第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2025年11月21日
【豊臣大阪城VS徳川大阪城】

大阪城天守閣 館長
宮本 裕次 氏
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| 講演要旨 大阪城天守閣は昭和6年(1931年)に市民の寄付金で復興され,数々の文化財を展示する博物館施設として今日まで95年活動を続けてきた。戦前の人は目の前にある大阪城を見て太閤さんの大坂城というイメージをふくらませてきたが、 近年の学術調査によって新たな発見が相次ぎその見方は全く改められ、現在の大阪城は徳川大坂城であり豊臣大坂城とは別物であることが明確になった。 「豊臣大坂城」と「徳川大坂城」のどちらが優れているのかという問いは 時代が異なるものを比べることになるので生産的でないが、試みとして比べることが、それぞれの城の新たな魅力を発見するきっかけにもなる。 豊臣大坂城と徳川大坂城というふたつの城の築城過程や特徴を比較して見えてくるものとは何かを探りたい。 |
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1「再発見」された豊臣大阪城 目の前の大阪城に秀吉の姿を重ね合わせてきた「太閤さんの大坂城」というイメージがどのように変わり、今どのような状態にあるのか。 (1) 大坂城総合学術調査 戦前には大阪城を学術調査の対象にする組織的な取り組みはなかったが、戦後になって学問的に調査しようという機運が高まり、昭和34年(1959年)から「大坂城総合学術調査」が始まった。 しかし、1回の調査だけでは、こんな貧弱な石垣が太閤さんの築いた石垣とは考えられないという意見も根強く結論は出なかった。 一方現在地上にある石垣は、豊臣時代の石垣を修復したものではないかと考えられていたが、石垣の刻印を調査していくと、豊臣時代の大名で徳川時代には存続しなかった大名の刻印は全く見つからず、また刻印の特徴や分布は徳川再築時の「大坂築城丁場割図」と一致することからも、やはり現在の大阪城の石垣はすべて徳川再築であることが確認された。 (2) 豊臣大坂城詰ノ丸石垣の発見 徳川幕府の大工頭中井家所蔵の「豊臣時代大坂城本丸図」は現在の本丸の様子とはかなり違っており、その後何度か調査が繰り返されてこの本丸図との比較が試みられた。
そして 昭和59年の発掘により地表より1メートル 下の部分で石垣の角に当たる部分が発掘された。 これにより「豊臣時代大坂城本丸図」が信頼できる資料で、「謎の石垣」他、地下の石垣はまさしく豊臣時代大坂城の石垣であり、またすでに研究者の間で共有されていた現在の大坂城の遺構はすべて豊臣大坂城を埋めてその上に作り直した徳川幕府再築時以降のものという説が確定した。 改めて「豊臣大坂城」と「徳川大坂城」は別の城である。 戦前から豊臣と徳川の大坂城は連続したものと考えられていたが、昭和の終わりにこの2つの城が別物と分かったのであるから、研究は振り出しに戻り、豊臣大坂城を解明する新たな研究環境が整ったといっていい。 この「詰ノ丸東南角石垣」は発見時の状態で今年4月より「大坂城豊臣石垣館」として公開中なので、多くの方にご見学いただきたい。 2 豊臣大阪城の築城過程とその姿 (1) 築造過程 秀吉は築城の名人だから短期間で大坂城を作り上げたに違いないというイメージは、大坂城については全くあてはまらない。 第1期 天正11年(1583年)9月1日鍬初め(起工式)、同年11月ごろ本丸天守台完成、同13年4月までに本丸と天守完成 第2期 天正14年2月二の丸工事開始、同16年3月ごろ完了と推定 第3期 文禄3年(1594年)2月惣構え(最も外側の堀)工事開始(完了時期不明) 第4期 慶長3年(1598年)の増強工事 (*秀吉没、工事は翌年もしくはそれ以後完了) 「イエズス会日本年報」には慶長3年の増強工事に関し、国の統治者が亡くなると戦乱が勃発するのが常だったから、秀吉が堅固な大阪城に新たに城壁をめぐらした という記述がある。 (2) 縄張の特徴 基本構造は三重で、二の丸の外側に馬出曲輪を設ける。 (3) 天守の外観 「豊臣系の天守は黒、徳川系の天守は白」との解釈は政治の実権の移動と城の意匠の変化を同一視した乱暴な議論であるが、明快さと後付けのストーリーにより正しいと信じている人が多い。 平成18年にオーストリアで豊臣の天守を白く描いた絵画資料が確認され、また和歌山城は徳川系の城郭だが天守は長く黒で江戸時代後期に壁を白く漆喰で塗ったという事実もあるなど、「後付けのストーリー」を信じるのは改めねばならない。