第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年3月12日

【関西鉄道150年の歴史】

 

元大手前大学 非常勤講師

吉村 昌之 氏


講演要旨

1874年(明治7)関西に初めて鉄道が敷設された。
この時大阪駅が設けられ、以後難波、天王寺などの駅が造られ、ここを起点に関西各地に鉄道が延伸し発展していった。その情況を概観する。


   はじめに

(私が鉄道に興味を思い立ったのは、大学、高校等で教鞭をしている中で、神戸での学校生活での興味で、町が江戸時代から近代に移っていく時に出来ていく又、壊れていく事が町の発展に鉄道の果たした役割が大きいのではないかと思い多くの資料を集め纏めてみようと思いはじめた経緯です。)

 私が鉄道に興味を持ち始めたのは、大学、高校等で教鞭をとっているときでした。神戸のある学校に勤めていたころに、江戸時代から近代に移っていく時に町が出来ていく、あるいは壊れていく際にその変化に鉄道の果たした役割が大きいのではないかと思い、多くの資料を集め纏めてみようと思いはじめたのが経緯です。

日本に鉄道というものができたのは、関東では関西より早く1872年に新橋~桜木町間で開通し、その時国は同時に神戸~東京の東海道線を敷く前提で計画をしていますし、敦賀~長浜間にも計画をしています。そして1874年に関西で初めて大阪~神戸間に鉄道が敷かれました。

さて、日本人が初めて鉄道をみたのが、1854年のペリー来航2回目に模型の機関車を揚げてきたときですが、鉄道そのものが出来たのは、1829年に英国のスチーブンソンがロケット号の名称で世界で初めて蒸気機関車を発明した時です。それから約40年後に日本人は実用化して鉄道を走らせています。

世界史的にみますと19世紀後半から20世紀の当初ドイツのビスマルクなる人物が活躍していた時代には、ヨーロッパからベルリンを経由してイスタンブールに行く小説で有名な観光目的のオリエント急行が当時は軍事目的で敷かれていました。日本政府でも軍事目的で東京から中国大陸に向けて鉄道を敷く前提で計画をしますが、残念ながら資金がなく断念します。そして当時の国家予算は約8千万円という時に横浜~新橋間を工事費用約280万円で施工しています。そのために政府は資金がかからない手段の一つとして狭軌の軌間の選択をします。

1「電鉄」とは

関西人はよく「電車」という言葉に親しみをこめて使いますが、東京では違和感があり西武とか小田急とかで「電車」という言葉を使っていません。

ここで鉄道に関する言葉の定義を説明しますと

「電鉄」:「電気鐡道」の略 1895年京都電気鉄道が日本初

「電車」:電気を動力とする鉄道車両。

「鉄道」:軌道を使った交通システム

『軌道』:レールを敷いた道

ごっちゃに使っている場合が多々ありますが、厳密に言うと以上です。

2「軌間」について 軌間とは線路の幅のこと。

「軌間」には世界標準の「標準軌」(1435mm)と「狭軌」(1067mm)があります。

関西での「狭軌」は南海とJRで、他の私鉄はすべて「標準軌」です。資金がなく敷設された新橋~横浜間が「狭軌」で、これは線路の幅の問題でなく蒸気機関車の車輪の幅に関係しています。

世界的にはスチ―ブンソンが発明した蒸気機関車が「標準軌」であったため圧倒的に多く使用されています。日本では6割以上が「狭軌」で、東京が殆ど「狭軌」で、東京では京成と京浜が「標準軌」です。従いまして東京では「狭軌」が多い為相互乗り入れが自由に行われて非常にややこしく、「標準軌」は地下鉄都営浅草線のみです。

3「駅」について

「駅」という言葉は駅伝制の駅から鉄道の駅に転用された歴史的に様々な事情があります。

「駅」の形態には「中間駅」と「終端駅」があります。 

プラットフォームの形状には ①単式ホーム②相対式ホーム③島式ホーム④櫛形ホームの4つがあります。

「中間駅」には大阪狭山市駅、南海難波駅は「終端駅」で「櫛形ホーム」です。又、JR大阪駅は「中間駅」で、東京駅は今スルーしますが、上野駅は半分「終端駅」です。日本で一番大きい「終端駅」は一番に阪急梅田駅、二番目に南海難波駅、あと大阪には上本町駅、阿倍野橋駅があります。


