第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年5月21日

【秀長と郡山城】
~考古学から秀長が築いた郡山城を探る~

 

大和郡山市 文化財保存活用室 室長

十文字 健 氏


講演要旨

天正13年に郡山城に入った豊臣秀長は、兄秀吉とともに畿内一円を治めるため、城を大規模に整備しました。これまでにおこなった考古学調査の成果から、秀長以来の豊臣政権期に整備された郡山城の実態に迫ります。


はじめに

私は10年ほど前から大和郡山市で、天守台の調査を機に郡山城の調査にかかわってきました。これまで豊臣秀長という人物はそれほど知られていませんでしたが、今では随分注目を集めており、大河ドラマの影響は想像していたより相当大きいと感じています

 今日は秀長が築いた郡山城を考古学から探るという観点から5つの章に分けて、秀長が残した郡山城の調査研究の進展を紹介します。

1.豊臣秀長と郡山城

 はじめに申し上げておきますが、郡山城に関しては、秀長の遺構がそのまま残っているところは実は少ないのです。そうであっても、秀長に関する歴史資源が全国で最も豊富にあるのは大和郡山市であると思っています

 大阪には有名な大坂城があり、研究者らの努力によって部分的ですが秀吉時代の石垣が見られる施設が整備されました。大坂城に比べると知名度は低いですが、郡山城も同じように秀長時代の遺構が一部で見られる状況です。

 郡山城は築城から廃城まで長い期間があり、石垣もその間に改修や増築或いは破損を繰り返しており、オリジナルの部分が残っている部分はかなり少ないです。これは古文書に関しても同じです。秀長が一代で築いて彼と共になくなったお城ではないので、秀長に関して語れる部分はやはり少ないのです。

 大河ドラマ「豊臣兄弟!」はすごい人気で、これに関連して市の秀長に関する取り組みも増えていますが、私自身は秀長について語れる知識は実はそれほど深くありません。秀長個人に関する内容はこの公開講座の第10回で登壇される秀長研究の第一人者である天理大学の天野先生にお任せします。

 秀長は兄・秀吉と共に織田信長に仕官して数々の武功を挙げて頭角を現しました。信長が亡くなった後は兄を助けて天下統一に向けて共に躍進していくということで、まさに秀吉のサクセスストーリーにおける重要人物です。

 天正13年(1585年)、秀吉は関白になった年に大規模な国替えをすると、秀長は大和、紀伊、和泉合わせて70万石程の大名として大和に入ります。その後、城を整備して郡山を大いに盛り上げ、豊臣政権の基盤を盤石にすることに尽力しましたが、5年余りで若くして郡山で生涯を終えます。

 大和郡山市には秀長ゆかりの歴史資源として、菩提寺の春岳院や肖像画、お城の近くに大納言塚というお墓があります。この墓は豊臣滅亡後に荒れていきましたが、江戸時代になって町民の力を集めて復興され、大切に維持されて今日まで伝わっています。菩提寺の春岳院は、元々の菩提寺だった大光院を秀長の部下だった藤堂高虎が豊臣家滅亡後に京都・大徳寺に移した後、1715年に大納言塚と位牌の管理が移され、以後、秀長の菩提を弔っています。このお寺では、秀長の足跡を示す重要な文書が「御朱印箱」の中に保存されています。

お城の中心部はもちろんのこと、城下町も秀長時代に整備が進められました。例えば塩町、魚町や材木町など職業に関する町名は秀長の時に成立したものです。秀長没後もその遺志を継いだ甥で養子の秀保も秀長の城下町振興策を継承し、奈良での商売を禁止しています。

 ここでいう「奈良」は東大寺や興福寺があった奈良町周辺のことです。奈良時代につくられたこれらのお寺は、京都に遷都した後も奈良の地に残り、荘園経営などを通じて奈良盆地内で非常に大きな影響力を持っており、これが大和の国の特徴でした。秀長は、そんな奈良での商売を禁止して、郡山だけでそれを認めるという、極端な政策をとります。つまり、在地の有力な経済都市であり、寺社仏閣の経済基盤でもある奈良を弱体化させ、自分が作った新興都市である郡山の商売を奨励したのです。

