第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年6月18日

【忘れられた女帝 飯豊皇女】

 

葛城市歴史博物館館長
神庭 滋
 氏



講演要旨

「古事記」「日本書紀」に記載がありながら、いつしか省みられなくなった女性について紹介し、彼女が果たした役割について考えます。


第一章 飯豊皇女とはどのような人物か 

飯豊皇女は、清寧天皇の死後、顕宗天皇が即位するまでの間、忍海角刺宮(おしみのつのさしのみや)で政務を執ったとされる女性です。
 その期間は一年にも満たなかったとされ、現在の歴代天皇には含まれていません。
 しかし、『日本書紀』 には「みかどまつりしたまう」、すなわち政治を行ったことが記され、自ら「忍海飯豊青尊」と称したとも記されています。「尊」 は天皇に用いられる称号であり、彼女が単なる留守役ではなく、王権を担う存在として認識されていた可能性を示します。 「飯豊」という表記は音に対する当て字で、古代の「いいとよ」はフクロウを指す言葉です。したがって 飯豊皇女は「フクロウの皇女(ひめみこ)」と言い換えることもできます。また、忍海部女王、忍海郎女などの別名を持ち、これらの名は彼女と忍海地域との強い結び付きを示しています。父は大王家の皇族、母は古代豪族・葛城氏の出身です。『古事記』では履中天皇と葛城氏の黒媛との間に生まれたとされます。一方、『日本書紀』には、履中天皇の皇女とする系譜のほか、市辺押磐皇子と葛城氏の荑媛との間に生まれたとする異伝も残されています。系譜には違いがありますが、父方が大王家、母方が葛城氏であるという基本的な位置付けは共通しています。つまり、飯豊皇女は、王権と葛城を結ぶ血統を持つ女性でした。 彼女の活躍年代は、雄略天皇の時代から考えて五世紀末、概ね西暦480490年代頃とみられます。雄略天皇は、埼玉県の稲荷山古墳出土鉄剣や熊本県の江田船山古墳出土大刀に刻まれた「ワカタケル大王」と結び付けられ、中国史書 『宋書』倭国伝の「倭王武」に当たると考えられています。飯豊皇女は、文字史料と考古資料の双方から年代を考えることのできる、古墳時代中期の女性です。

 第二章 雄略天皇と皇統断絶の危機

 飯豊皇女の生涯に最も大きな影を落としたのが雄略天皇でした。雄略天皇の兄である安康天皇が眉輪王に暗殺されると、眉輪王は葛城氏の本宗家を率いる円大臣の邸宅へ逃げ込みます。雄略は眉輪王の引き渡しを求め、話し合いを唱える皇族を次々に排除し、円大臣の邸宅を軍勢で包囲しました。円大臣は領地と娘の韓媛を差し出す代わりに眉輪王を助けるよう求めましたが、雄略は邸宅に火を放ち、眉輪王と葛城氏本宗家を滅ぼしたと『日本書紀』には書かれています。 雄略天皇はその後、葛城の領地を王権の直轄領とし、韓媛を妃に迎えました。その二人の間に生まれたのが、後の清寧天皇です。しかし、雄略が即位するには、さらに有力な皇位継承候補であった市辺押磐皇子が障害となりました。雄略は狩猟に誘い出した市辺押磐皇子を殺害し、他の有力な男子皇族を排除したうえで大王の位に就いたとされます。この出来事を飯豊皇女の側から見ると、母方の葛城氏本宗家を滅ぼされ、兄または父とされる市辺押磐皇子を殺され、その子である億計王・弘計王も姿を消したことになります。系譜の違いによって二人の王子は甥とも弟ともなりますが、いずれにしても飯豊皇女は近親者と後ろ盾を一挙に失いました。二王子は命を狙われることを避けるため、家臣とともに大和を離れ、播磨で身分を隠して生きることになります。雄略天皇の死後、その子の清寧天皇が即位します。しかし清寧天皇には皇后も皇子もなく、在位も長くはありませんでした。雄略天皇が多くの男子皇族を排除した結果、清寧天皇の死によって、大王位を継承できる人物が見当たらない事態が生じます。飯豊皇女が歴史の表舞台に現れるのは、まさにこの皇統存続の危機においてでした。

