第8回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2026年1月15日

【新選組外伝】
新選組から幕末維新

 

京都霊山歴史館 学術アドバイザー

木村 幸比古 氏

講演要旨

大政奉還160年をむかえるにあたり、薩長中心の幕末史でなく旧幕臣の新選組の実像を追う。


 ○はじめに

 京都霊山歴史館を退職後、産経新聞に「幕末維新伝」を500回、その後「新選組外伝」を2年余り、今は「誠の史跡 新選組」と計12年連載を続けています。

 それらを基に「新選組とは何か」をお話します。

 ○武士の夢

 近藤勇は武州多摩の豪農宮川久次郎の三男として生まれ、幼名は勝五郎。
水は武州多摩から水路木の樋で江戸城へ届け、野菜は筏で江戸に運びそのお陰で 江戸市民は新鮮な野菜を食べることができました。江戸100万の市民は多摩の恩恵を受けていたのです
天皇のいる京都を「皇都」呼んでいました。天皇が大名に下賜した商品を、大阪 商人が値踏みし江戸へ下る。従って大阪を上方と呼びました。商品を選別し、江戸へ送れないものを「くだらない物」といいました。

江戸では上方の商品は高値がつくので「べらんぼうだ」と言い、そこから「べらんめえ調」という言葉が生まれました。 14代将軍徳川家茂が皇女和宮と結婚し幕府と天皇が一緒に政治を行う「公武合体」政策を唱え、そのため京都の治安警備に浪士組300人を募集しました。
その中に近藤一派もいました。百姓が武士になるには藩に召し抱えられること唯一の道でした。 「どうしても武士になりたい」と夢をもった勝五郎、後の近藤勇は「剣術が強くなりたい」と考え幼いころから剣術を習い始め、また「源平盛衰記」「三国志」等を愛読し一層「武士になりたい」と強く思いました。

ある夜、家に盗賊が入りました。勇と兄は寝たふりをしていました。盗賊が荷物を まとめて逃げようとした時、勇と兄は声をかけました。すると盗賊は荷物を置いて 逃走し、兄は追跡しようとしましたが、勇は「荷物とられなかったのでよしとしよう。追跡して返り討ちになったら、被害をうける」と兄を制止しました。この時の冷静な判断が村中の評判になりました。
多摩には自治警備部隊「千人同心」があり、各流派が剣術指導にあたっていました。 その中心が出稽古を中心に剣術指導をしている天然理心流でした。

天然理心流の宗家近藤周斎から勇の知略、機略に感心したので「勝五郎を養子に迎え四代目宗家を継がせたい」との申し出があり、周斎の養子となり、近藤勇を名乗りました。
この時、既に少年の弟子がいました。彼が沖田総司です。沖田は道場の掃除、師匠の身の周りの世話をし、礼儀作法等を習い、剣術指導は素振り程度で、師匠や先輩の稽古をみて剣術を学んでいました。

 ○天然理心流

 天然理心流の流祖は静岡の近藤内蔵助長祐ではじめは天真正伝鹿島神道流を修め、寛政年間に剣術、柔術、棍棒術、気合術からなる総合武術の一派をおこし、その後天然理心流を名乗りました。

江戸時代はこれらを「武術」と呼びました。一方「武道」という言葉もあります。

この違いは当時武術を指導する師範代が負ければ、師範代が交代したため
正時代に武術を教育に取り入れた時「負けたら終わり」であれば継続できないので「術」を「道」に変え、剣術が剣道、柔術が柔道にと呼ばれるようになりました。

「兵法」これを「へいほう」と読めば戦略、「ひょうほう」と読めば剣術などの術を表します。これらを修めた者を「芸者」と呼び、武術を修めた者を「武芸者」と呼ぶようになりました。「芸者」とあれば武道家も含むと考えてください。

