第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2025年12月19日

【反転する井伊直弼】
~マッカーサーと大河ドラマのつながり~

 

京都日本文化資源研究所 所長

石川 肇 氏

講演要旨

「非道の権力者」とされた幕末の大老・井伊直弼。その評価が戦後「開国の恩人」と見直されたのは何故か。そこにNHK大河ドラマ第一作目、舟橋聖一『花の生涯』の強い影響と、マッカーサーによる「占領物語」があった。


1 京都日本文化資源研究所の立上げ

私は元国際日本文化研究センターに在籍しておりましたが、当時の小松所長から将来のことを聞かれた事で、多分今の研究は打ち止めになると危惧していました。そこで、所長から後押しするから自分でやった方が良いと勧められて所長に推挙されました。

この研究所は、私は元フィールドワーカ-でしたので、日本人が海外に残した資料を集めていきながら、その流れで日本文化というのは一体何だろうと思い、日本には多く文化資源が眠っているのに、なぜ誰も調査しないのかというところからスタートしたもので文化資源という名前がついています。そして文化資源を使った研究をしています。

 

2 日本の時代劇

時代劇の研究も日本の文化資源の視点から始めたもので、日本の特徴を示す文化は、時代劇、妖怪、春画の3つであり、外国では模倣出来ないものだと思っています。そこで、映画村のアンバサダーとして、東映の撮影所に調査に入る事がゆるされまして、調べていきますと沢山の時代劇の衣装が見つかりました。丁度最近大変有名になった映画「将軍」と「侍タイムスリッパー」などの衣装を担当された古賀さんに教えて頂いたところ、市川右太衛門さんの代表作である「旗本退屈男」の衣装114点が倉庫に保存されているのが見つかったのを機会に「衣装からみる時代劇」というエッセイを書きました。

そして、日本でこの素晴らしい時代劇の衣装の展覧会を企画しました。

ところが、日本という国は自分の価値観に自信をもてないのか、どこも衣装に関して興味がなく、仕方なくフランスのパリで展覧会を行なう事になりました。そして「旗本退屈男」の映画にフランス語字幕をつけて放映したところ大成功でした。

そのように衣装を研究しているさなかに、時代劇に携わっていた故中島貞夫監督から「衣装の研究も良いが、もう少し的を絞っていくべき」と言われ、その際に時代劇を時代劇ならしめているものは、「衣装」「鬘」「小道具」であり、この3つがないと時代劇は成り立たないと教えられました。そして「小道具」から見る時代劇の研究を進めている最中に、その「小道具」を使った東映の「侍タイムスリッパー」で、日本では時代劇を初めて撮った牧野省三監督から製作を頼まれた「高津商会」という小道具業者は、現在も活躍されています。

今年大阪で万博が開催されましたが、京都でも「京阪奈万博」と称して開催しました。その中の一つが「小道具」の展覧会です。

その理由は京阪名地区で行われている現代の最先端の研究の下には伝統工芸の基礎となるものがあってその研究を支えている、その一つが小道具であると考えたからです。カレーで言えば“底味”のある方がよいと考えて映画ではなくテレビ時代劇の小道具を展示しました。

 

3 舟橋聖一の「花の生涯」について

 そもそも私が時代劇を研究し始めたのは、昭和の大人気作家の舟橋聖一が残した井伊直弼を主人公にした有名な歴史小説「花の生涯」からです。私が疑問に感じたのは、なぜ彼は戦前から現代小説を書いていたのに、戦後急に歴史小説を書いたのか、しかもなぜ井伊直弼を取り上げたのかということでした。私の井伊直弼の見方は、学校で教わった「勝手に開国した人」、「桜田門外の変で殺された人」、「吉田松陰を殺した人」等のマイナスのイメージしかありませんでしたが、彦根に行きますと井伊直弼は「開国の恩人」と宣伝しています。一体この差はなんだろう、何か理由があるに違いないと思いました。

さて、舟橋聖一は新聞小説に「憂国の宰相井伊直弼」として「花の生涯」を書き始め、しかも10年後には大河ドラマの第一作目に選ばれて津々浦々まで広がっていきました。しかし、調べていきますと実は井伊直弼のプラスイメージの形成には「花の生涯」のその前にアメリカが関係しているのではないかという事がわかってきました。

そこで、本日の講演内容に進みますが、まず彦根の郷土史家の矢部寛一氏が、戦争が終わってマッカーサーが日本に来て自分は第二のペリーだと自認した事に気付いて、ペリーが来航した時に井伊直弼が開国したのだから、マッカーサーなら分かってくれると思い、自分の家財を売り払って本を書き始めます。その本をGHQのマッカーサーに届けて直訴すれば、井伊直弼の評価を変えてくれると考えました。この直訴の件を新聞各社が知って大々的に報道します。舟橋聖一はそれを知り、機を見るに敏で、チャンバラ映画が撮れない時期でしたが、昭和27年に日本がGHQから解放されたので、井伊直弼の「花の生涯」は必ずヒットするだろうと思い書き始めました。