第三章『古事記』と『日本書紀』が描く飯豊皇女

飯豊皇女の登場の仕方は、『古事記』と『日本書紀』で大きく異なります。
 『古事記』は、清寧天皇が后も皇子も残さずに亡くなり、天下を治める王がいなくなったと記します。王位を継ぐ者を探した ところ、市辺押磐皇子の妹である飯豊皇女が、葛城の忍海角刺宮にいたことが分かったという流れです。その後、播磨で億計王・弘計王の兄弟が発見され、飯豊皇女に迎えられます。つまり『古事記』では、皇統が断絶しかねない危機の中で飯豊皇女が見いだされ、さらに二王子を王権へ戻す中心人物として描かれています。
 一方、『日本書紀』では、二王子は清寧天皇の生前にすでに発見され、大和へ迎えられています。兄の億計王が皇太子に定められ、清寧天皇の死後は兄弟が互いに位を譲り合ったため、飯豊皇女が忍海角刺宮で政務を執ったとされます。この記述では皇位継承者は事前に確保されており、飯豊皇女は兄弟の譲り合いによって生じた一時的な空位を埋めた人物のように書かれています。『日本書紀』の記述には、皇統が途絶えかけた危機を小さく見せようとする作為があるのではないかと思います。国家の正史である『日本書紀』にとって、正統な継承者がいない状態は望ましい歴史ではありません。そのため、清寧天皇の生前に皇太子が定められていた形に整え、飯豊皇女の登場理由を兄弟間の譲位問題に置き換えた可能性が考えられます。これに対して『古事記』では、王位を継ぐ人物が本当に見当たらず、飯豊皇女が探し出されたという切迫した状況が描かれます。実態は『古事記』の記す状況に近かったのではないかと考えます。飯豊皇女は、単に兄弟の仲裁をしたのではなく、皇統の存続そのものを支えた人物だったという見方です。

 第四章 飯豊皇女が果たした歴史的役割

 播磨で発見された億計王・弘計王が、自ら市辺押磐皇子の子であると名乗ったとしても、それだけで王族として認められるわけではありません。幼い頃に大和を離れ、長く行方不明だった二人の身分を保証できる人物が必要でした。『古事記』の系譜に従えば二人は飯豊皇女の甥、『日本書紀』の異伝に従えば弟または兄に当たります。
 いずれの場合も、二人が大王家の正統な血統を引くことを証明できる最も重要な人物が飯豊皇女でした。飯豊皇女が二王子を迎え、王族としての身分を保証することで、初めて二人は皇位継承者となることができます。実際、弘計王は顕宗天皇、億計王は仁賢天皇として即位し、王統は次代へつながりました。飯豊皇女を介さなければ、その後の皇統の正当性を担保することは難しかったと考えられます。このため、彼女が政務を執った期間の短さだけで、その役割を小さく評価することはできません。飯豊皇女は、王位の空白を一時的に埋めただけではなく、散り散りになった王統を結び直し、次の大王を生み出すための橋渡しを行いました。彼女が歴史の表舞台に登場したのは偶然ではなく、皇統継承の正統性を保証できる人物が彼女しかいなかったからです。飯豊皇女は、後世の制度に照らして正式な天皇であったか否かという問いだけで評価すべき人物ではありません。国家の継承が危機に瀕した局面で、王権を支え、次代へ渡した政治的役割そのものを評価する必要があります。

 第五章 忍海が支えた飯豊皇女

飯豊皇女の活動は、彼女一人の力だけで実現したものではありません。彼女を支えた地域的・経済的基盤として、忍海(おしみ)の人々の存在がありました。飯豊皇女の別名である忍海部女王や忍海郎女は、彼女が忍海部(おしぬみべ)のもとで養育されたことを示すと考えられます。忍海部は、葛城氏が王族へ嫁いだ女性とその子を経済的に支えるため、自らの配下から設けた集団であったとみられます。後に忍海氏へとつながるこの集団が、葛城氏本宗家の滅亡後も飯豊皇女を守り、生活と政治活動を支えたのでしょう。二王子が逃れていた播磨の縮見屯倉を管理していた人物も、忍海部造細目と伝えられます。飯豊皇女を大和で守った集団と、二王子を播磨でかくまった集団が、ともに忍海の系統に結び付くことは注目されます。両者の間で情報が行き来し、大和の政治情勢を見極めながら、二王子を表舞台へ戻す時期が慎重に選ばれた可能性を示しました。これは史料に明記された事実ではありませんが、飯豊皇女と忍海の関係を考えるうえで説得力のある見通しです。忍海地域の考古学的成果も、この見方を補強しています。当地の拠点集落からは鉄鍛冶に関する資料が多く出土し、周辺の古墳からは朝鮮半島系の品々も確認されています。五世紀後半の忍海には、渡来系の技術者を含む集団が居住し、鉄生産を中心とする工房群を営んでいたと考えられます。その技術と富が、飯豊皇女の政治的・経済的な基盤となりました。飯豊皇女が政務を執った忍海角刺宮は、『日本書紀』の歌にも詠まれています。大和へ行ったなら見てみたいものとして、忍海の高い角刺宮がうたわれたことから、当時の人々の目を引く立派な宮殿であったことがうかがえます。忍海の技術者集団が、育ててきた皇女のために最先端の技術を用いて宮を造ったと。「角刺」の名は、鹿の角のような装飾が建物に取り付けられていたことに由来する可能性があります。家形埴輪には、軒から角状の飾りが突き出す例があり、角刺宮の姿を想像する手掛かりになります。現在、宮の伝承地には角刺神社が建ち、飯豊青皇女が祭神として祀られています。神社前の鏡池には、皇女が水面に顔を映したという地域の伝承も残り、江戸時代の名所案内にも角刺宮跡が紹介されています。