 天然理心流の入門者は農民が多く、多摩の千人同心として自主防衛のための稽古に励みました。周斎は江戸にも出向き、剣術指導を行いました。指導料は3万円程度でした。

 土方、沖田の高段者は12日で15千円程度。お土産として「大根等をもらい、樽に入れ背負って持ち帰った」と土方の日記に書かれています。当時、門弟8000人を数える北辰一刀流をはじめ多くの流派がありましたが、宗家は決して裕福ではありませんでした。 藩のお抱えとなった場合、藩から禄を得ているので、個々に指導料をとれません市中で侍以外の人に教えた場合は指導料をとることができました。

道場破りが来ることもあります。その時は「師範代留守。暫くお待ちください」と飲食でもてなし、酔ったところで立ち会いを行いました。渡辺昇などはこれで「結構稼いだ」と言っていました。また、近藤とも知り合い後に幕末、大坂で「新選組は大目にみてやれ」寛大でした。

天然理心流は「田舎剣術、イモ侍」と揶揄されました。近藤は「剣術ばかりやっていても仕方がない。本当の侍になりたい」と思うようになりました。

そんな時、「ペリー来航」がありました。

○国事にあこがれる

当時、天皇を尊ぶ「尊王派」と異人を嫌う「攘夷派」がありましたが、ペリー来航以来、これらが一緒になって「尊王攘夷」となり、更に尊王思想が強い者「勤王の志士」と呼ばれました。天皇を尊ぶ勤王の志士は朝廷の力を弱めようとする幕府に反発し、倒幕を考えるようになりました。 一方、幕府は京都の治安維持のため、浪士組募集をかけ、京都に差し向けました。

その中に近藤一派、芹沢鴨がいたのです 芹沢は芹沢城主、水戸天狗党の残党と言っていましたが、実際は豪農で、氏子総代のような立場であることが最近の史料わかりました。
浪士組には清河八郎もいました。清河は勤王家で「天皇を守るための隊であり、将軍を守る隊ではない」言い、困った幕府は清河に帰郷を促しました。

8.18
の政変で京都守護職 松平容保より壬生浪士組に出動の要請がありました。 容保は最初、京都守護職を固辞しましたが、黒谷の屯所を設けました。黒谷からは御所、二条城が一望できます。二条城は城ではなく五稜郭と同じ番所です。

  京都警備のために1000人必要ですが、経費負担の面で500人しか置いて
いませ んでした。
緊急時、不足人数を集めるために壬生浪士を招集し、会津藩の旗を持って 戦わせました。雨中で懸命に戦っている姿をみた孝明天皇が「隊名前をつけてやりなさい」と言い「新選組」と名付けられました。「新選組」とは昔
会津藩 の優秀な警備隊の名前です。天皇に上奏し認められ新選組は「幕府の隊」となりました。

 また、新選組は「京都守護職様預」を名乗りましたが、この交渉には芹沢のしたた かさがありました。その後、次第に芹沢らが横暴になり近藤らと軋轢が生じ、芹沢の粛正を決行しました。

 ○新選組の池田屋事件

 新選組、近藤、土方の名を轟かせたのが池田屋事件です。馬具商古高俊太郎が武  器も扱い、長州と接点があることを新選組が探索し、古高を捕らえ,土方が壮絶  な 拷問を加え志士の陰謀を聞き出し、密会場所 池田屋を襲撃しました。この時  桂小五郎は集合時間を間違えたため、池田屋にはおらず難を免れました。

 近藤はなかなかの計略家で、隊士を分けて、また、刀が邪魔にならないよう
 左側通
行で進み、各部屋を襲撃しました。 最初に斬込んだのは沖田総司でしたが、吐血しすぐに引き下がりました。 続いて斬込んだのは永倉新八です。

 池田屋事件の時、近藤が「今宵虎徹はよく斬れる」と言ったと伝わっています。「近藤に名刀虎徹が持てるはずがない偽物だ」と言う人もいますが、本物だと思い ます。その根拠は豪商鴻池善右衛門が土木事業を容易に進めるために京都守護職の 印が有効と考え、その関係で近藤に贈ったものと思います。

