平成14度
熟年大学
第十回(最終回)
一般教養公開講座

於:Sayaka小ホール
平成15年3月21日


 【日本文化の特性と国際性】
-考古学から-

講師
国際日本文化研究センター教授
宇野 隆夫 




日本文化は、東アジアの国際交流を重ねる中で独特の特色を生んできました。

縄文時代から飛鳥・奈良時代の日本列島について、このことをお話すると共に、この大阪近辺の地域が大切な役割を果たした事をお話します。



宇野教授のお話は、Power Point を利用して、
さまざまなイラストや写真を交えてのご講演でした。

スライド描写は全部で、22メガのファイル重量のため残念ながら
ホームページ上では通信時間が長くかかります。
そのため、この場での再現は控えます。

そこでお話の要旨のみを採録します。

講演の大綱
日本文化の特色と国際性を考える上で、、大阪は国際的で且つ個性的な地域であり、日本文化の重要な中心であると考えております。

そのルーツの特色は沢山ありますが、森、平野、海辺の環境が母胎となって何万年もの歴史のなかで日本文化を生み出してきました。

その中でも日本文化の特色である国際性を醸成したのは海の環境であると考えます。

16世紀以前の国際的な交流は東アジアが中心でありました。
そして、東アジアの文明の中心は、中国の内陸部で生まれる一方、日本海、渤海、黄海をとり囲む地域が一つの文化を形成し、交流を生む重要な場になっていたと考えます。

今から約一万年余り前〜紀元前500年の縄文時代の遺跡は、大阪狭山市をむくむ河内の海辺の周辺から山地丘陵にかけて点在します。

それが次の弥生時代になると、米作りを重視してそれに沿っ生活をするようになり、平野を中心として大勢の人が住みだしています。弥生時代になると、武器が発達して、次第に争いが発生してきています。 大阪平野には密度の高く遺跡が存在しました。

縄文時代
弥生時代
奈良・平安時代の古代
鎌倉時代
の推移に従って人の住む場の変化をスライドで紹介します。

その中で国際交流がどのようになされてきたかが今日のテーマです。

このような生活環境の推移の背景に、地球規模の環境の変化があります。 とりわけ温暖化が進み、海洋面積が広がる時期に、海を通じた交流が活発します。

日本文化の源流を形づくるて国際交流が活発な三つの時期は、縄文時代、弥生時代、飛鳥・奈良・平安時代です。

縄文時代の温暖化がピークに達した6000年ほど前、紀元前4000年〜紀元前3000年の頃に、装いの道具の交流が活発化しました。 当時の装いの道具は、自分のステイタスを表現する為に使用したものです。 玉を使ったピアス式の耳飾ほかの類似性から、海を越えた交流から広まったと考えられます。

縄文時代に、交流の対象となったものは、リーダーの威信を高めるような装いの道具であり、玉にまつわるシックな色彩感覚などは、日本列島の文化的な特色の一つとなりました。

これに対し、弥生時代と言う平野に沢山の人が生活を始めた頃から、交流の内容についても、その性格が大きく変わっていきました。

青銅の鏡、青銅の武器などがそれです。日本列島、朝鮮半島、中国東北地域、中国内陸地域を比較すると、多くの類似するところがあります。 異なるところもありますが、それも明らかに交流した情報を基に改変した結果です。

大阪府南部の池上曽根遺跡も、国際的な情報を基に日本的なものを作りだしたものといえましょう。 縄文時代から飛躍して、街づくりの分野から、有力者の王墓に及ぶ分野においてまで、国際交流の影響が表れています。

この時代の交流の源流は、中国の黄河の地域にあります。 そこでは、南北の方位を意識した城壁をめぐらせて、中心に宮殿があり、王の墓や青銅器製造の工房を各所に設けてあります。

このような建築情報が、東アジアの諸集団を通じて大阪の地に至り、新しい時代が始まったのです。 東アジアの文明開化的な大きな動きがあったのがこの時代です。

飛鳥・奈良・平安時代の古代は、過去4000年の間で地球の気温が一番暖かかった時期を含んでいます。  暖かくなると、洪水も頻発して大変な時代となりますが、同時に国際交流も活発化しました。

その結果、奈良には都が出来上がり古代国家が成立し、外交使節が中国との間を行き交うようになって、これまでの時代とは違った性質の国際交流がうまれました。 そのルートも最初は、瀬戸内から朝鮮半島沿岸を沿って、山東半島に行き、黄河の下流域から中国の都に行くという従来のメインルートでありましたが、その後、沖縄方面や福岡から黄海を横断して中国南部に至り中国の都に行くルートに変わってゆきます。

この時代には一段と飛躍した建築様式が日本列島の各地で開かれるようになりました。 飛鳥・奈良時代、日本の藤原京・平城京、朝鮮半島では新羅の首都、また唐の長安城を比較すると、似ているところを基調としながら異なる点も見受けられます。

その後、沖縄方面から中国南部に達して中国の都に行くルートに変換されて行きます。 

この時代には一段と飛躍した建築様式が日本列島の各地で開かれるようになりました。奈良時代、中国では隋唐、朝鮮半島では新羅のそれぞれの首都をあらわす平城京や、唐の長安城を比較すると、似て非なる類似性が見受けられます。

古代の難波の宮も然りです。この時代では、上町丘陵の辺りが国際交流の中心だったと考えられます。 そして難波宮には日本の最古の京(市街地)が付属した可能性があります。 また難波宮付近には民間レベルの国際交易場もあり、このような場が、中世、近世へ向けての発展の根拠となっていきます。

以上のような国際交流の推移を、以下のように考えます。

東アジアの交流は、途切れることなく、何万年も前から現在まで続いています。 しかし国際交流にはピークがあり、その時期に広い地域の情報が伝達交換されて、それまでの社会を変えて行ったのです。 そのような国際性が生じた理由は、日本が島国であって、海上交通の便を利用して隣接する様々な異文化と交流したことにあります。 そのピークとして三つの時代がありました。

縄文人は、装いの分野の知識をはじめとして、海外情報を吸収しました。しかし、生活全般に渡る知識は余り関心がなかったようです。

弥生時代の人たちは、街づくりをはじめ、いろいろな技術に関する知識を広く吸収したけれど、当時の中国中心部で発達していた文字を使うような文化は吸収しなかった。 

飛鳥・奈良時代は、あらゆる情報を吸収する時代であり、中国の思想の深い分野にまで及びます。 それがどの程度であったかは、難波宮の構造をどう考えるかという事と深く絡み合っています。 その後、大阪は東アジア各地の民間的な国際交流が発展してゆく場となったのです。


3月講演舞台活花


この講演要旨は、
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