第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年2月19日
【手塚治に現代の多様性を学ぶ】
~『アドルフに告ぐ』を手掛かりに~

大和大学社会学部 教授
立花 晃 氏
講師:立花晃 氏 /Akira Jenssen/プロフィール
兵庫県姫路市出身。父はベルギー人の元カトリック神父、母は国内外で活躍する
ステインドグラス作家。兵庫県立大学卒業後いくつかの大学院で
金属工芸や街づくりなど様々な関心事に没頭しながらいわば「入退院・転院」
(※業界では大学院に入ることをそのように表現する)を14年間繰り返した後、
あえて普通の就職をせず、現在、大和大学社会学部社会学科現代社会コース教授、
龍谷大学地域公共人材・政策開発リサーチセンター(LORC)嘱託研究員。
ルカ・ステインドグラス株式会社でデザイン・制作の他、金属工芸にも携わっている。
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| 講演要旨 手塚治虫の作品は、人間やロボット、異星人など多様な存在が共存する世界を描き、異なる価値観や文化の調和の重要性を指摘し、また、LGBTQなどの現代社会に通じる問題も数多く予見し、社会の多様性を示唆しました。今回の講演では、手塚作品が我々に残したものは何か?皆さまとともに考えて行きたいと思います。 |
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| 要旨
近年、美術市場でアドルフ・ヒットラーのいくつかの絵画が話題になった。それらにはほとんど人間が描かれていない、没個性的で殺風景で物悲しい作品である。個人としては孤独で人間嫌いでいて本当は好きになりたかった、ある意味でアンビバレンツ(*1)なところがある人物であった。一方、手塚は人間の業、浅ましさ、いやらしさ、良いところ、悪いところのすべてを死生観も含めて描こうとしていた。 83年生まれの私の手塚作品に関する原体験は、80年代のアニメの再放送や、劇場公開された「ユニコ」などで、他の漫画に比べて高級感のあるものであった。難しいところもあるし、リアルなもの、エロもグロもナンセンスも差別もセックスも描いていた。 手塚は現北野高校から阪大医学部に入学し、医師免許を得るもひたすら漫画を描いていた。そこでの学習や研究は彼の漫画に大きく盛り込まれている。単なる娯楽だけではなく、哲学、生命科学、倫理、戦争、人間の業などが描かれ、例えば善人だと思っていた人物がその正反対のものに変身するなど普遍的なテーマを扱っている。そのため「漫画の神様、日本漫画の始祖」などと呼ばれている。映画からも多くのインスピレーションを得ている。彼は他の幾人かの漫画家と同じく短命で、60歳で亡くなったが、いつインプットしていたのかと疑問に思うくらいアウトプットに精力と時間を費やし、消耗したようだ。 彼は漫画連載にこだわり、アニメへの誘いを受けても抵抗していたが、やがて虫プロを立ち上げるものの、結局2回倒産している。アトムが売れすぎて次を期待されて悩み、売れっ子になってしまった自分の影に苛まれるというような「アトム症候群」にもなっている。少々浮世離れした変人的なところのあった手塚だが、創造的な仕事をする人にはよくあることで、大事なのはそういう人を周りで支え、環境を整える裏方さんが必ず存在し、創作に大きく寄与していることである。 さて、こういう作品を生み出すときに考えられる2つの思考(法)には「アート思考」と「デザイン思考」がある。 アートとは、語源的には「技術」を意味し、無から有を生み出す、いわば神の技であり、嘗ては大芸術・小芸術と呼ばれていたが、現在ではその範囲は空間、時間、体験・経験にまで及ぶ。他人とは違っても、誰も知らない自分だけの価値観にこだわり抜き、思考を深め、豊かな生活や喜び、新たな価値の創造につながっていくものである。いわば、自らをアイデアの源泉、根本とし、主観的なものからの発露だと言える。 一方、デザインとは、もともと「何かを示す、狙いを付ける」という意味で、例えば「ある年齢層を狙った作品を作る」などの目標の達成のために物事を計算、設計、構成することを言う。 この観点から手塚の作品を見ると、アート的な文学ともいえる作品の「アドルフに告ぐ」では自分自身の表現のアウトプットの面を強く出している。