平成19年度
熟年大学

第九回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成20年2月21日
 
武士道と現代
~伝統文化に見る人間象~



国際日本文化研究所センター 
研究部教授
笠谷 和比古 氏

                    講演要旨
「武士道」とは何か、「忠義」とは単に滅私奉公、服従だけを意味するものだろうか。 伝統文化の中で育まれた人間像を見つめ直し、現代の日本社会が直面しているモラル、人間関係、国際政治といった諸問題に対する方策を考えます。
はじめに

 今、なぜ武士道なのか? それは人さまざまであるが、私が思うに、日本の武士の生き方の中に見られる、潔く、強い個性を備えた自立した人格像への憧憬、とくに困難に対して背を向けず、敢然と立ち向かっていくという爽快さが共感を呼ぶところではないか。

 例えば、野茂やイチロー、今や当たり前になったが、ただ一人アメリカに渡って小さい身体ながら大リーグで活躍する姿を見て「イチローはサムライだ」と感じる。それが日本人が持っているサムライの原像ではないかと思う。

 私の観点から言えば、自己に誇りをもって生き、志を高くかかげて正々堂々と行動し、理非善悪をわきまえ、恥を知ってけじめと責任に背を向けず、たとえ一人となっても困難な状況に敢然として立ち向かっていく、こういう人間像は美しいといわざるを得ない。

 今、日本の社会で起こっているさまざまな問題、ラベルの貼り替えや組織不正の問題にしても、「社長、それはおかしいのではないですか」と何故言えなかったのか。もし言えていれば、偽装問題の半分は未然に防げたはず。結果として会社のブランドの権威は地に落ち、場合によっては倒産に追い込まれる会社も少なからず出てきた。何故スジの通ったことがいえないのか、これらは今の日本の社会が抱えている大きな問題である。

 いじめの問題も同様である。何か突出した行動をとると目立ちたがり屋であるという理由で足を引っ張る風潮がある。一番よくないのは無視するという陰湿ないじめで、子どもが自殺するまでいじめの存在が顕在化しない。おかしいものはおかしいとはっきり言えるのがサムライの精神である。

 オリジナリティを重視する欧米社会の典型をドイツの教育法にみるが、日本の社会では同調することにすべてが収斂するところに、学校教育の病理があると思われる。
突出した意見であってもそれを尊重する姿勢と、他の人が何と言おうと自分の意見を堂々と言える雰囲気が、いじめを解消する所以であり、また組織内における不正や馴れ合いを防止する所以であろう。そういったことに対し武士道の精神が、何がしかの支えを与えてくれるのではないか、そういう思いから私は武士道という話しをしている。

 靖国問題やA級戦犯の合祀問題などの国際問題についても同じような意見を持っている。
あれだけ騒がれた問題も、今は台風一過のように忘れられている。中国側が言わなくなったからだ。戦後60年、この問題はなんら解決していない。真実を真実として発言することを怖れていては、根本的な問題解決にならない。私が武士道を説く背景には、小さくはいじめの問題、大きくは国際問題がベースにあることを前置きとして理解していただきたい。


1.「武士道」という言葉と内容

 「武士道」というと、新渡戸稲造の「武士道」が常識イメージになっているが、これに否定的な意見が多くあることをご承知であろうか? 新渡戸の描いているような道徳性の高潔なヨーロッパの「騎士道」に比すようなものは、実際には存在しなかったという議論である。それは日本がヨーロッパに比肩する文明国家であることを弁証するために、明治ナショナリズムによって作り上げられた所産である。学会筋ではむしろこれが主流である。

 「武士道」という概念がいつから広まったかといえば、江戸時代になってからである。中世社会に「弓矢取る(身の)習い」「弓矢の道」と称せられ、一騎打ちを前提とした戦場での作法であったものが、戦国時代を経て、近世・徳川時代に入るとともに「武士道」という新しい表現になった。

 最初に「武士道」という言葉が広まるキッカケは、『甲陽軍鑑』というのが多数説である。武田流軍学の経典で、信玄から勝頼に到るまでの武田の戦いぶりを仔細に記した書物である。近世・徳川時代のサムライたちは、みな『甲陽軍鑑』を読んだが、その中に「武士道」という言葉が30数回出てくる。武士の必読の書であったのである。

武士及び武士道の変質と発展

 このように「武士道」は、当初は戦場における勇武の振る舞いや精神を指していたが、徳川時代の200年以上に及ぶ持続的平和の下で、武士が領国の統治を司る役人、行政官として成長していくに伴って、「武士道」もまた武勇一辺倒では不十分とされ、治者としての心構え、倫理性を兼ね備えた徳義論的武士道へと進化・発展を遂げるのである。

 この持続的平和は、平時における行政分野の生成と拡大をもたらした。法律の制定、裁判、治安・警察、治水灌漑、耕地改良、防火防災、災害復旧、殖産興業、病院・薬事などである。その中で武士は、戦士から行政官へと変質していくのである。

 この点、ヨーロッパにおける騎士が、戦争がなくなってからも貴族になって遊んでいた「騎士道」と、武士が行政官として変質していった「武士道」とに、一番大きな違いがあると言わねばならない。


2.武士道における忠誠と自立の精神―「忠義」とは何か?!