第六章 陵墓に残る葛城との結び付き

飯豊皇女は、死後、葛城の埴口丘陵に葬られたと伝えられます。現在、その陵墓に治定されているのが、葛城市北花内の北花内大塚古墳です。墳丘長約83メートルの前方後円墳で、宮内庁が「埴口丘陵」として管理しています。「埴口」(はにくち)という地名は、現在の北花内・南花内の「花内」へ変化したと考えられます。また、陵墓を表す「みささぎ」が「みさんざい」「さんさい」などの地名として残る例もあり、周辺の地名には「三才(さんさい)」といった古い陵墓名の記憶が受け継がれています。こうした地名の連続性から、北花内大塚古墳を飯豊皇女陵とする見方は、考古学者の間でも有力です。古墳は長い歴史の中で何度も姿を変えました。中世には城郭として利用された可能性があり、江戸時代の元禄年間には 新庄藩主・桑山氏によって八幡宮が築かれました。幕末の文久年間には、江戸幕府による陵墓修復が行われ、周濠と外堤が整えられて現在に近い形になりました。修復以前の絵図には、墳丘上の鳥居や社殿が描かれ、測量図と照合することで当時の利用状況を具体的に知ることができます。北花内大塚古墳の近くには、屋敷山古墳や火振山古墳など、葛城氏の有力者の墓とみられる大型古墳が集まっています。飯豊皇女が、母方の祖先や一族が眠る葛城の地に葬られたと考えるなら、彼女が生涯を通じて葛城との結び付きを保っていたことが見えてきます。忍海角刺宮と陵墓は近い位置にあり、生前に活動した場所と死後に眠る場所が同じ地域にまとまっている点も重要です。

以上のことから、

 第一に、飯豊皇女は、清寧天皇と顕宗天皇の間に実際に政務を執った女性であり、歴代天皇に含まれないことだけで、 その存在を小さく見るべきではありません。

 第二に、『古事記』と『日本書紀』の違いは、単なる記録の食い違いではなく、皇統断絶の危機をどのように後世へ伝えるかという編纂姿勢の違いとして読む必要があります。

 第三に、億計王・弘計王の王族としての正統性を保証し、次の王統へつないだことが、飯豊皇女の最も重要な歴史的役割でした。

 第四に、飯豊皇女の活動は個人の力だけではなく、忍海部、渡来系技術者、鉄鍛冶の工房群など、忍海地域の人々と経 済力によって支えられていました。第五に、忍海角刺宮、北花内大塚古墳、周辺地名や地域伝承を合わせて見ることで、文献の短い記述からは分からない飯豊皇女の実像に近づくことができます。

おわりに、「飯豊皇女は最初の女帝なのか」

現在、最初の女性天皇として数えられているのは推古天皇です。飯豊皇女は歴代天皇には含まれず、政務を執った期間も一年に満たなかったとされます。そのため、後世の制度に沿って正式な天皇であったと断定することには慎重さが必要です。しかし、『日本書紀』は、彼女が忍海角刺宮で政治を行い、天皇に用いられる「尊」の称号を自ら名乗ったと伝えます。『古事記』では、皇統が断絶しかねない中で探し出され、二王子を大和へ迎える中心人物として描かれます。これらを考え合わせると、飯豊皇女が事実上、大王に準じる役割を担った可能性は高いといえます。彼女の重要性は、称号の有無だけにあるのではありません。雄略天皇の時代に崩れた王族と葛城の関係を受け継ぎ、 忍海の支援を得て、行方不明だった二王子の身分を保証し、顕宗・仁賢両天皇へと王統をつなぎました。飯豊皇女は、古代王権の危機に際して歴史の表舞台に立ち、次代へ橋を渡した女性でした。「最初の女帝」と呼ぶかどうかは、女帝や天皇をどのように定義するかによって答えが変わります。しかし、歴代天皇に数えられていないことを理由に、その政治的役割まで忘れてよいわけではありません。実在が確実視されるなかで、推古天皇以前に、天皇もしくはそれに準ずる地位にあった女性をあげるならば、飯豊皇女だと言えるでしょう。
                      以上 
               


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