第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2025年9月18日

寺社勢力から探る戦国期の南河内

 

大坂狭山市教育委員会 学芸員
吉井 克信 氏

講演要旨

戦国期の大阪平野では、禅宗・法華宗・浄土真宗・キリスト教が広まり、紀伊根来寺が進出し、畠山・細川・三好・織田が抗争を重ねた後、豊臣政権の本拠地となりました。その江戸時代になる前の「寺社勢力」の痕跡を手がかりに、宗教を切り口にして、南河内の特徴を皆さんと考えてみたいと思います。


1問題の所在 -自己紹介をかねて-

 私は福井県高浜町に生まれ、高校まで城下町の小浜市で育ちました。京都の大谷大学に進学し、京都は盆地だったので、夏はとても暑かったです。でも、京都の冬は、雪の多い福井と違い、底冷えはするものの降雪が少なく、青空の日もけっこうあって、ずいぶん暖かいと感じました。卒業後は大学院に進み、任期付き助教を経て、大阪狭山市の学芸員となりました。住まいは、堺旧市街の大小路、狭山ニュ-タウン、泉北ニュ-タウンに住みました。

 大阪に来て感じたことは、食文化が盛んなこと、そして人情が肌に合うということでした。そして狭山の気候は、秋が深まっていくと冬を感じることもなくすぐに春になるような、そんな印象をもちました。

当時の大阪狭山市は、人口58万人です。育った小浜市は、人口3万人でお寺が250ヶ寺あります。ところが、狭山には浄土宗が1ヶ寺、真言宗が1ヶ寺、もと真言律宗が1ヶ寺、浄土真宗は0でした。そして、私には、それまでなじみのなかった融通念仏宗という、浄土系で、中世からの系譜を色濃く残し、江戸時代に新興宗教として朝廷・幕府から公認された宗派が、3か寺ありました。狭山をはじめ南河内には信心深い方が多く、宗教的にも興味深いところだと感じました。いくつかの歴史街道(高野街道[西:堺、下:天王寺、中:平野]、天野街道)が縦横に走っていることが、信心深さに影響を及ぼしていると思いました。それとともに「大阪は浄土真宗が盛んな地域のはずなのに、なぜ大阪狭山市から南側には、浄土真宗の寺がほとんどないのか」と疑問に思い、調べることにしました。その自分なりの答えが、本日のテーマなのです。


2 講演概要

 戦国期の大阪平野では、禅宗・法華宗・浄土真宗・キリスト教が広まり、紀伊根来寺が進出し、畠山・細川・三好・織田が抗争を重ねた後、豊臣政権の本拠地となりました。その江戸時代になる前の「寺社勢力」の痕跡を手がかりに、宗教を切り口にして、南河内の特徴を皆さんと考えてみたいと思います。

(1)   宗教からみた南河内の特徴

・地形

大阪の地形は、よくたとえられるように「すり鉢」状の地形です。三方が山、一方が海です。南北方向に台地・丘陵が並び、現在の大阪府を構成する旧国名の摂津・河内・和泉に、山城・大和を合わせて「畿内」という首都圏(つまり「天下」を構成する地域)を形成していました。金剛・葛城・生駒の山系が摂河泉地域の平野を囲み、そこに大和川・淀川が流れ込み、かつては八尾から東大阪にかけて河内湖という湖もありました。

大阪湾を囲み、瀬戸内気候で少雨温暖。土地は肥沃ですが、古代以来、用水確保と治水が課題でした。その摂河泉地域を取り巻くように、外周から順に「山」(尾根筋・中腹)、「低山・山裾・丘」、そして平野がありました。宗教の立場からみると、それぞれ山は修行、低山や山裾は研鑽、平野は布教の場でした。

・宗教を中心にみた歴史

古代

渡来人の技術(須恵器・鉄器、治水・灌漑)により古墳築造から仏教伝来後は寺院建立などが盛んになり、叡福寺、野中寺、葛井寺・金剛寺・観心寺、今は廃寺ですが新堂・東野などにお寺が建立されました。