 例えば、染め物業は郡山の紺屋町での独占を認めるといった、奈良に厳しく郡山に甘い政策をとりました。しかし、一筋縄ではいかなかったようで、こういった禁制がその後もたびたび発行されています。

 ここで確実に言えるのは、奈良の力が弱まって郡山が盛り上がったことで、郡山の城下の人々は、江戸時代を通じて自分たちの経済の原点が秀長の政策にあることを認識し、これにより秀長は死後も慕い続けられたということです。

 「御朱印箱」には、郡山で土地税を免除する内容の文書も保管されています。江戸時代になると、月交替で当番の町がこの箱を管理し、町の警備や伝馬の世話をするなど、本来は藩が行う業務の一端を町が担い、その代わりに免税等の様々な恩恵が与えられました。江戸時代を通じて、歴代藩主がこの城下町の特権を認め、幕末まで続きました。

2.郡山城の概要

 秀長は豊臣政権が畿内全域を治めるための拠点として、郡山城を大規模に整備しました。しかし、秀長時代の城郭に関する資料は殆どなく、秀長が整備した郡山城や郡山という町の実態を探るためには、地中に埋没した資料を考古学的に調査する必要がありました。

 大和国を代表する戦国武将を問われると、仙台ならば有名な独眼竜政宗のような、奈良ではそういった武将の名が出てこない。大和を支配していたのは有力寺社で、それぞれの地域で地侍が成長していきますが突出して有力になることはなく、興福寺や春日大社などのバックに僧兵や官人といった形で動いていました。

 そういった中で、筒井順慶が大和郡山市の筒井に城を持ち、松永久秀との抗争に勝って自分の城を堅牢にしようとしましたが、織田信長から「待った」がかかり、郡山城を築城してそこを治めるように、と命令が下った。これは秀長が郡山に入る、5年ほど前の話です。

 秀長は和泉と紀伊も治める大大名として郡山に入り、大規模に城郭を作り直しました。しかし、秀長も、その跡を継いだ甥の秀保もすぐに亡くなり、大和豊臣家は断絶しました。その後を豊臣五奉行の一人、増田長盛が継いだのですが、関ヶ原の戦い後に追放されます。天正13年から増田が追放されるまでの15年間を、豊臣政権期と呼んでいます。

 増田長盛の追放後、郡山城は廃城となり、建物は殆どが持ち去られ、天守は二条城に持っていかれたと伝わっています。

 そして、元和元年。徳川の大大名である水野勝成が郡山に配置されて、近世郡山藩として復興を遂げました。水野の後も松平、本多といった譜代大名が郡山を治め、江戸時代の後半150年間は柳沢家が治めて、明治維新を迎えます。郡山が、豊臣政権のみならず徳川の幕藩体制においても、畿内統治において重要な場所であったことを示しています。

 明治維新で廃城となり建物が全て撤去され、現在は石垣や堀だけが残っているという状態です。遺跡の保存状態が良好であることから、令和4年に城跡は国史跡に指定されました。

 郡山城は奈良県北西部の丘陵地の先端に位置し、丘陵の内側の盆地を挟んで興福寺や東大寺といった寺社を見ることができます。当時の既得権益に対するけん制ができる場所であり、また京都や大坂へのアクセスの要衝でもあり、戦略的に作られた城であることが分かります。

 奈良盆地は大和国の北西にあり、国全体の4分の程度の広さですが、ここに人口が集中しており、これは江戸時代も変わりません。

 秀長あるいは豊臣政権は、伊勢や伊賀に通じる大事な交通の要衝に、郡山城を含めた3つの城を大規模に再整備し、彼らの家臣を配置して大和国の支配体制を盤石にしました。

 1644年から48年の正保年間に作られた城の絵図が郡山城の具体的な形がわかる最も古い資料ですが、この図の精度は非常に高く、城下町の町割は現在の地図と重ねてもほとんど変わっていません。しかし、秀長の作った城がこの絵図とどう違っていたのかは、考古学的な資料を蓄積して解き明かしていくしかありません。

