが、その中でわれ先に発言し、順番を取り合い、割り込もうとする。口を挟むのは品の無い所作だが、それを「私の番だ。黙りなさい。」などと睨みつけて制止するのも品位があるとは思えない。浅ましい。あれを見ると昔の食糧不足のときの奪い合いを思い出す。しかもそこに参加しているのは選ばれた教養ある人々のはずなのです。そんな人たちの討論を聴く気はなくなり、番組の面白さはプロレスのような喧嘩の面白さだけになる。そこには含羞とかはにかみは見られない。

3 恥・含羞・慙愧
  恥という言葉は、我々が子供のときからよく耳にしたものであった。「そんなことをしていると恥かくよ」などと言われたものである。アメリカの女性人類学者のルースベネディクトはその著書(日本占領に備えて日本人の文化やその特性についてアメリカではバイブルのように考えられていた書物)の中で西洋文化は罪の文化で、人が見ていようが見ていまいが自分の良心に抵触するかどうかで行動する、しかし日本文化は恥の文化で人が見ているかどうか、人が見ていて恥ずかしいかどうかで行動すると言った。人種的偏見を持ち日本人には罪の意識などないのだというやや上から目線での説であるが半分くらいは当たっていると思う。
 ただ、最近は恥の文化さえなくなってきていると感じる。昔は女性が年をとるにつれて電車の中などで狭いところに座ろうとするおばちゃん文化であったが、最近は若い女性が平気で化粧をする。世間に対して恥じるというより電車の中の人は赤の他人なのであり、彼女らはクラブ室や職場や人前では化粧はしない。電車の中の人たちは赤の他人であり、我々が動物の前では恥ずかしくないのと同じなのです。私は個人的には化粧が終わったあとのきれいになった彼女らを目にするのは楽しみであるが。このように恥ということ自体も日本文化の中からなくなってきているかもしれないが、ベネディクトの言うように人の前で恥ずかしいかどうかというだけでは日本文化を半分なめていると思う。
 我々は人がいないところでも、「こんなことをしてしまって」と思って恥じ入ることは多々あるものです。人がいなかったらなんでもするというわけではない。これがはにかみであり羞恥である。罪の文化に似ている。自分のあるべき姿、良心、理想から外れたことをしてしまって恥ずかしいと思うことはあるのです。これは外面的ではなく内面的なものである。これが日本の恥の文化とセットになっている。こういうことをある雑誌に書くと早速仏教大学の先生から手紙が来て、その中で慙愧という言葉をあげて次のように述べていました。結局あの世から見られているという意識が日本人の中にあるのだ。世間の人にわからなくても、この世にいる我々の行動があの世から見られているのである、という趣旨でした。
 子供時代になにかあるとよく仏間で怒られたり、ほめられたりしたものです。ほの暗い部屋だったので効果は充分であった。人間は何か自分を超えたものとつながりを持たないとたがが外れるのです。人間ほど怖いものはない。なぜなら動物は妄想は抱かないから限度を超えた残虐なことはしない。しかし人間は妄想を持つから、だから科学の発達もあったのだが、そのままでは人間ほど怖いものはない。そういうものをコントロールする力、自分を越えた何物かに対する憧憬のようなもの、具体的には仏間で先祖の前で叱られたり、よいことがあると感謝したりした昔の日常は大変よかったと思う。このような日常を保っている家庭ではしつけの問題などで悩むことは少ないと思う。このように人知れずはにかむとか慙愧の思いなどは日本人の中には難しい理屈はわからなくても日々の生活の中にあったと思う。それがなくなってきているのである。

4 前尾繁三郎と教養
  京都府出身で通産大臣も衆議院の議長も務めた前尾繁三郎のことです。総理大臣候補といわれながら結局はならなかった方です。大正時代の初めに宮津中学校を出て当時のエリートの行く第一高等学校に入学、卒業後東京帝国大学法学部に進学、その後大蔵省に入省、地方税という地味な問題をこつこつと研究した。大変な教養人で蔵書は約4万冊を数えた。著書も多く、小唄や囲碁など趣味の豊かな人で多くのことに興味を抱いていた。
 最近麻生首相についてあれこれ言う人が多いが、テレビで見てる分には悪い人には見えないと思う。ただマンガが趣味などの発言が「身から出た錆」的な評価になっているのである。国民は自分たちの気持ちをわかってくれる人を求めても同じタイプの人を求めているわけではない。我々は政治家に自分たちと違うところを期待しているのである。前尾氏は教養豊かな人であったが、その教養が邪魔をして首相になれなかった人である。
 政治家とは大変孤独で不安の中にいると思う。何をしても批判を受けるし、一つ間違えば大変なことにつながる。前尾氏はそういう孤独の中で万巻の書物に囲まれ沈思黙考した人であった。甘言に弄されず周りの言動に惑わされなかった。含羞の人、自己批評のある人であった。自己中の反対である。
 朝日新聞にも書いたが、政治家とは孤独で不安であればこそ絶対孤独になることが大切である。政治家に必要な資質とは、マックスウエーバーによれば、情熱、責任感、判断力である。そういうのはかえって自分が独りぼっちになる時間を確保したうえで考えるのである。中曽根氏もそうした。麻生氏は新聞の動静情報によれば側近や仲間と長時間過ごしている。一人になって音楽を聴くなどの中で前述のつの資質を磨けるのである。その点で前尾氏とは異なると思う。