真田丸は長く三光神社付近とみなされていたが近年は大阪明星学園周辺という見方 が強まっているなど、 今も豊臣大坂城に関する再発見や見直しは続いている。 3 徳川大坂城を再認識する これまで豊臣大坂城を大規模に改修したと考えられてきた徳川大坂城が豊臣大阪城を引き継いでいないことが判明した以上、その独自の価値に着目する必要がある。 (1) 幕府による大坂城再築 「藤家忠勤録」を見ると、2代将軍秀忠は、豊臣大坂城と同じ場所に濠の深さ、石壁の高さを倍増しもっと優れた城を作れと指示したことがわかる。 工期は大きく分け3期で進められた。第1期 元和6年(1620)~二の丸西・北・東と北外曲輪 第2期 寛永元年(1624)~本丸 第3期 寛永3年~二の丸南 約10年の工事で完成 縄張の総奉行(設計・指揮)は藤堂高虎、土木工事の総奉行は摂津尼崎藩主戸田氏鉄(うじかね)、建物工事(作事)総奉行は近江小室藩主で茶人の小堀遠州。3期を通じて西国・北国の外様大名64家を動員し担当箇所を割り振って決めた。 (2) 徳川再築大坂城の姿 石垣構築に当たっては小豆島、生駒、南大城、 遠くは九州北部から花崗岩を大量に集積し、城の主だった場所には巨石を多用した。 石積みも「打ちこみはぎ」から「切り込みはぎ」 への進化が確かめられ隅石部分 に見られる美しい反りや「算木積み」、銃眼を備えた笠石(第2期工事より)、 長大な高石垣を安定させるのに欠かせない「横矢掛り」など、当時最新の石垣築 造技術を使っているのが特徴である。 これらに表されるように、徳川再築大坂城は豊臣家への強烈な対抗意識により、 西国・北国諸大名を動員して築かれた天下人の城であり、徳川家本拠の江戸城を しのいでいる点も多い。 例えば徳川大坂城の石垣は100%花崗岩だが、江戸城の石垣は伊豆石(安山岩) が主で花崗岩は隅石など限られた場所にしか使われてない。4 豊臣大坂城vs徳川大坂城 繰り返しになるが 築造年代や時代背景の異なる二つの城の優劣を論ずるのは本来ナンセンスであるが、共通点や相違点について理解することは大阪城の魅力の新たな発見につながるので意味がある。 (1) 築造の目標 時代背景の中でそれぞれの城を作る目標を比較する一つの例として金箔瓦をあげると、秀吉が大坂城築造を始めた時はまだ天下人ではなく、目標とする城として織田信長が作った安土城があった。 安土城の天守の金箔瓦は「瓦頭凹部」に金箔を施したのに対し、秀吉は見栄えをよくするため「瓦頭凸部」に金箔を施した。 しかし徳川大坂城は金箔瓦を採用しなかった。 豊臣大坂城は安土城を引き継ぎながらもそれを超えることを意識した。 徳川大坂城は場所こそ同じ場所で引き継いだが、金箔瓦は意識的に引き継がなかったのではないか。(2) 築造過程 秀吉は築城を重ねる中で増強し、城郭に対する自身のアイディアを進化させていったが、徳川大坂城は初めに全体計画を作り目標を設定して建設した。(3) 規模と縄張り 秀忠は石垣の高さも堀の深さも豊臣大坂城の2倍にすることを命じて築造したが、広さを比べると豊臣大坂城の惣構えは徳川大坂城の4倍ある。 しかし豊臣大坂城の惣構えは内側に市街地を抱えた防衛線なので単純な面積の比較は適切でない。また枡形の形状は、豊臣期の主流は外枡形で、 徳川期は内枡形である。 (4) 石垣 豊臣大坂城は積石を加工していない「野面積み」が基本。徳川大坂城は「打ち込みはぎ」が基本。徳川大坂城の石垣の高さは最高箇所が基礎から上端迄日本で一番の32メートル。 豊臣大坂城は隅角部に鈍角が多いが 徳川大坂城は直角が多い。直角にすることによって高石垣の構築がしやすくなる。(5) 動員形態 豊臣大坂城は秀吉が天下人になる以前に築城を始めたので自身の家臣を動員する方式が主体で、築城の途中で統一的な動員令が出されたか不明。徳川大坂城は秀忠が動員令を発し指定した大名(外様大名中心)を幕府が指揮し石垣を築かせた。建物は幕府直営で築いた。 (6) それぞれの最後 「豊臣大坂城」は城主秀頼が最後まで戦い大坂夏の陣で敗れて自害。「徳川大坂城」は将軍徳川慶喜が鳥羽伏見の戦いに敗れた自軍の兵士が逃げ帰ってくるのを見て、戦わずして江戸へ逃げた。 おわりに(まとめ) 「ふたつの大坂城」の対比が成り立つことの発見、「それぞれの大坂城」に対する価値の認識、そして「ふたつの大坂城」を学問的、あるいは主観的・情緒的な目線で対比させることで大阪城そのものの魅力を再発見していただきたい、と思います。 |
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2025年11月 講演の舞台活花

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