 最終的な郡山城の仕上がりの姿は、天守台を中心にして内堀そして中堀、外堀の三重の堀で囲む惣構えの構造です。天守台などがある中心の曲輪は、小高い丘の上にあって、惣構えに囲まれた城下町は低地にあります。町人は低い位置に住むこととなり、視覚的にも体感的にも階層が立体的に現れています。

 外堀が完成したのは増田長盛の頃と伝わっており、色々な状況証拠からもほぼ正しいと言えます。既存の溜池を連結したり自然の地形を活かしながら、うまく城を作ったと言えます。ここからは、豊臣政権期にお城の構造が整ったという前提で話を進めます。

 江戸時代には二の丸がメインの曲輪になりました。御殿もここにつくられ、本丸はほとんど使用されなくなりました。丘陵地から一段下がった低い位置にある広い区画が、藩の家老が屋敷を構えた五軒屋敷という大事な仕事をする空間です。また、当時は機動力として重要だった馬の世話をする曲輪もお城の中心部分にありました。他にも薪蔵や松蔵など色々な蔵がありましたが、明治の廃城時に建物は全てなくなりました。曲輪や石垣が残され、早くから公園として整備されたため、城跡は市民から市のシンボルとして親しまれ、近畿圏から訪れやすい立地もあり、桜の名所としても知られています。

3.石垣調査から探る

 絵図や建物に関する資料が残っていない以上、石垣など他に残されたものから城の成り立ちを考えていかなければなりません。

 本丸と天守台の石垣ですが、堀底からは10メートル、天守台は高さが8メートルなので全部で18メートルあり、城内で一番立派な石垣と紹介しています。

 郡山城の石垣は大坂城の石垣と違い、自然の石を使ったものが中心です。大坂城の石垣は四角に加工された石を隙間なく積み上げた徳川の時期のものが多いですが、郡山城の場合は様子が異なります。城内全域に全部で180面ほどの石垣が堀沿いを中心に分布していますが、これは幕末に書かれた絵図の石垣分布と殆ど一致しています。

 昭和になってから修理された部分もありますが、全体としてはあまり手が加えられておらず、幕末から今日までよく残っています。

 郡山城の石垣は自然石を使ったのが主体なので、形も大きさも色もまちまちでカラフルな点が特徴です。ただ全部がそうではなく、中には四角く荒く加工した石の石垣や、比較的丁寧に四角に割った石を積んだ石垣も見られ、江戸時代でも比較的新しい年代に積み直されたことが分かります。例えば本丸月見櫓下の石垣には比較的四角に整えられた石を算木積みにする部分があります。長軸が互い違いになるよう振り分けながら綺麗に積まれているのが分かりますが、これは比較的新しい年代の積み方です。これに比べて長軸の振り分けがルーズに積まれ、かつ色や形がさまざまな自然石を中心に使った石垣が、年代が古いものです。

 本丸石垣の写真ですが、下に人が一人写っています。彼の周辺は真四角の石が多くあり、梵字や家名が刻まれています。これらは全て墓石です。こういった石材はもともと違うところで使われていたもので、石垣に転用されたことから転用石と呼んでいます。郡山城は石垣に転用石をたくさん使っているのが特徴で、転用石が多い石垣は古い時代の石垣という傾向があり、天守台を中心とした本丸によく見られることから本丸の造成が早い時期に始まったという見当がつきます。

 天守台の隅にあるこの四角い石は、石積みのために四角く加工したのではなく、もともと建物の礎石だったものを引き抜いて持ってきた石です。郡山城の近くにある奈良時代の平城京の入口・羅生門の跡から持ってきたと伝わっています。

 転用石は色々なところで見ることができますが、中でも有名なのが「逆さ地蔵」と呼ばれる天守台の石で、石垣の隙間から覗き込むと逆さ向きになった地蔵の頭が見えます。最新の調査で三次元画像を見ると、このようなお地蔵さんで、昔から有名な転用石です。

