平成16年度
熟年大学
第8回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成17年1月20日

 
美しい森と水の文明



講師
国際日本文化研究センター
教授
安田 喜憲 氏

森の民としての日本人の心を伝えたい。
美しい森と水の文明を作ることが人類を救済する。

                                                                       講演の要旨                    

 今日は熟年の皆様にお話をするわけですが、私も58歳になって皆様の仲間入りする年代となりました。いままではどのように生きるかを一生懸命考えてきたのですが、これからは人間はどうやって死ぬのか考えなければいけない。死ぬのは生きるよりも難しいです。どうしたら安心して心豊かに死ぬことが出来るのかこれから私は考えたいと思っています。

みなさんから愛されながら、あの人はいい人だったと言われながら、またいい人生だったと思って本当に死ねるのか、私にとっても大きな課題です。

日本人の心の漂白

 特に私達、団塊の世代がこれから老人になります。しかしこの団塊の世代は心に大きな空白があるのです。戦争に負けアメリカからマッカーサーが来て、ソ連をはじめ共産主義に対する砦として日本を位置付けました。

その時、日本人の精神的な支柱として、この国をキリスト教の国にしようと考えました。その影響を強く受けて、新渡戸稲造、矢内原忠雄、南原繁などをはじめ日本の知的エリートがキリスト教徒になりました。

もう一つ、政治学者、経済学者はマルクス主義に走っていきました。マルクス主義は「宗教はアヘン」という宗教否定の考えです。この宗教はアヘンという考えとキリスト教を柱にという両輪が、戦後50年間続いたと言えます。 この日本の両輪が日本人の心をずたずたに砕いたのです。

日本の伝統的な神道である神社の前で手を合せることがはずかしいというような、心に強い懐疑を受けた世代が私達団塊の世代であったのです。その穴埋めをするのが仏教であったのですが、仏教は葬式仏教になってしまい、本当の意味での人を救うという目的を失ってしまいました。

 ところが21世紀の日本社会は高齢化と介護地獄です。それだけではなく、老人の心に大きな空白が起こっています。老人による犯罪も増えているのです。これからは団塊の世代の老人であふれることになるのですが、これら老人の心を支える宗教も、哲学も全部破壊され、キリスト教も定着しなかったし、マルクス主義も崩壊しました。仏教も葬式仏教になってしまいました。「いったいわれわれは何を頼りにして生きていけば良いのか?」大きな問題です。

地獄と極楽を信じるか

 ところでみなさんに問いたい。「本当に『地獄と極楽』があると思いますか?」。

                     

あると思う人、手を上げて下さい。ほんのわずかですね。10人も満たない。その他の人たちは「それでは死んだらどうなるとお思いなのですか?」。ほとんどの方は心の支えのない無宗教であると言えます。最近大地震などが起こり、多数の死者が出ています。まだまだこれから大量死の時代に入っていくと思います。

この大量死の時代を前にしても、キリスト、イスラム、仏教などの巨大宗教では、21世紀の地球環境問題を解決することは出来ないのです。これら巨大宗教は全て人間中心の宗教です。人間の幸わせだけを考えているからす。

 既成の巨大宗教には人間を救う力がなくなってきた。人間が考え出した十字架、極楽、地獄といったものは「超越的な秩序」です。例えばキリスト教は砂漠で生まれた宗教です。そういうところでは生命がなく、人間の妄想の中で、神の国、天国などを作り出してその妄想の中で生きるしかない。これが「超越的な秩序の文明」です。

ところが我々が信仰している神道は、例えば山や森を拝んできたのです。この山や森の中に住む生きものたちが幸わせに、みんなが調和を持ちながら、人間もその森とともに幸わせに生きていく、この「現世的な秩序」を大事にして我々は拝んできました。これが神道の原点です。「現世的な秩序の文明」は森で誕生したのです。生きとし生ける命の輝きに最大の価値を置いた。これが「現世的な秩序の文明」です。

 日本の仏教は奈良時代までは、仏教本来の人間中心の仏教でした。しかし平安時代になると、日本の森の文化の影響が浸透してきます。そのひとつが「神仏集合」つまり神と仏は一緒であるという考え方です。最澄は「山川草木国土悉皆成仏」と言って、生きとし生けるものはみな仏になれると説いています。これが日本仏教の伝統です。

キリスト教は違います。キリスト教は人間のみ英知があり、その上にある神は人間に食物を与えるために自然を創ったのですから、自然は仏ではなく、自然は人間の下にあり、人間に食物を与える存在に過ぎないとの考えです。