余談になりますが、昭和27年までチャンバラ映画が禁止されていたので、その代わりに捕物帳を撮っていました。それが今の刑事ものになっていく、そういう時代劇の一つの流れがあります。

舟橋聖一という作家は昭和27年の平和条約発効時に「花の生涯」、マリリン・モンローが死んだ時も「モンローを探せ」、また60年安保の時は「エネルギ-」という風に小説をタイミングよく的確にあててくる天才でした。

 

4 NHK「大河ドラマ」について

昭和384月にスタート、当時は歌舞伎役者や映画俳優を配役にしてテレビで見せるように企画しました。 今64作目で「べらぼう」の大河ドラマをやっていますが、大体視聴者が戦国時代や幕末が好きでそれ以外は当たらないというのが現状です。その代わり女性を中心にした「朝ドラ」が好評をえています。そしてその中間層に韓国ドラマ好きの女性たちが出てきた訳です。

また、私は原作者の舟橋聖一さんの自宅に5年間通い続けて娘の美香子さんから様々な話を聞かせてもらった中で、この「花の生涯」が駄目なら大河ドラマは継続出来なかったと言っていたそうです。しかし平均視聴率が約20%を維持出来た為に、2作目に「赤穂浪士」の放送が決まりました。しかしながら、時代劇映画とテレビ時代劇の逆転現象が起きてきます。NHKや民放でやたらテレビ時代劇を作りだすと、追い打ちをかける様に時代劇映画が益々廃れていきます。しかし考え方を変えてみると時代劇がテレビで放送される時代になったが、最近ではテレビでさえ時代劇を担えなくなりました。

 

5 舟橋聖一について

 彼は昭和の花形作家として活躍しました。ただ私がなぜ舟橋聖一に着目したかというと、戦後の芥川賞作家は石原慎太郎をはじめ彼が推挙した作家たちが賞を取っていました。つまり舟橋が誰よりも発言力があった事を物語っているからです。

そして戦後文芸春秋を立ち上げ芥川賞、直木賞を作った菊池寛の後釜として文壇を牛耳っていた、そんな時代が存在していました。そして彼のそんな時代の流れを見ていくと、気づいた事が2つありました。1つは昭和20年の5月の戦争の末期に「悉皆屋康吉」という小説が単行本として出ますが、この小説を評論家たちが戦争反対、文武反対を唱えている抵抗の文学の代表作として大絶賛をしていました。私は抵抗の文学と言われるような小説が戦争中に出せるのかという疑問から、それを問い直す観点で「舟橋聖一の大東亜文化共栄圏」という本を出版しました。要するに「悉皆屋康吉」という小説は一切戦争の批判をしていない事がわかりました。2つ目は「花の生涯」です。なぜ現代小説を書いていた人が歴史小説を書いたのかという疑問です。

 

6 反転する井伊直弼

 戦前の井伊直弼が明治の教科書にどの様に描かれているかを調べますと、彦根市では日清、日露から2度の世界大戦に連なる国粋主義、軍国主義の広がりと共に国賊の汚名をはらすべきという風に書かれています。そして、研究を進めていきますと必ずぶつかる事ですが、明治維新政府を担っていたのは井伊直弼が処刑を命じたと言われている吉田松陰の門下生の弟子達だった訳ですので、彼らは教科書で井伊直弼を良く書くはずがなく、歴史は勝者の歴史と言われていますから、維新では様々な事がひっくり返ったり、隠蔽されたりする事が度々起こっていました。

そういう中で維新後の教科書では欧化主義とか天皇陵の神格化、江戸時代に吉兆ものであった春画を明治政府は江戸文化と切り離したい状況の中で作られている国定教科書ですから、井伊直弼が勝手に開国したという文言が出てくる訳です。

国定教科書ですが、明治43年から昭和9年にかけて井伊直弼はいい人に書かれていない。大変なのは昭和15年(紀元2600年)で、日本が文化的に最高潮に盛り上がった年ですが教科書はどんどん悪くなっていき、昭和18年には松陰の門下生が怒っているぞという内容が教科書に入って子供たちが習っていきます。

教科書が常に平等で、平準化を図られているのは幻想で、いつの時代も、どの国も作り手の思想なり時代背景が含まれて作られています。危険な部分もあると考えて読まないといけないと私は思っています。

 

7 戦後の評価に舟橋聖一の「花の生涯」が与えた影響

新聞小説を連載する時は作者の言葉が述べられますが、それが昭和276月に舟橋聖一の言葉と木村荘八の挿絵で次の新聞小説は「花の生涯」だと発表され、5ケ月後朝日新聞では井伊直弼を「大国の父」と言い方が変わりました。その影響で井伊直弼関連の商品が100倍に値上がりしたと報道され、そして「花の生涯」の単行本が発行され、尾上松緑の井伊直弼役、淡島千景のたか女役で大河ドラマが、松本幸四郎の井伊直弼役、淡島千景のたか女役で映画にもなりました。

 