古代には、法相宗:船連(ふねのむらじ)の道昭(どうしょう)(629-700)が入り、その弟子である行基(668-749)[父は高志史(こしのふひと)、母は蜂田氏]と共に社会事業に勤しみ、布施屋(ふせや)9、道場・寺院49、溜池(ためいけ)15、用水路や運河を表す溝・堀9、河川に橋をかける架橋(かきょう)6、道路などを造りました。

また、古代には、葛城山を中心に役行者の修験道が興りました。葛城の古代の読み方は「かずらき」です。当時の葛城は、山系の総称で、今の金剛山も含んでいました。

交通路

難波宮から南へ向かって難波大道(なにわのだいどう)、生駒山と葛城、金剛山の山裾を南へ走る南海道(なんかいどう)がありました。これは、ほぼ今の東高野街道と重なります。堺旧市街からは、東へ長尾街道・竹内街道(たけのうちかいどう)が奈良方面に延びていました。

中世前期

金剛寺は、「女人高野」と呼ばれます。阿観(あかん)が復興しました。女院(にょいん)の祈願所であり、女院・女房(にようぼう)が院主を務めました。南北朝期には、南朝の2上皇の行宮(あんぐう)となりました。後村上は5年間、長慶は4年間滞在し、滞在所は、食堂(じきどう)・摩尼院(まにいん)の形で現存します。また、不本意な滞在であったのでしょうが、北朝の3上皇(光厳(こうげん)・光明(こうみょう)・崇光(すこう)、1親王(直仁)が、京都から連行されて観蔵院(かんぞういん)に幽閉されていました。

源頼朝の本家筋にあたり、羽曳野の壷井(つぼい)を本拠地にした河内源氏が、河内武士団の中心になっています。

源平の争乱で焼失した東大寺を復興するために、募金活動をした重源(ちょうげん)が、南河内でも活動しています。奈良西大寺の僧の叡尊(えいそん)(1201-1290)も、社会事業で活躍しました。

治承(じしょう)・寿永(じゅえい)の乱などの、いわゆる「源平の争乱」により、全国を巻き込んで土地などの荒廃がもたらされました。そのような社会不安が続く時期には、生きとし生けるものを救う、つまり「衆生(しゅじょう)の救済」が、当時の仏教界にとって共通の課題でした。

以前の私たちが習った教科書では、古代は「貴族の世の中」、鎌倉時代以降は「武士が実権を握る世の中になった」とされていました。でも、最近の研究では「権門(けんもん)体制」と呼びますが、「公家・武家・寺社が、相互に補完しあう。それが中世の国家体制なのだ」という考え方が、少しずつ一般的になってきました。 

中世後期

この中世後期というのは、だいたい室町時代から始まり、応仁の乱を経て、戦国期に入るころまでを指します。宗教勢力は「顕密体制」となり、神道と旧仏教、つまり南都六宗(三論・成実・法相・俱舎・華厳・律)に加えて、密教の天台宗・真言宗が、主導しながら国家の一翼をにない、土地の支配なども強固に押さえて、強大な勢力になっていました。