(2)関西鉄道の歴史

   ターミナルの設置

1874年に関西で初めてJR大阪駅が官設鉄道の敷設で(大阪~神戸間)開業されました。余談ですが大阪駅と梅田駅、天王寺駅と阿倍野橋駅はどう違うのかは大阪の人はわかりますが外国人とか旅行人には理解できないと思います。二番目に古いのが南海難波駅で(1885)、続いて湊町(現JR難波駅)、天王寺(1889年)ですが、実は天王寺駅は私設の大阪鉄道が湊町駅~柏原駅間(関西本線)で開業し、続いて同時に1910年梅田駅、天満橋駅、そして上本町駅、天神橋駅と整備されます。今の天神橋駅は通過駅ですが、開業当時は京阪神急行京都線の「終端駅」で新京阪と呼ばれていました。

 ここで大阪の歴史の話しをしますと、江戸時代の大坂は大坂城下における「北組」「南組」「天満組」の3つの町人地区からなる大坂三郷という幕府の支配下にありました。現在の中央区、北区、の範囲に相当します。

従いましてこの2地区以外は郊外となります。大阪のタ-ミナルは梅田、難波、天満橋、上本町ですが郊外に造られます、その理由はシンプルですが場所がないからです。

 昭和8年に大阪市営地下鉄が梅田駅~心斎橋間に、翌年難波まで延伸しています。また大阪市は私鉄各社に市内には駅を造らせない方針を今日も続けています。この様なコンセプトで大阪の町の市内の鉄道が出来ています。

今は梅田という字を書きますが、昔は埋田という漢字を書きました。大阪市はウメキタを再開発する為にこの地区を発掘したところ人骨が出てきました。梅田墓地という場所です、大阪には7墓(梅田、南浜、葭原、蒲生、小橋、千日、飛田)があり、その代表的な墓です。

ウメキタが出来るまでは、ここは梅田貨物駅があり大鉄局がありました。

今、重要文化財で高島屋が入っている難波ビルディングに高野線が来ていますが、終点は今でも汐見橋駅で、以前は道頓堀駅と言っていました。

さて、大阪の部分ですが、広大な墓地の跡地に出入橋の橋があって阪神の駅がここにあり、その後梅田迄延伸しました。少し東によりましたが大阪駅の5代目の駅も、ここにありました。難波駅も4代目です。

少し話をかえますと、大阪を中心に衰退したが息を吹き返した京都、新港湾都市神戸、表現の難しい奈良、じり貧状態の和歌山で人口がどんどん減ってきていますが、1900年代の人口統計上和歌山は全国16番目の67千人で江戸時代から殆ど人口は変わっていないし、町の大きさで言うと名古屋とほぼ同じですが、名古屋と和歌山は御三家の町でもあり経済的にも発展し、交通の要衝でもありました。問題は和歌山というのは船、すなわち船運でした。平安時代から続いている大阪からは紀伊半島を回って江戸に行くルートでした。

ですから、和歌山は船を監視する点で大事な所でした。だからこそ南海電車は明治の初めに和歌山に鉄道を敷く事を考えましたが、如何せん和歌山が思うように発展せず、一方名古屋は大都市に発展していきました。

それは日本の経済が大阪から東京に移っていった事も要因の一つですが、かつて江戸時代大阪は天下の台所と言われて経済の中心でした。しかし1923年の関東大震災以後東京が発展していきます。1920年代に大阪は大大阪主義というのを掲げて周辺の町を吸収、合併していき、その時の人口は220万人で、日本で一番大きい町でした。そして経済的に発展していく町を中心に大阪に鉄道を敷く事の意味がかなりあったと思います。

   官設鉄道と官営鉄道と私鉄

官設鉄道は国が資金を出して鉄道のレールを敷いて作り上げる事で、官営鉄道は民間の資本で作らせて国が買い上げる事です。関西のJRは殆ど官営鉄道です。環状線はもと関西鉄道という私鉄でしたが国が買い上げて官営鉄道にしました。大きなところで言いますと福知山線、阪和線(最初は京阪でそれから南海に)もそうです。官設鉄道の東海道線は国が作り、運営もしています。