8 井伊直弼とマッカーサーとのつながり

 昭和277月に彦根の郷土史家の矢部寛一氏が、井伊直弼の評価を変える政治目的の為に私財をつぎ込んで「井伊大老の政治と日米外交」なる本を出版しますと新聞各社が大きく報道しました。そして1年後舟橋聖一が「花の生涯」の連載を新聞に発表します。

 その後何故矢部寛一氏がこの本を書いてマッカーサーに直訴しようとしたかという2つの理由が彦根の郷土史研究に記載されています。

1つはマッカーサーの勝利宣言での演説で日米国交の再建と文化人としての改革に着手している。

2つ目は昭和209月のミズーリ号の日本との調印式の時に、マッカーサーは船上にペリー来航時の31州の星条旗と戦後48州の星条旗の2つを並べて第2のペリーであると言っている事でした。これを新聞各社が報道しました。

この報道で矢部寛一氏が感銘を受け、井伊直弼の評価を変える機会は今だと思い、運良く彦根の先輩でGHQに関わる仕事をしていた矢野氏に依頼したところ、日本語の達人であるグレンショウなる人物を紹介してもらい、彼に自作本を届ける事が出来ました。そして、この矢部氏の行動について全国紙で大々的に褒め言葉で報道されたのです。矢部氏はのちに彦根についての記事の中で、マッカーサーが日本の最高権力者であった事が幸いでしたと述べています。この1年後舟橋聖一が「花の生涯」を書き彦根市名誉市民第1号になります。

 

9 舟橋聖一の彦根市訪問

昭和27年の来彦者名簿に彼の名前が記載されている事を確認しました。

彼は3分の1を事実、3分の2をフィクションで執筆すればリアリティーが保たれてより面白い小説を書ける事を意識していました。そこで彼が矢部氏と関わりがあったのでは、との証拠の確認で当家を訪問したところ、掛軸の中から舟橋聖一とのやり取りが分かる文書を矢部氏が保存していて、井伊直弼の俳句「かまのふたそろりとおいて郭公」を「花の生涯」の小説に使用してほしいと書かれた原稿用紙が出てきました。間違いなく舟橋聖一と矢部氏が会っていた事が分かり、驚きました。 

 

10 文学研究者としてのまとめ 

舟橋聖一がなぜ歴史小説を書いたのかの結論ですが、実は「花の生涯」は井伊直弼が追い詰められて開国したのではなく、自己や家臣の諸外国に関する知見に基づいて、したたかに開国に向かった人物として書かれています。これは舟橋聖一は戦争が大嫌いで行かない様に手をまわし、その代わりに戦争のプロパガンダになる「男」と言う戦争協力に関する小説を書いていて、それが反映されていると思われます。従いまして、この「花の生涯」の内容を考えて見ますと舟橋自身の戦時体験を基にした歴史小説の戦争反対小説であり、また戦後の女性の社会進出をたか女で表し、彼は女性を強くリスペクトした人物なのでそこにも目をしっかり向けていました。

結論として、この小説は幕末の情勢、そこに戦前、戦中の情勢、特に戦争体験を反映させ、さらに戦後の世相に重ね合わせた舟橋独自の歴史小説が「花の生涯」だったのだという事です。

舟橋がなぜ歴史小説を書いたかというと、戦後の作家たちは何らかの形で戦争をふりかえった小説を書きたかったが、舟橋が「花の生涯」でそれをやってのけた事は彼にとって非常に意味が深いことでありました。それが因果な事に大河ドラマの第1作目に取り上げられました。それはマッカーサーが居なかったら成り立たない小説でもあり、井伊直弼の評価の反転理由とマッカーサーと大河ドラマがごく細い糸で繋がっている事を理解して頂けたと思います。

 

11 井伊直弼が社会情勢を分かっていてなぜ開国したか

江戸時代、海外の知識を取り入れる長崎の出島と隣りにある唐人屋敷を訪れる人数は、出島は数十人で情報入手は微々たるものであり、唐人屋敷には最大5千人もいましたし、年間約190艘の船が不定期でどんどんやって来て海外の香港、上海から情報が大量に入って来ていました。故に当然のこと、唐人屋敷に有名人、坂本龍馬、吉田松陰、勝海舟等が訪れていました、勿論井伊直弼も自分の部下である中川禄郎を何度も派遣しています。そして井伊直弼は中川禄郎を江戸と長崎を結ばせて、開国しないと中国のようになる事を知り、自分の意志で開国に向かっていかないと駄目な時代だとする井伊直弼の行動を舟橋は理解する訳です。中川は「西洋一覧」等をしたためたものを井伊直弼にみせており、これを読めば開国しないとまずいと分かります。

終わりに「花の生涯」に出てくる村山たか女は実は実在の人物で京都の金福寺に慶応3年に彼女が建立した弁天堂があり、そこで67歳の生涯を閉じています。

NHK大河ドラマは悪者がヒーローになるドラマ、平将門しかり明智光秀しかり、その最初が「花の生涯」であったという事です。

 ご清聴ありがとうございました。


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