5 教養の三態―得をする教養、ひけらかす教養、じゃまをする教養―
  教養には「得をする教養」、「ひけらかす教養」と「邪魔する教養」がある。この中でもっとも大切なのは、教養が邪魔してそのようなことはできない、というようなときの邪魔する教養である。
 抽象的な話になるが、文化には3つの要素がうまく組み合わさらないとうまく働かないと思う。何のために文化があるかというと一つには役立つからである。たとえば道具である。実利とも言える。もう一つは理想ということである。この二つのうち片方だけではだめである。実利ばかりでも、理想ばかりでもうまくいかない。恐ろしいこともおきる。ヒットラーのナチズムも理想から出発している。浅間山山荘事件も実利主義ではない、極端な理想主義である。
 もう一つ大事なことは自省、自己中の反対で自らを反省することである。これも極端になると問題がある。冷や水を浴びせる、あるいは皮肉るなどは、理想に向かう気分をそいでしまう結果になる。
この3つの要素が、三権分立し、チェックアンドバランスすることが文化にとって大切である。日本社会は明治以来実利を目指したが、理想も大切で、しかしそればかりではだめで反省も大事である。この反省が羞恥(はにかみ)の文化、邪魔をする教養である。連綿と続いた伝統のよさを日本社会は考え新しい形で育んでいく必要がある。たとえば、映画「飢餓海峡」の中で脇役ながら伴淳三郎が好演したノンエリートの刑事に見られる「お天道様に背を向けない」、「堅気の誇り」などの気質である。「後ろ指を刺されない」という誇りの文化というものが昔はあった。一時期エリートたちが批判される時代があったが、問題は現場で働く人たち、ノンエリートたちの間に「誇り」がなくなってきていることである。

6 美しい日本の文化
  昔は日本社会では他者への信頼が強かった。漱石も「日本人には(西洋的な意味での)神は要らなかった。なぜなら西洋では他者を信頼できないから神(God)を作ったのである。ただ日本人の中でも信頼が薄らいできている。」と言っている。
 「坊ちゃん」の中のキヨと坊ちゃんとは、キヨが同じ墓に入れてくれと言うほど強い信頼で結ばれている。どんなに悪いやつでも信頼できる人さえいれば限度以上のことはしない。漱石は妻の鏡子と仲がよくなかったといわれているが、妻の本名である清(キヨ)を、坊ちゃんが信頼し、すべてを受け止めてくれるお手伝いのおばあちゃんの名前に使ったのは漱石のひそかなラブレターと言えるのではないか。
 このような信頼に基づく社会からそれがない社会に移行してきている。格差社会というより不信社会だと思う。学校も役所も警察も信頼度が落ちている。信頼できないと経済成長も落ちる。出張の旅費計算一つにしても最低料金を調べる手間で人手がかかり、出張先ではそこに行った証拠にいらぬ領収書をもらっておけ、と言う。会社経営で下請けと信頼関係があればコストの面で有利である。不信は人間的にも社会的にも不幸なことである。
 今までの伝統をもっと大切にして次の日本社会を考えていくときに生かしていくべきである。今までにないものを作っていくことも大切で、そのときに必要なものの一つにユーモアがあると思う。北欧に行ったとき、案内の女性が言うには、部屋をきれいにして帰るのはドイツ人と日本人、チェックインチェックアウトのときにユーモアを交えて挨拶するのはイギリス人ということでした。ギャグや駄洒落とは違うのです。ユーモアにはストーリーがある。昔は日本では笑うことは失礼なことであると考えられていた。最近オヤジギャグがはやりだが、それにストーリーが加わればいいのではないかと思っている。
 認可されれば来年関大は人間健康学部を浅香山に開くのであるが、健やかでおおらかな人を育てたいと思っています。そこでユーモア心理学とか「ユーモアと文明」などのカリキュラムを考えました。





平成21年6月 講演の舞台活花



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