戦国期

中世の末期に全国で「戦乱」が頻発し、今の大阪府にあたる摂河泉地域でも、しだいに「下剋上」の気運が高まってきます。現世(げんせ)がとても「不安」なので、来世(らいせ)での「安穏(あんのん)」を願い、宗教への依存と需要が高まり、かつて教科書で鎌倉仏教と説明されてきた「戦国仏教」の諸宗は、先進地域の摂河泉へ進出し、競うように拠点を増やしていきます。具体的には、浄土宗(法然)・浄土真宗(親鸞)・時宗(一遍)・法華宗(日蓮)・曹洞宗(道元)、臨済宗(栄西)などにあたります。このうち、とりわけ大阪平野には、禅宗の曹洞宗、臨済宗が進出し、特に臨済宗の大徳寺派は堺の町に入り込みました。法華宗は、日蓮の系統が分派していて、大きな拠点は京都・堺・尼崎が中心でした。浄土真宗は、先に仏光寺が京都での戦乱を避けて、大阪の平野(ひらの)へ移り、勢力を広げました。同じように本願寺も、大坂に拠点を設けました。海外から日本にやってきた宗教では、キリスト教の布教が熱心におこなわれました。なかでもイエズス会の名が、よく知られていて、大名から庶民まであらゆる階層に布教をしています。摂河泉での拠点は、まず堺、そして大東市と四条畷市の間にある飯盛城、さらに河内長野市の烏帽子形城でした。

近畿地方を転戦した鉄砲隊で知られる紀伊の「根来寺」も、大阪平野の南部(泉南・南河内)に進出していました。

2南河内での浄土真宗本願寺派

京都にある西本願寺・東本願寺が2つに分かれたのは、家康のころでした。

特徴的なのは、阿弥陀仏の本願(修行中の法蔵菩薩の時に立てた48の誓願)を重視することです。「本願を信じ、念仏を申さば、仏になる」と『大無量寿経』に書かれています。数多く、たとえば百万べん唱えれば成就するから、それがよいというわけではなくて、阿弥陀仏を全面的に信頼する「深い信仰心」が基本だとする、当時の仏教界の経典解釈や布教内容と相当ちがう、急進的な主張だったのです。鎌倉時代の親鸞は、「他の善は要にあらず。念仏に勝るべき善なきゆえに」(『歎異抄(たんにしょう)』)と述べ、善行を良しとする既成教団の教えや内容と異なる主張をしたため、当時の仏教界から異端として訴えられ、越後国への流罪にあいます。六波羅蜜と呼ばれる布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧を否定的にとらえ、仏教的善行である布施・写経・寺院建立なども、極楽往生のためには必要なし、と主張したためです。、

本願寺は、親鸞の子孫が世襲しましたが、京都大谷を延暦寺が破却したため、八代目蓮如(1415-99)は、以下のように避難先を転々とします。

越前国吉崎(門徒たちの一揆が勃発し、守護大名に成り代わるような反社会的な行動が起きて、1475年に退去)→山城国山科(近江国六角氏と京都法華衆の焼討ちに遭い1532年に退去)→摂津国大坂(本山として布教に成功したが15701580の間、信長の要求してきた巨額軍資金寄付と敷地無償譲渡をめぐって対立し、各地の信者による全国的な抵抗

戦を経て退去)→紀伊国鷺森(雑賀)→豊臣秀吉からの誘致に応じて和泉国貝塚の寺内町へ移り、のち秀吉が大坂城築城の折に摂津国天満へ移って都市整備に協力し、そして三たび秀吉からの声がかりで長年の悲願だった京都にようやく戻り、堀川七条に西本願寺を設立します。そのあと、家康の斡旋で、京都の烏丸六条に本願寺を分割し、現在の東本願寺を設けました。

寺内町(じないまち)

今の大坂城の本丸に本願寺があったとき、摂河泉地域でも多く生まれた。

富田林(興正寺)、河南町の大ケ塚(だいがつか)(善念寺)、大伴(道場→旧・円照寺)、久宝寺(久宝寺)・八尾(慈願寺)、堺の金田(仏光寺系→本願寺派)などに、寺内ができました。本願寺派は「大坂寺内」と同等の固定資産税や商取引の際の税金の免除など、税制上の優遇措置の都市特権を、有力末寺を中心に寺内町を形成した土地の領主たちから獲得していきます。

富田林では、永禄3年(15603月に「安見美作守」(やすみみまさかのかみ)と呼ばれた安見宗房(やすみむねふさ)が、そのような都市特権を授けました。大ケ塚では、永禄11年(1568)、大伴道場では元亀3年(157210月に同じような特権を手に入れました。