一方、経営者としての責任から大衆娯楽、商業展開を重視し、商品展開やファンの獲得を目的としたデザイン思考を展開した「鉄腕アトム」や「リボンの騎士」などアニメ化された娯楽性の高い作品も少なくない。純粋にどちらか一方に偏ることなく、この二つの思考は循環しながら作品に表れるといえるが、手塚は巧みにそれを使い分け、作品に深みを与え、多くの読者を獲得していった。 これら二つの思考法による作品に加えて、手塚にはもう一つ哲学的作品と言える思想性の強い作品群がある。反戦や人間の業、死生観、(アンチを含む)ヒューマニズムなど自身の思想の集大成としての作品で、「火の鳥」や「ブラック・ジャック」などがこれに当たる。 「アドルフに告ぐ」という作品には、やがてはヒットラーユーゲント(親衛隊養成部隊)に志願する日独混血のアドルフ・カウフマン、神戸のユダヤ人コミュニティーのリーダーの息子のアドルフ・カミルの二人が登場する。二人は関西弁を話す親友同士である。さらに三人目のアドルフが登場する。かの悪名高いアドルフ・ヒトラーである。 カミルの父はユダヤ人支援のためにポーランドに行くが、ナチスに捕まりドイツに送られ処刑される。銃殺はカウフマンの任務であった。もう一人の登場人物は狂言回しの峠草平で、ヒットラーがユダヤ系であることを示す文書、ヒットラーにとっては致命的ともいえるものを保持している。そのためゲシュタポや特高などに追いかけ回される。 最後には運命のいたずらかカウフマンはパレスチナ側で、カミルはイスラエル側に立って戦うことになる。この物語では戦争が終わっても憎悪と分断は終わらない、という不都合な現実を手塚は我々に突き付けている。ハッピーエンドを拒絶する物語で、読み終わっても後味は決していいとは言えない。 一方、娯楽作品としての「鉄腕アトム」では、科学が発展し、ロボットと人が共存する未来を描いている。好感を持って読まれていたが、人間に従う、人間に危害を加えない、自分自身を守る、というロボット3原則をアトムは最終回で破る。命令を無視して太陽の爆発を減衰させる装置を抱えて太陽に飛び込んでいき、自らを犠牲にして人間を守る。極めてアンビバレンツな命題に取り組んでいる。彼らが依存していたAIやロボットや移民が使用者側の思惑を超えて反抗、暴走して分断が生まれるという危惧を60年代に早くも感じ取り、予見していたのは手塚のすごいところだと思う。 哲学的作品である「ブラック・ジャック」第51話「二人の黒い医者」では死をまぢかにした患者に対して、安楽死をよしとするドクター・キリコと最後まで治療を尽くすべきだというブラック・ジャックの対立が描かれる。 手塚は大衆娯楽を生み出す職人としての漫画家であることに執着しつつも、アーティストでもありたいと思っていた節がある。売れる作品を生み出そうと思えばいくらでもできたのに、誰も思いつかない新鮮なアイデアで芸術作品を生みだすことにこだわっていた。 さて、戦争という文脈では、2022年から現在までウクライナで戦争が続いている。国際法などを無視して宣戦布告なしの昔の戦争である。しかも現代的情報戦、認知戦(*2)であり、手塚が描いた世界の終末やハイテクな戦争、人々の心をつかみ操る戦争、それが行きついた先がウクライナの戦争である。数多の人命が失われている一方で、宗教施設や多くの芸術作品を含む文化施設の破壊が進んでいる。その中には手塚が直接の交流はないものの高く評価していた素朴派のマリア・プリマチェンコの作品も含まれる。彼はそれらを「稚拙な絵」として見るのではなく民衆の世界認識そのものが造形化された表現であると高く評価していた。 ただ、プーチン憎けりゃ、ロシア文化憎しで、「くるみ割り人形」やロシアの作曲家の音楽を一切上演、演奏しないというのは正解ではない。このような現実を、手塚が今に生きていたらどのように評価しただろうか。 人間の姿を決して描かなかったアドルフ・ヒトラーと人間の業をひたすら描き続けた手塚治虫の二人の違いを皆さんはどのように感じられましたか。 (注)*1アンビバレンツ:相反する心理状態 *2認知戦:「ものの見方・判断」といった認知に働きかけ自国 に有利な方向へ 誘導・分断・弱体化させるための組織的な情報操作・心理操 |
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2026年2月 講演の舞台活花

活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
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