 天守台の北側の石垣には50センチほど飛び出した部分があり、このままでは崩れそうなので、平成25年から解体修理をしました。

 石垣は、表から見える石の裏側に裏込という人の頭ほどの石を沢山詰め込んで、構造体として成り立っています。裏込にも頭で折れた地蔵や五輪塔などの転用石が使われていて、天守台の石垣の1割を解体しただけで800石も出てきました。

 秀長は天正13年に郡山城に入りますが、天正15年以降に大和の国中から石を集めた記事がたくさんあります。この中には、「うちの山から持ち出されて困る」とお寺が悲鳴を上げている記事もあります。

 郡山城がある丘はもともと石が採れない場所ですが、ここでの築城は、交通の要衝であるこの場所に何が何でも築城するという秀長の挑戦であり、この地の強大な権力者であった寺社に睨みを利かせるための築城の結果のひとつがこの転用石なのだと思います。

 天守台の石垣修理で大きな成果が得られたのを機に、城内の他の石垣でも文化財的な調査をしながら石垣を修理する取組が行われました。

 平成28年から4年かけて行われた白沢門櫓台石垣の解体調査や発掘調査は、櫓門と一体で、天守台に向かうメインの通路であった極楽橋の再建にあたり、櫓台石垣も同時に修理したものです。この石垣を解体すると、大きな積み石の後ろから沢山の裏込石が出てきて、豊臣の時期に作られた部分が残っていることが分かりました。

 先ほど、郡山城は桜の名所とお話しましたが、桜が城跡内に無秩序に植えられた結果、根っこが石垣の裏に回り込み石垣の石を前に押し出すというような、遺跡の破壊に繋がっていることも明らかになったのです。

 これからは観光的な見どころとしてのお城というだけでなく、遺跡をしっかり保存するという観点から整備が必要であると警鐘を鳴らしています。これは全国どこのお城の石垣にも通じる大きな課題です。

4.発掘調査から探る

 昭和54年に初めて発掘調査して以来、奈良県と大和郡山市があわせて100件以上のお城の発掘調査をしています。そのほとんどが大きなビルやマンション、店舗などの開発事業をする時に、遺構が壊される部分の記録を残す調査で、受け身的な調査が多い。壊される部分だけを発掘するので、調査の数の割には十分な調査結果が得られていないというのが実態です。

 そういった中、城の中心部分では天守台や橋の周り、それから郡山城の顔としてよく出てくる門など、精力的に学術調査したところがあるので、様相を紹介します。

 天守台の調査では、写真のように大きな石の列と小さな石の列が並んでいますが、これは発掘調査ではじめて明らかになった天守の礎石です。江戸時代の絵図は沢山ありますが、天守台の上にあったはずの天守を描いたものは、実は一つもありません。江戸時代を通じて天守がなかったことは分かっていたが、それ以前はどうだったかが全く分からず、「幻の天守」と言われていましたが、この発掘調査によって実態が解き明かされました。

 天守の礎石には、文字を彫った石など、石垣で使われている転用石もあり、ダイナミックな当時の工事の様子が分かりました。また、付櫓台には今は埋まっていますが、もともとは地下通路があったことや、石垣の基底部分が地中に綺麗な状態で保存されていたことが分かりました。

 天守の礎石配置や付櫓台地下の構造を総合的に考えると、天守は1階の中心部分に母屋があり、その周りに武者走りという廊下が巡る大きな建物で、そこに入るには付櫓の地下1階から入って建物の中で2階に上がり、そこから天守1階に連絡する構造であったことが分かりました。

 天守に葺かれていた瓦の一部が調査で出てきました。写真の巴紋瓦は大坂城で出土している瓦と同じ模様です。単に模様が同じだけでなく、全く同じ型で作った瓦です。また、軒平瓦は秀吉が京都に築城した聚楽第の金箔瓦と同じ型で作っていることも分かり、郡山城には秀吉ゆかりの瓦や金箔瓦が使われた壮大な天守があったことが確認できました。