年貢を米で納入する門前町と違い、寺内町では寺の中で商売をさせて場所代や取引利益の一部を現金で末寺が受け取り、それを本山へ「懇志金」という名目で上納していました。このように南河内では、荘園制に依拠しない現金納入制を採用し、上納金が本山に集まるビジネスモデルを構築した「浄土真宗本願寺派」が、着実に勢力を広げていました。

3)戦国期南河内での根来寺勢力の活動

戦国期の河内国では本願寺の拠点ともいえるほど布教が進んでいたはずなのに、南河内にありながら現在の北野田以南に浄土真宗の寺院が少ないのは、紀伊国から当時勢力を伸ばしてきていた根来寺の影響が強いためではないか、とここ最近になって考えられるようになってきました。

根来寺という新義真言宗の寺院は、覚鑁(かくばん)(1095-1144)という僧が創始しました。覚鑁は、真言宗・天台宗の密教をともに極めた高僧です。高野山で金剛峯寺トップの「座主」をしていましたが、その宗門改革への周囲の反発から下山します。根来寺は、高野山を下山した覚鑁が、今の和歌山県岩出市の根来という場所に建立した寺です。和泉葛城山を背後に控え、覚鑁がやってくる前から山伏が修行する場所になっていたので、修験道も盛んでした。

さて、根来寺勢力がやってくるまでの南河内では、金剛寺・観心寺・水分社(みくまりしゃ)、貴志宮(きしのみや)、上ノ太子の叡福寺が有力なお寺でした。でも、戦国期に紀伊根来寺が、強大な勢力をもって河内へ進出してきます。禁制・定書や、検地の指出し(耕作地ごとの農作物の予定収穫量リストの差出)の強制的な提出などを要求し、配下の寺社だけでなくその寺社周辺の地域全体にその影響力を強めます。

大ケ塚については、根来寺の拠点化が先行し、その後、本願寺派の寺内町を経て、江戸時代には農村地帯の町場である「在郷町」になっていきます。出発時点での根来寺の拠点化のころには、信長の求めに応じて大ケ塚に駐屯する根来寺の兵隊たちが、京都御所のそばで信長の主催する軍事パレ-ドに参加したことが、信長の生涯を詳述した『信長公記』にも出ています。秀吉が刀狩りをする以前は、戦いの世では当然のことですが、寺の僧侶も村に住む住民たちも、地域や自分たちの身を守るために鉄砲や刀などで武装していました。

さて、小牧長久手の戦いのとき、自分に随わない家康をこらしめるために秀吉が尾張に向かっている留守中、紀伊国から根来寺勢力が北上し、大坂城方面に攻め込みます。それを理由に、1585年の秀吉軍による徹底的な攻撃が実行され、制圧された根来寺は、一気に弱体化します。その秀吉による根来責め以前を議論するときは、根来寺の強い影響を前提にする必要があります。

この戦国期根来寺の狭山とのかかわりは、実は狭山池の池守田中家の初代である右兵衛尉(うひょうのじょう)の出自伝承にあります。

彼は「紀伊根来」とともに河内国に来往し、「轟城」(とどろじょう)に籠ります。この砦(とりで)ともいうべき「城」は、北野田駅のあたりにあった中世城郭「野田城」(堺市東区)のことです。のち池守田中家の初代になる若き日の右兵衛尉は、轟城を退去後、弱体化した根来寺のそばにある出身地の実家に帰ることもできず、池尻村庄屋を務めていた田中家の婿養子になります。やがて婿養子先の池尻村庄屋の田中家で当主を継いだ右兵衛尉は、改名して孫左衛門尉(まござえもんのじょう)と名のり、池尻村庄屋・狭山池池守を務めました。田中という姓はよくある苗字なのですが、南河内地域の庄屋のうち、少なくとも池尻村・錦織村の田中家は、どうやら根来系のようです。 