 「忠義」とか「忠誠心」と聞くと、「滅私奉公」とか「服従」を連想する向きもあろうが、徳川時代の忠義論は、それとは違うということをここでは話したい。
徳川時代の忠義論の核心は、主君の命にただ服従するのみの奴隷の服従ではない。武士には己というものがある。これを「武士の一分」というが、己を持した上での服従、批判精神を含んだ服従である。

●葉隠の武士道

 武士道の代表例である「葉隠」についてみてみよう。
「葉隠」は佐賀藩士の山本常朝が隠退後の一時に、同藩の若い武士の求めに応じて、佐賀藩鍋島家の武士の心得の数々を口述して享保1(1736)年ころに成った書物。
 『武士道とは死ぬこととみつけたり』の一節は余りにも有名である。
「仰せ付けにさえあれば理非に構わず畏まり」と、主君の絶対的尊重を主張しながらも、「さて気にかなわざる事はいつ迄もいつ迄も訴訟すべし」(訴訟とは訴えかけること)とも言い、「主君の御心入を直し」「御国家を固め申すが大忠節」(国家とは藩と家のこと)「御家を一人して荷ひ申す志」とも言っている。

 そこには主命への事なかれ主義的な恭順に対する嫌悪がみられ、しかし主家が困難に直面し、存亡の危機に陥ったときでも、決してひるむことなく、また保身に走ってその場を逃げ出すということなく、己一人にても御家の危難を救うべく、全身全霊を尽くして困難に立ち向かっていくことを説いている。

 『武士道とは死ぬこととみつけたり』の一節から、「葉隠」は死の武士道といわれることがあるが、そうでないことは「葉隠」の中に以下の答が書いてある。「死ぬか生きるかと問われたら、生を断念し死を選べ。人間は弱いものであるから、とかく理屈を付けて生きようとする。徹底的に生を断念し徹底的に死を選んだとき、武(士)道に自由を得、完全な生を見つけることが出来る」と。

●室鳩巣 「明君家訓」の武士道

 室鳩巣は近世中期を代表する朱子学者の一人だが、正徳5(1715)年に彼の書いた『明君家訓』が刊行された。ある名君が家臣に対してスピーチしたものを纏めたものである。以下、そこから引用する。

(主君の道)
「君たる道にたがひ、各々の心にそむかん事を朝夕おそれ候、某(ソレガシ)身の行、領国の政、諸事大小によらず少もよろしからぬ儀、又は各々の存じ寄りたる儀、遠慮なくそのまま申し聞けらるべく候」・・・諫言の勧めであり諫言を受入れる度量をいっている。

(家臣の道)
『節義(節操と正義)の嗜と申は口に偽りをいはず、身に私をかまへず、心すなをにして外にかざりなく、作法乱さず、礼儀正しく、上に諂わず、下を慢らず、をのれが約諾をたがへず、人の患難を見捨てず(中略)さて恥を知て首を刎らるとも、おのれがすまじき事はせず、死すべき場を一足も引かず、常に義理をおもんじて其心鉄石のごとく成ものから、又温和慈愛にして物のあはれをしり、人に情有るを節義の士とは申候」

(主命と信念との二律背反)―主命と家臣たる武士の信念との二律背反問題
「惣じて某(ソレガシ)が心底、各々のたてらるる義理(正義の道理、信念)をもまげ候ても某一人に忠節をいたされ候へとは努々(ユメユメ)存ぜず候、某に背かれ候ても、各々の義理さへたがへられず候へば某において珍重存じ候」・・・忠義論の大事な核心であり、進化を認めることができる。

 18世紀、「明訓家訓」はベストセラーになり、生きた武士道のスタンダードになった。


3.武士道的組織論

「御家(組織)の強み」の思想

 これを組織論からみると、「御家(組織)の強み」の思想にある。
強固な御家、永続する御家とは何か?
主君・上位者の指導と命令のもと、苦情やわがままを口にせず、一糸乱れぬ団結力をもって目標達成にまい進していくような組織をつくってはならないというのが、18世紀の武士道が到達した組織論の要諦である。