 天守台や周辺の石垣は豊臣の時期に大部分がつくられ、それが今も残っている。更に本丸で神社を整備する時の発掘では、穴の中に炭と一緒に素焼きの皿を捨てていたのが見つかっており、これも豊臣の時期の特徴を備えています。本丸一帯が16世紀終わり頃の豊臣の時期に盛んに使われていたことが分かりました。

 極楽橋では、堀底を掘ってみると礎石が沢山出てきて、江戸時代を通じて何度も橋が架け替えられてきたことも分かりました。その下からも瓦が出土しているので、豊臣時代に橋があったのかもしれません。

 豊臣期の遺構が多いことが分かった中心部以外はどうなのか。追手門や追手向櫓など3つの建物を昭和60年前後に市民が中心になって再建しましたが、その際も発掘調査を行いました。向櫓では櫓の礎石や豊臣期の瓦が沢山出土し、豊臣の時期から江戸時代を通じて同じ位置で櫓が何度も建て替えられてきたことが分かりました。

 同じ曲輪の馬場先門を抜けた先にも礎石が並んでおり、この礎石建物も近くから豊臣の時期の瓦が出ています。また、堀を挟んで西隣りにある曲輪もお城の盛土の中から豊臣の時期の土釜をお供えしていた痕跡が見つかっていて、曲輪を作り始めたのが間違いなく豊臣の時期だと分かりました。これらのことから、江戸時代に完成した郡山城の形は、実は豊臣の時期にかなりできていたことが解き明かされました。

 さらに江戸時代にお殿様が住んでいた二の丸でも、最近になって御殿がある下の層から金箔瓦が沢山出土しました。このあたりは元々谷で、その谷を埋めた土に金箔瓦が入っていました。天守台の周りより少し新しい年代に建物が整備されていて、それを撤去した後、江戸時代に御殿を作るために平らで広い空間を造成したことが分かりました。これも発掘調査で初めてわかった成果と言えます。

 大和郡山市の市役所庁舎は最近に建て替えましたが、この時の発掘調査で礎石が出ています。天守の礎石の半分くらいの大きさの礎石が整然と並んでいます。これは16世紀の終わり頃の建物で、十中八九、秀長家臣団の屋敷跡と見ています。

 それからもう一つ。追手門や追手向櫓があった場所は、江戸時代は常盤曲輪と呼ばれて巨大な広場として維持管理されていました。ここは文献からかつて「法印曲輪」と呼ばれていたことが分かっています。法印とは秀長の筆頭家老の横浜一庵法印のことです。秀長は生前に最も強力な城下町振興策として地税の免税を準備していましたが、秀長が亡くなった直後に法印の名前で書類が発行されました。秀長は京都や大坂に精力的に出向いていたため郡山を留守にすることが多く、家臣が政策を実行していたとみられます。この免税策は、信の厚い法印と小堀正次の連名で進められました。

 また、大坂城や聚楽第の瓦と同じ型の瓦ですが、天守出土の巴紋の瓦と向櫓出土の同じ型の瓦では、同じ型で作ったのは間違いないのですが実は若干違うところがあります。瓦は木で作った型に粘土を押し当てて同じ模様を何個も複製するのですが、型の木が摩耗したり、木の節に沿ってひび割れたりすると、傷などが瓦に転写されることがあります。また、瓦の模様と縁との間の隙間が無くなっているものがありますが、これは型を切り詰めたり改変した痕跡です。瓦を細かく見ると、これらの痕跡の変化から作った順番を追うことができ、郡山城でも建物を作った順番が分かります。郡山城では、天守をまず作り、周辺の追手向櫓などはその後に作ったことが分かります。

 この当時は庶民の家には瓦は使われておらず、基本的にはお寺にしか使われていなかった。それが城郭にも採用されるようになりますが、お城は非常に短期間で作らねばならず、しかも多層の建物であり、築城にあたっては大量の瓦需要が生じます。お城の瓦はお城専用で作られたという見方をされがちですが、調査を進めると郡山城で使われている瓦は周辺の寺院でも使われていることが分かってきました。一つの事例として、郡山城で出土した巴や唐草の瓦には、筒井順慶の墓所でも使われたものがあります

