第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年6月18日
【忘れられた女帝 飯豊皇女】

葛城市歴史博物館館長
神庭 滋 氏
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| 講演要旨 「古事記」「日本書紀」に記載がありながら、いつしか省みられなくなった女性について紹介し、彼女が果たした役割について考えます。 |
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第一章 飯豊皇女とはどのような人物か 飯豊皇女は、清寧天皇の死後、顕宗天皇が即位するまでの間、忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや)で政務を執ったとされる女性です。 第二章 雄略天皇と皇統断絶の危機 飯豊皇女の生涯に最も大きな影を落としたのが雄略天皇でした。雄略天皇の兄である安康天皇が眉輪王に暗殺されると、眉輪王は葛城氏の本宗家を率いる円大臣の邸宅へ逃げ込みます。雄略は眉輪王の引き渡しを求め、話し合いを唱える皇族を次々に排除し、円大臣の邸宅を軍勢で包囲しました。円大臣は領地と娘の韓媛を差し出す代わりに眉輪王を助けるよう求めましたが、雄略は邸宅に火を放ち、眉輪王と葛城氏本宗家を滅ぼしたと『日本書紀』には書かれています。 第三章『古事記』と『日本書紀』が描く飯豊皇女 飯豊皇女の登場の仕方は、『古事記』と『日本書紀』で大きく異なります。 第四章 飯豊皇女が果たした歴史的役割 播磨で発見された億計王・弘計王が、自ら市辺押磐皇子の子であると名乗ったとしても、それだけで王族として認められるわけではありません。幼い頃に大和を離れ、長く行方不明だった二人の身分を保証できる人物が必要でした。『古事記』の系譜に従えば二人は飯豊皇女の甥、『日本書紀』の異伝に従えば弟または兄に当たります。 第五章 忍海が支えた飯豊皇女 飯豊皇女の活動は、彼女一人の力だけで実現したものではありません。彼女を支えた地域的・経済的基盤として、忍海(おしみ)の人々の存在がありました。飯豊皇女の別名である忍海部女王や忍海郎女は、彼女が忍海部(おしぬみべ)のもとで養育されたことを示すと考えられます。忍海部は、葛城氏が王族へ嫁いだ女性とその子を経済的に支えるため、自らの配下から設けた集団であったとみられます。後に忍海氏へとつながるこの集団が、葛城氏本宗家の滅亡後も飯豊皇女を守り、生活と政治活動を支えたのでしょう。二王子が逃れていた播磨の縮見屯倉を管理していた人物も、忍海部造細目と伝えられます。飯豊皇女を大和で守った集団と、二王子を播磨でかくまった集団が、ともに忍海の系統に結び付くことは注目されます。両者の間で情報が行き来し、大和の政治情勢を見極めながら、二王子を表舞台へ戻す時期が慎重に選ばれた可能性を示しました。これは史料に明記された事実ではありませんが、飯豊皇女と忍海の関係を考えるうえで説得力のある見通しです。忍海地域の考古学的成果も、この見方を補強しています。当地の拠点集落からは鉄鍛冶に関する資料が多く出土し、周辺の古墳からは朝鮮半島系の品々も確認されています。五世紀後半の忍海には、渡来系の技術者を含む集団が居住し、鉄生産を中心とする工房群を営んでいたと考えられます。その技術と富が、飯豊皇女の政治的・経済的な基盤となりました。飯豊皇女が政務を執った忍海角刺宮は、『日本書紀』の歌にも詠まれています。大和へ行ったなら見てみたいものとして、忍海の高い角刺宮がうたわれたことから、当時の人々の目を引く立派な宮殿であったことがうかがえます。忍海の技術者集団が、育ててきた皇女のために最先端の技術を用いて宮を造ったと。「角刺」の名は、鹿の角のような装飾が建物に取り付けられていたことに由来する可能性があります。家形埴輪には、軒から角状の飾りが突き出す例があり、角刺宮の姿を想像する手掛かりになります。現在、宮の伝承地には角刺神社が建ち、飯豊青皇女が祭神として祀られています。神社前の鏡池には、皇女が水面に顔を映したという地域の伝承も残り、江戸時代の名所案内にも角刺宮跡が紹介されています。 第六章 陵墓に残る葛城との結び付き 飯豊皇女は、死後、葛城の埴口丘陵に葬られたと伝えられます。現在、その陵墓に治定されているのが、葛城市北花内の北花内大塚古墳です。墳丘長約83メートルの前方後円墳で、宮内庁が「埴口丘陵」として管理しています。「埴口」(はにくち)という地名は、現在の北花内・南花内の「花内」へ変化したと考えられます。 以上のことから、 第一に、飯豊皇女は、清寧天皇と顕宗天皇の間に実際に政務を執った女性であり、歴代天皇に含まれないことだけで、 その存在を小さく見るべきではありません。 第二に、『古事記』と『日本書紀』の違いは、単なる記録の食い違いではなく、皇統断絶の危機をどのように後世へ伝えるかという編纂姿勢の違いとして読む必要があります。 第三に、億計王・弘計王の王族としての正統性を保証し、次の王統へつないだことが、飯豊皇女の最も重要な歴史的役割でした。 第四に、飯豊皇女の活動は個人の力だけではなく、忍海部、渡来系技術者、鉄鍛冶の工房群など、忍海地域の人々と経 済力によって支えられていました。第五に、忍海角刺宮、北花内大塚古墳、周辺地名や地域伝承を合わせて見ることで、文献の短い記述からは分からない飯豊皇女の実像に近づくことができます。 おわりに、「飯豊皇女は最初の女帝なのか」 現在、最初の女性天皇として数えられているのは推古天皇です。飯豊皇女は歴代天皇には含まれず、政務を執った期間も一年に満たなかったとされます。そのため、後世の制度に沿って正式な天皇であったと断定することには慎重さが必要です。しかし、『日本書紀』は、彼女が忍海角刺宮で政治を行い、天皇に用いられる「尊」の称号を自ら名乗ったと伝えます。『古事記』では、皇統が断絶しかねない中で探し出され、二王子を大和へ迎える中心人物として描かれます。これらを考え合わせると、飯豊皇女が事実上、大王に準じる役割を担った可能性は高いといえます。彼女の重要性は、称号の有無だけにあるのではありません。雄略天皇の時代に崩れた王族と葛城の関係を受け継ぎ、
忍海の支援を得て、行方不明だった二王子の身分を保証し、顕宗・仁賢両天皇へと王統をつなぎました。飯豊皇女は、古代王権の危機に際して歴史の表舞台に立ち、次代へ橋を渡した女性でした。「最初の女帝」と呼ぶかどうかは、女帝や天皇をどのように定義するかによって答えが変わります。しかし、歴代天皇に数えられていないことを理由に、その政治的役割まで忘れてよいわけではありません。実在が確実視されるなかで、推古天皇以前に、天皇もしくはそれに準ずる地位にあった女性をあげるならば、飯豊皇女だと言えるでしょう。 |
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2026年6月 講演の舞台活花

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