関西の私鉄で関西鉄道(片町線、学研都市線、福知山線、環状線等)、今はありませんが、現在で言うとJRの関西本線、環状線、学研都市線といったものですが、実は出発点は名古屋で西へ向かって作られる鉄道でした。名古屋から亀山を経て草津に、これが昔の東海道なので敷く事になり、官設鉄道が東海道線を敷く時に、なぜ琵琶湖の南を通り関ヶ原から大垣から岐阜を通って名古屋に出るルートを敷いたかは前に話をしましたが琵琶湖のところまで鉄道が来ていた事でそれに合わせる為に施工しました。距離的にはかなり遠回りしていますが、大阪と名古屋との間を争った時に勝てない。大阪と名古屋を争う鉄道は、①新幹線②近鉄③東海道線の3つありますが①と②の利用が多く③は殆ど利用されていません。

1907年に関西鉄道は国に買収されますが国がメンテナンスしてより速い鉄道にしてくれたかは疑問でした。関西地方の鉄道の電化は約90%進んでいますが、100%にならない理由は関西本線の加茂駅より先が電化されていないからです。

関西人の凄いところは、関西鉄道が国に買収されたにもめげずに
数年後
近鉄を作り、世にいう関西電気鉄道が最初で現在に至っていることです。

3 関西の私鉄について

阪神電鉄のマークは3つの要素、①は暖かさ②ほんまもん③先進性の3つで、1905年に初めて正式に電気鉄道という言い方をしたのが阪神でした。日本では基本的に鉄道というものは国が管理するものであって、将来的に資金が出来たらすべて国有にしたいと思っていました。そこで国が免許をおろす時には狭軌で作る事が前提条件でした。狭軌で作ると将来的に国に吸収されますので大阪の商人達は考えて、鉄道ではない鉄道を敷きたいと時の内務省(警察)に泣きついて軌道(チンチン電車)を阪神電車がほんの少し路面を走らせます。阪神が軌道を走らせた場所は梅田~出入橋と御影です。阪堺電車も天王寺駅~松虫駅は軌道であとは専用線(トラム)です。


京阪電車のマークは6つの澪標です。ただ今は経営が苦しい状態ですが

少なくとも戦前1950年位までの京阪電車は関西地方を制覇する大きな夢がありました。それは京都を起点に東は琵琶湖の船、近江鉄道(今は西武)と名古屋迄通す予定でしたが駄目に、西へは今の梅田のヘップファイブの場所に駅を作る予定で西九条から御影を経て神戸に、もう一つは和歌山の阪和線で国は紀勢線と繋いでくれる条件で京阪に免許をおろしましたが、採算がとれず南海に売却しました。しかし4年足らずで即国有化になりました。


次に阪急電車ですが、1910年に箕面有馬電気軌道の名称で開業しますが採算が取れない事から、小林一三の経営理念は客が乗らないなら客を作ったらいいとの発想で開業した日本最初の鉄道会社です。この小林の発想を東京の五島、西武の堤も採用し発展していきました。そして阪急は1920年に神戸線が開業し阪神急行電鉄の名称で京都を入れて京阪神急行電鉄の名称になり、現在の阪急電鉄となっています。

次に近鉄ですが、母体は大阪電気軌道です。

南海電鉄の歴史ですが、先日NHKの番組で1911年に夏目漱石が大阪から和歌山に行くのに汽車に乗ったことが放送されました。南海は昭和2年まで本線で汽車が走っていました、電化されたのは明治45年です。


高野線で一番古いのは大小路(現堺東駅)~狭山駅間でその後河内長野駅まで、また汐見橋駅へと延伸しています。これは高野鉄道と高野登山鉄道の2つの別会社で施工しています。そして合併して難波に乗り入れる歴史があります。


4 最後に

 明治初期、全国的に鉄道が普及していった理由は1番に軍事目的があり、2番目は産業の普及(特に紡績業)3番目は宗教的な問題で、特に日本の伝統である初詣の風習が鉄道に繋がっていきます。例えば学研都市線を作ったのは四条畷神社が建立されたためで、他にも神戸の湊川公園、伊勢神宮、阪急の中山寺等があり、そこに人を運ぶために鉄道が果たした役割は大きいと思います。


今後の鉄道の課題

2031年に開通予定のなにわ筋線がありますが、南海とJRが乗り入れてすべて狭軌で施行されます。南海は難波駅の地下ホームを作ってなにわ筋を通ってウメキタを経て新大阪へ抜けていきますが阪急が絡んで十三経由になると思います。JRは新今宮から地下に入ってなにわ筋を経て新大阪に行く経路に落ち着くと思います。 


いろいろ有難うございました。


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