 このことから、郡山城では筒井順慶の墓所に瓦を納めた生産供給のネットワークが城作りに取り込まれていったとみて良いと思います。

 郡山城には、幕藩体制に入っても譜代大名が次々と入り、それぞれの藩主の家紋をモチーフにした瓦が作られます。水野家の沢潟に始まり松平家、本多家の立葵など、歴代城主の家紋瓦が出土するのが郡山城の特徴で、江戸時代を通じて代々お城が整備されていたことが分かります。

5.郡山城跡における秀長の足跡

 最初に述べたように、郡山城における秀長の足跡や遺構はかなり少ないのですが、天守台を始め本丸出土の素焼きの皿の出る場所や追手向櫓、法印曲輪の礎石建物、そして重臣たちの屋敷ではないかと考える礎石建物、さらに古い石垣など、お城のほぼ全域で豊臣政権期の遺構が部分的ながら確認できます。お城全体の構想は、豊臣の時期にはおおむね完成していたというのが私の結論です。

 ただし発掘で見つかった天守の礎石は秀長の時期ではない、と結論付けています。天守台の石垣をよく観察すると、下から12段部分とその上で石の積み方の特徴が変わっています。資料を探っていくと、秀長の亡くなった後に慶長の伏見大地震が発生しますが、この地震は非常に大きく、郡山城の天守も被害にあったという記録が残っています。

 地震が発生した年は増田長盛が入城した年です。この地震で天守は1回崩れ、裾周りの石垣が元のまま残ったのでその上に石を積み上げ、発掘で見つかった礎石になおして天守が建ったというのが今の結論です。

 郡山城の整備は豊臣期の15年間で加速度的に進みました。秀長は新興都市である郡山を強力な寺社勢力がある奈良に負けないような、武家政権が中心のまちづくりを目指したと言えます。

 本日紹介したような調査を経て、郡山城の価値が認められ、令和4年に国の史跡に指定されました。指定に当たって郡山城の本質的価値として挙げたのは次の5つです。

 1)武家政権による畿内統治の支配地点として整備拡充された城郭

 2)豊臣期の城郭を基盤として近世城郭に発展した城郭

 3)城郭石垣構築技術の変遷を伝える石垣が残る城郭

 4)豊富な考古や遺物資料と遺構の変遷過程が対比できる城郭

 5)現代の都市の礎となった城郭

 豊臣政権期に完成したインフラが今なおまちづくりに継承されているのです。

 そして、お城本来の形をみんなで体感できるように整備するために、令和56年に史跡の保存活用計画を策定しました。そして令和7年度に作った整備基本計画をベースに、今後10年間で石垣の修理や法面の環境改善を進めますが、中長期的な課題も多く、最初の10年では緊急的な修理だけで、2030年では整備が終わらないかもしれません。長い時間をかけて、これまで保存してきた遺跡を次の世代にバトンタッチすることになります。

おわりに

 郡山城は昔から市民に親しまれ、桜の季節以外にも沢山の祭りが行われています。これからも城跡という枠組みにとらわれずに、もっと活用していただきたいと思っています。

 文化財は都市建設部まちづくり戦略課の所管で、調査研究するだけでなくまちづくりに活かすための体制となっています。今わかっている価値を更に磨き上げながら、積極的な利用を促していきたい。

 そのための一番の課題は、バリアフリーです。お城は基本的に人が攻めにくいように作っているので、段差はあり坂道もあるというバリアフルな代物であり、それが本質的価値を構成する部分でもあります。天守台に仮設スロープを作り、みんなで車椅子の人を押し上げてあげる取り組みも行なっており、今後も史跡の価値を皆が享受できる取り組みを進めて保存活用を促進することで、遺跡の未来に繋げていけたらいいと思っています。

 最後に宣伝になりますが、郡山駅に向かう電車から見える櫓では、来年1月まで展覧会を開催しています。秀長に関する資料や菩提寺の春岳院から降ろした瓦、そして古墳時代から中世近世の郡山の魅力を発信できる展示物を並べているので、是非ご覧ください。

 以上で私の話を終わります。


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