 池田屋事件で報奨金が出されました。そして隊員への配分は近藤と土方が決めま
したが、「幹部優先の配分で働きに比例した配分ではない」と隊内に不満が出ました。


 近藤の日頃の言動に不満を持っていた永倉は松平容保に「近藤は勤王のことを良く言っている。芹沢亡き後、近藤、土方の横暴が目立つので処分して欲しい」と直訴しました。容保に「わしに免じて堪えろ」と言われ、永倉引き下がりました。
 その後、禁門の変で幕府から出された報奨金の配分は一律でした。これは「近藤、土方の思う通りにはしない」とう京都守護職の意思表示と思います。

川祐芳の名刀

 近藤は刀好きで、特に重い刀を好んでいました。普通の侍の刀は760g程度ですが近藤の刀を実際握ってみましたが1㎏以上ありました。

 近藤の好きな刀に「吉川祐芳」があります。明治天皇が選んだ「10人の刀工」に「吉川祐芳」の名があります。また、王政復古の際、伊勢神宮に奉納した刀の中にも「祐芳」が含まれていました。

 新選組は1番隊から10番隊で組織され、1番隊組長 沖田総司、2番隊 永倉新八、3番隊 斎藤一、4番隊 松原忠司・・・ 10番隊 原田佐之助と続きます。

 この序列は、剣術の強い順と思います。沖田、永倉、斉藤は三羽烏といえます。

 近藤は池田屋事件で3度程、斬られそうになったといわれているので、さして強くはなかった。土方は身長が低く免許皆伝程度の腕前であったと思います。

 沖田、永倉で現代の藩士、近藤、土方で教士クラスの実力と思います。

 沖田は若くして労咳で亡くなりますが、永倉は晩年まで、北海道大学で剣術の型を教えていました。実力があり、新選組で一番強かったのは永倉と思います。

 近藤は鳥羽伏見の戦いで、会津藩中間小鉄(上坂仙吉)に旧幕臣の遺骸埋葬を依頼し、その代償に祐芳の刀を渡したと考えます。

 ○組織の崩壊

  近藤は鴻池、加賀屋等の豪商から資金集めをしていました。これは私腹を肥やすのではなく、ドイツ製の台場を作るのが目的です。しかし伊藤甲子太郞はこれを不審に思い内紛を起こし、近藤らは伊藤を粛正するために油小路で暗殺しました。これが「油小路の惨劇」です。

 ○鳥羽伏見の戦い

  鳥羽伏見の戦いで二条城を出る時、徳川慶喜から樽酒が振る舞われました。
これは辛口で「侍の酒」とされていました。一方、花街で飲む酒は甘口でした。

  鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍15000名といわれていますが、実際は1000名位で、残りは大坂にいて順次出兵して行きました。新政府軍は5000名といわれていますが、300名程度で残り4000名余りは、御所周辺の警備にあたっていました。

  西郷が東寺から大久保に援軍を要請しましたが「これは戦いではなく、天皇をお守りするが目的なので、援軍は出せない」と断っています。

  戊辰戦争絵巻で鳥羽伏見の戦いを80Kのカメラで詳細をみると、笑顔や横を向いている兵士等様々な様子が描かれています。

  洋装、和装両方不揃いな軍服の会津藩兵士も描かれています。文久2年に島津久光は兵制改革を唱え「長袴時代遅れ」と改めました。会津兵は十分に調練を受けていないので不揃いだったとのだ思います。

  鳥羽伏見の戦いで薩摩軍(新政府軍)が勝利しました。

  城南宮で薩摩軍は風上から、幕府軍は風下から撃合いました。当時は火縄銃で火の粉が顔に当り、また、薩摩軍は味方同士で撃合ったりで、はじめは互角の戦いでした。食料面では、薩摩には仕出し弁当が配られました。その配達には地元のお婆さんがあたり、孫の年齢の若い兵士を励ましました。これは昭和50年頃の聞き取り調査で土地の古老から聞いた話なので、信憑性は高いと思います。

  一方、幕府軍は正月用に軒にぶら下げられた餅を食べていました。暖かい弁当を食べていた薩摩軍と大きな違いがありました。冬の鉄砲での戦いなので、寒さに弱い薩摩軍は手を冷やさないよう、手袋や油壺を準備する等、防寒対策に怠りがありませんでした。薩摩軍は伏見奉行所に大砲を撃ちこみ、ほとんど命中し多数の負傷者が出ました。