また、トップの命ずるがままに行動するイエスマンの集まりは、組織の安定のごとくに見えて、組織の衰滅の原因である。忠義・忠節の核心は、主君・上位者の命令への随順ではなく、諫言の精神を堅持し、悪しき主命、理不尽な上位者の命令には徹底的に抵抗し、疑問のある命令に対しては自己の意見を堂々と主張して屈せず、決して周囲の情勢に押し流されることのない自立性に満ち溢れた人物を、どれだけ多く抱えているか。それが御家の強みの根本である、こういう考え方である。

 何故ならば、そういった人物は、組織が困難に陥ったときも任務を放棄したり、責任を転嫁することなく、独り最後まで踏みとどまって劣勢の挽回に奮闘努力するようなタイプの人間。そしてより大事なのは、日常的にも組織に腐敗をもたらす馴れ合いと、事なかれ主義の危険を不断にチェックしてくれる存在である。
私は今日行われている諸々の不正、偽装の問題に、対案として提示したいと思う。

●武士道的リーダー像結果責任の思想

 組織のリーダーとは、このような剛直の士を使いこなす器量が不可欠である。一日に百里を駆けめぐる駿馬をよく統御できる武将こそが、リーダーの名に値するとする。しかし自我意識の強い武士ばかりでは、組織(御家)は纏まらない。この矛盾をいかに解決するか?が結果責任の思想である。

 主体性、自立性、そして諫言、異議申し立て、自主的判断と広範な裁量権を与えられた部下が、不首尾に終わった結果に対する責任のとり方が、自ら恥じて腹を切る。”切腹”の武士道における意味合いの核心は、信頼と結果責任ということになる。


4.二つの誤解

 その一つは武士道がごく一部の武士階級における道徳であって、国民道徳ではなかったという言説に対する修正である。

 武士階級は確かに徳川時代、人口の1割に過ぎないが、武士道は決して武士階級だけのものではなかった。
 何故そういえるかといえば、武士道のなかのひとつの現れである「仇討ち」である。統計が残っているが、幕末に近くなるにつれて、一般庶民(農民や町民)の「仇討ち」の方が圧倒的に多くなる。
 例えば何がしかの親兄弟が邪悪な人間によって殺されたという場合、その息子や弟たちが、自らの手でもって敵討ちをすることに何ら違法性はない。

 さらに、武士道の精神が一般庶民に拡大していく過程についてである。元禄の頃
「諸国武士道づくし」という本があるのを最近みつけた。これは「大江山の鬼退治」や「五条の大橋の牛若丸と弁慶」などのことを書いた絵本である。子どもが読む絵本に「諸国武士道づくし」という名前がついている。武士道という言葉が、10歳くらいの庶民の子どもにも通じるほどポピュラーな言葉になっていた。武士道精神は確かに武士の社会でつくられたが、一般の国民の間に広がっていたし、仇討ちにみられるように、武士道的行動は一般庶民の中にも広まっていた。

 もう一つは逆方向からの見方である。一般庶民が武士社会に参入する道が開かれていたということが最近の研究でわかってきた。士農工商を厳然と分かつというのがこれまでの固定的なイメージであったが、これが誤りであることがわかってきた。吉宗の大きな影響力によるが、一般庶民が武士階級の一番末端のところへお金で参入することが可能になり、あとは実力次第で出世することができた。高い身分をお金で買うと処罰される。一番末端の身分を買って実力で勘定奉行にまで上り詰めるのは全く問題なしというシステムをつくりあげたのが、実に18世紀である。

 つまり、一般庶民が武士の社会に仲間入りするコースと、武士道精神が一般社会の中に拡大していく両方向のコースによって、武士道は国民道徳へ広がっていったのである。

 二つ目の問題は、武士道は男性のものであって、女性は関係ないという誤解である。
ヨーロッパにおける騎士道では、女性尊重の思想があるが、裏を返せば女性は保護される対象であるという考え方である。日本の武士道では女性を特別扱いすることはない。何故ならば、女性も男性と同等に、武士道的な権利を行使する主体として認めているからである。

 その代表的事例が石見の国松平藩に仕える中老格の女性が局のいじめから自害し、その腰元が仇討ちをした。そのことが大阪に伝わって文楽になった「鏡山故郷の錦絵」は、「女忠臣蔵」としてよく知られている。このように実話においても、文楽・歌舞伎・狂言においても、一般庶民の中に広く広まっていたように、女性は武士道から排除されていない。

 
このように武士道は国民道徳としての広がりをもっていたと言えるのではないか。





平成20年2月 講演の舞台活花


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