 空海はもっとすごいことを言っています「森は人の世はもちろん、天上の世界よりも美しい」と言っています。こんなすごい哲学を説いているのです。森は天国や極楽よりも美しいとおっしゃっています。つまり最澄や空海が言っていることは「日本人の心の古里は日本の風土にある」ということなのです。

     日本の美しい自然こそが救い


 我々の心の源は日本の自然なのです。ですから心と自然は一体であると言っているのです。地獄と極楽を信じない人々は何を信じるのか、魂を救えるのは何か。それはやはり日本の美しい山、森、川、水田、海そこに住む生きものたちが実は魂を救う原点だと思っています。

自然を信じる人間は他人も信ずることが出来るのです。昔は田舎では鍵を掛けなかったが何故こういうことが出来るのか。日本人は自然を信ずることが出来たからなのです。
      
西洋に有名なデカルトの言葉の「我思うゆえに我あり」は「他人を疑う故にに私が存在する」ということで、人間を信ずることが出来ないのだから、ましてや自然は信ずることが出来ないので自然を支配して人間の王国を創るというのが西洋の文明なのです。

 みなさんは何故死ぬのがいやなのか。私は個人的には家族など親しい人々と別れたくないからということもありますが、もうひとつ、この美しい日本の大地、つまりこの世と別れたくないということがあるのです。 日本人の多くの人はこの世と別れたくないのです。それほど日本の自然が美しいのです。この世が天国なのです。

アミニズム・ルネサンス

 私はかつて「アニミズムルネッサンス」というエッセイの中で、「中南米のマヤなどの文明は平和で、穏やかな文明であった」と書いたところ、「毎年太陽に生贄をささげている、こんなのは文明と言えない」という強い反論がありました。しかしマヤで生贄をささげていた同じ時期に、ヨーロッパでは「魔女裁判」が行われ多くの女性が殺されのです。マヤでは太陽を復活させるために、生贄は喜んで死んでいったが、一方魔女は天候の悪いのが魔女のせいとされ、殺されていったのです。

 何故魔女裁判が起こったのか。アニミズムの神々を殺した悲劇なのです。それ故に「天国と地獄」が必要になったのです。日本人は何故「天国と地獄」が必要ではないのか。この世が天国だからなのです。空海が言うように「森は人の世はもちろん、天上の世界よりも美しい」と日本人は無意識のうちに思っているのです。

 次にアニミズムの根源である「竜」はどうして生まれたことについて話をします。顔はラクダ、角は鹿、手は虎、体は蛇またはワニなどいろいろな動物を複合したもので中国の宋の時代にこの形が出来ました。指五本は皇帝の「竜」、三本は庶民の「竜」です。生まれは中国の東北部、遼寧省から内モンゴル辺りです。
「竜」の原型は馬で、中国の北の方の畑作牧畜民族から生まれました。

これに対し米を食べる南の長江の人々のシンボルは「太陽、鳥、蛇、牛」なのです。天と地を結合するのが「鳥」、しめ縄のルーツは「蛇の交尾の姿」です。豊饒のシンボルなのです。日本はこれら長江の文明の影響を強く受けています。

 豊饒のシンボルであるしめ縄をして拝むというこの世界こそが、21世紀の自然と人間が共存する、自然と慈しむ原点がここにあるです。4000年前世界的に、大きな気候変動があり、「竜」を崇拝する北の人々が大挙して南に移動したため、長江下流の人々が日本に逃げ、稲作をもたらしました。一方長江から雲南省に逃げた人々には柱を建て、天と地を結合する鳥を崇拝する習慣があります。

棚田にみられるように稲作漁労民の知恵で不毛の急傾斜の大地に水田を作りました。そして水の配分により生まれた他人を思いやる心が生まれました。伊勢神宮の御柱、二見が浦のしめ縄、巨木にしめ縄など、日本のこれらはみな長江の文明の影響なのです。

 我々は21世紀、心豊かに死んでいけるのか。鳥を崇拝し、柱を崇拝し、蛇を崇拝し、天地の結合で豊饒を祈ることに最高の喜びがあるのです。「お迎えは森から来るのです、日本の美しい大地の神々があなたたちをやさしく包んでくれるのだ」との、今日の話を思い出していただければ多少は心が楽になるのではと思います。  


1月度 講演の舞台活花です