  これに対し、土方は永倉に斬込みを命じましたが、小銃の反撃に遭い撤退しました。

  しかし、ほとんど命中されておらず、もしかしたら空砲だったかもしれません。薩摩は情報管理が優れていました。伏見の本営に集まった情報を探索方が精査し、東寺と野戦病院が置かれていた東福寺に報告され、情報管理が行き届いていました。

  長州の情報は意外と間違いがありました。幕府の情報も間違いだらけでした。

  その結果、幕府軍は鳥羽伏見の戦いに敗れ、新選組は甲陽鎮撫隊を結成して甲州勝沼の戦いに挑みました。その時、近藤は大久保大和、土方は内藤隼人を名乗りました。

○再起をかけた甲州勝沼の戦いと斬首

  近藤は大名になることを望んでいました。名刀「二王清綱」で近藤の首を討った志士が介錯料で「大久保大和守忌」の法事を美濃で行いました。「大久保大和勇」ではなく「大久保大和守勇」として、近藤の夢であった大名になることを、黄泉の国で叶えてやったものと思います。

  内藤隼人=土方は、遊び人で甲州勝沼の戦いの前夜、士気を高めるため一晩中酒を飲みました。翌日、天候の変りやすい甲州は雪が降り、雪の中進軍しましたが、敗退しました。日をあけず一気に攻めていれば、勝っていた可能性があります。この時、近藤は「会津から500人の援軍がくる」言いました。しかし永倉はこれをうそと見抜き、脱走し上野寛永寺で戦うこととなりました。

  近藤は「甲州で戦いたい」と土方と共に流山に向かいますが、ここで捕まりました。

 ○近藤の埋葬

  捕らわれた近藤は「自分は近藤勇ではない」としらを切ります。

  近藤をよく知る清川清による首実検が流山で行われました。清川が「近藤さん」と声をかけと、近藤が反応したため見破られました。近藤の助命嘆願の動きもありましたが、勝海舟は「時代が違う」と言い嘆願が叶わず板橋に送られ処刑されました。塩漬けにされた近藤の首の写真がありますが、近藤の面影は全くありません。

 ○三条に近藤の首

  近藤の首は京都三条河原の晒台に置かれ、盗まれないよう五寸釘で止められ、その横に「右は元来浮浪の者にて・・・」と書かれた斬奸状が添えられました。

  「浮浪の者」とは侠客や浪人風情を指す言葉です。幕臣と書かれていません。

  これは京都で猛威をふるった新選組に対する新政府の厭味と思います。

  新選組中島登の「戦友絵姿集」によると、近藤の首はその後、会津の中間が盗み、自身がもらった刀と共に会津の天寧寺に埋葬されたとあります。

  戒名は松平容保によって「貴天院殿純忠誠義大居士」と大名級の名前がつけられました。

 ○松江伝来覚書

  後に、会津若松市長になった松江豊寿がこの近藤の刀を手に入れ、その経緯を「松江伝来覚書」に記しています。その中に郷土研究で幕臣近藤の史実を知り「首級ノ碑ヲ建テ此ノ刀ヲ受ク」と書かれています。会津の小鉄伝にも「近藤の首を盗み、首と刀を会津に走り埋葬した」あります。

  松江豊重は徳島坂東俘虜収容所長時代、ドイツ人俘虜との面談を通じ各人の特技等を聞き「楽しいことをやろう」と「第九」の演奏を行いました。これが日本で初めての「第九の演奏」と話題になりました。

  また、地元民は俘虜のドイツ人から養鶏、養豚、野菜栽培の技術指導を受け、それが全国に広がり、神戸でバームクーヘン、徳島でハムが作られました。

  徳島のハムはその後、日本ハムとなり、現在、大谷翔平選手の活躍と続いてます。

  このように歴史は巡り巡って、現代の我々の生活と繋がり、身近なものになっていると思います。

  これで新選組の話を終わります。

                                  以上


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