小田原北条氏という戦国大名が5代続いた後、秀吉への臣下の礼を拒んで大軍に包囲され、降参します。小田原城を拠点に関東一円を支配する戦国大名としては滅ぼされ、小田原五代目の北条氏直は、高野山で謹慎処分を受けます。でも、やがて翌年には秀吉から許され、大坂城下町に秀吉から屋敷を拝領し、わずか1万石ながらギリギリ大名として拠点を構えます。

父の急死で幼くして跡を継いだ狭山藩2代藩主の北条氏信(1601-1625)は、徳川家康・将軍秀忠の父子が、大坂城に立てこもる豊臣秀頼と淀君を大軍で包囲した「大坂の陣」の際、留守中の江戸城の門のひとつを警護する初仕事を命じられます。でも、北条氏の家臣団を率いて江戸出張中に、豊臣大坂城が落城し、大坂城下町は大混乱になります。当時、その混乱のさなかに略奪や乱暴が発生し、負けた側だけでなく、混乱に巻き込まれたら命さえ危うくなり、捕まえられたら遠方や海外に人身売買されるなど、相当ひどい扱いを受けました。

おそらく、根来の地侍出身であった初代池守の孫左衛門は、2代藩主氏信の留守を預かる藩主家族(母・弟2人)の安否を気遣い、落城で混乱する大坂城下町の北条氏屋敷まで出向き、その家族の避難を警護し、池尻村の田中邸へ誘導しました。しかし、池尻村にも落ち武者狩りが近づいてきて、その危険が自宅へ招いた藩主家族に及ぶことを心配し、和泉国大鳥郡の上神谷(にわだに)の畑村(はたむら)にかくまいます。戦国時代から根来寺の影響の大きいところです。そこも敵味方双方からの兵糧米の強制的な徴発で混乱が近づくと、さらに、河内国と紀伊国との国境に近い滝畑村に、藩主の家族を守りながら、避難します。

 その翌年、江戸城の門を警護していた藩主氏信が、2代将軍秀忠より帰国の許しを得て、大坂へ帰ってきます。そして無事、田中邸に戻っていた藩主家族と再会します。大坂城の近くに秀吉からもらった屋敷の場所は、便利なのですが、いつ戦火に見舞われるかもしれない場所です。ということで、1616年、引っ越し先の本拠地を池尻村に定め、のち上屋敷と呼ばれる「陣屋」を造りはじめます。城郭づくりの防御面からいうと、常識的には「浦の庄」あたりの一番高い位置のところが、藩主の御殿の適地なのです。でも、氏信は、そこより3メートルも低い場所、陣屋予定地の敷地のうち北端を選びます。理由は、地理的というよりも、社会的なものなのです。

狭山藩北条氏の歴代藩主の間では、「何か危機的な状況が起きたときは、池尻村の池守田中家を頼れ」という言い伝えが、おそらくあったためでしょう。実は、第四代藩主の北条氏治、第五代藩主の北条氏朝の父親こそが、池守田中家の初代孫左衛門によって大坂城下の北条氏屋敷から救い出された藩主氏信の幼い弟のひとりだったのです。この避難したときのエピソードは、五代藩主氏朝の著作にも、二代藩主氏信の事績として記してあります。

土地の高さがいちばん高い場所に天守閣を建てるという城づくりの常識、つまり土地の高低差による防御機能の優劣を無視してまで、池守田中家のある西池尻集落に一番近いところを、藩主御殿の立地として選んだ。

藩主御殿の位置は、南側の土地の小高い場所へ陣屋の範囲が拡張され続けても、明治の廃藩を迎えるまで、一貫して北端の低い場所にあり続けた、ということが最近判明しました。

 そして今後、狭山の歴史を研究する上では、まだまだ解明すべきことの多い中世、とりわけ戦国期の狭山を考察していくためには、根来寺のような宗教勢力の影響は無視できない、ということも分かってきました。

 ご清聴ありがとうございます。 以上


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