第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2025年5月15日
【狭山北条藩陣屋跡地ー廃藩置県後の変換】
郷土研究者(大阪狭山市在住)
山村 茂樹 氏
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講演要旨 明治の廃藩置県後、狭山北条藩の陣屋はどうなったのでしょうか。その跡地には「葛西神社」が造営されました。その後神社は姿を消し、神社の跡地は昭和には幼稚園となりました。これらの変遷について語ります |
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<はじめに> 50歳の頃から熊野古道歩きを始めました。歩きつないで行って、熊野古道を歩きました。 それで『蟻さんの熊野紀行』三冊となりました。なぜ「蟻さん」なのか、実はこれは意味があります。蟻の熊野詣と室町時代から熊野詣がはやり、蟻が列をなしているあの姿、いっぱい人がですね、熊野に向かった。そういったところから蟻の熊野詣と呼ばれたので、自分も、蟻さんになって熊野詣をしようということで、本の題名としました。だいたい熊野古道、伊勢路あたり終えた頃ですね、この辺りから、デジカメが出だし、ネットが普及し始めました。そして今度は歩きじゃなくて、車で行って、紀伊半島を撮影して回るということをやっておりました。ほとんど紀伊半島が自分の「遊び場」という形になっていました。 2016年退職をします。退職してからも毎日遠くへ行っているわけにはいきませんので、狭山の周辺の散策など活動範囲が狭くなりました。それが自然と、狭山とかこの辺りに興味関心を抱くようになったというわけです。 ホールの入口に置いていました、『ひがしばた』三冊ですね。ひがしばた(東端)というのは東池尻の古い呼び名です。西池尻は、にしばたですね。それからさらに自分なりに何か色々興味を持って、狭山の由来とか、それから三都村はなぜさんと、というのかとか、狭山池築造はいつ頃なのか。もちろんこんなことは大阪狭山市史で、教育委員会の方が研究をされていますが、それ以外に自分の推論を交えて小論文を書いたりしています 今回講演のテーマの選択ですが、出来たら自分の生まれ育った近くの話をする。これは結構面白いのと違うかなと。あまり『大阪狭山市史』とかにも出ていないし、実は地元の人もほとんど知らないという話なのです。講演内容は明治の廃藩置県後ですね。池尻村に陣屋跡が残され、そこに神社が作られて、その跡が、なんと戦後になったら幼稚園になっていったという。自宅がもうそのそばなので、それをじっと見てきた。という話をさせていただきます。 <鎌倉北条と小田原北条 狭山になぜ北条藩?> 陣屋跡といってもご存じない方もいらっしゃるかもしれませんが。江戸時代、狭山藩がありましたが、狭山全体が北条氏の領地ではありません。池尻だけです。そこに陣を構えていました。十二代まで続いています。陣屋とは藩庁、御殿、上屋敷、ちょっと大きなお屋敷で、まあ今で言う首相官邸みたいなものですね。実は陣屋跡の横に池があったのですね。僕の小さい頃にもちゃんと池がありまして今はもう埋め立てられていますけど、そのそばに陣屋がありました。 鎌倉の北条氏、それから小田原の北条氏、この二つの北条と狭山北条。どんな関係か。また小田原北条がどうして狭山に?狭山北条藩の成立についてちょっと確認しておきたいと思います。 まずは鎌倉北条から。鎌倉時代、かつては「いい国作ろう、鎌倉幕府」でしたけど、今はちょっと違います。たいていの教科書は1185年「いい箱」を作ろうになっているのです。この頃にはもう鎌倉幕府がほぼ出来上がってきたということで、歴史の教科書、変わりつつあります。また有名な執権とすれば北条時宗がいますね。元寇の時に活躍した北条時宗、北条氏はそのころ、鎌倉幕府の日本の支配者でありました。この鎌倉幕府の滅亡は1333年です。 室町時代に幕府が開かれて約130年経つと、応仁の乱でいよいよ下剋上の時代が始まっていきます。そんなときに小田原北条の初代の早雲は伊豆を平定する。伊豆を自分のものとしていった。 小田原北条の最初の拠点として韮山っていうところが浮上してきます。北条早雲は、最初の頃は伊勢という名前だったのですね。伊勢氏だったのです。伊勢新九郎とか宗瑞とか盛時とか、こんなふうに自分のことを呼んでいます。韮山というのは伊豆半島の根っこの方にあります。この韮山というところに早雲はいました。そこから北条氏は小田原に出て行った。 氏康、氏政の頃には小田原北条は関東の雄です。氏康はしょっちゅう、武田と上杉氏と北関東あたりで互角に戦っておりました。あまり大河ドラマには出てこないのですが、武田信玄と上杉謙信と同等の武将と言われているのが、この第三代の北条氏康です。そんな関東で覇を唱えていた北条氏なのですが、天正18年には秀吉軍21万の小田原攻めによって滅んでいく。守る北条氏は6万という兵力差。圧倒的です。小さなお城まで全部落とされて、いよいよ最後、小田原に籠城。決着は、氏政とその弟の氏照が切腹。小田原北条は一旦ここで滅ぶのです。 第五代の氏直は高野山へ追放されます。このあたりから狭山との関係が出てきます。高野山に追放される。氏直の妻というのが徳川家康の娘であったということが大きかったのじゃないかと言われていますが、とりあえず助命されて、高野山で蟄居の身となる、その時随行したのが、氏規(狭山藩の藩祖と言われている)と、狭山藩初代の氏盛、こういったところから大阪との関連が出てきました。 氏直はすぐに許されます。大名として復活するんですけど、まあなんと気の毒なことに近江と関東で一万石ですから、実際、戦国時代はなかなか石高だけで表すことは難しいですが、実際にも江戸時代の石高で行くと、おそらく小田原北条は二百万石以上、あっただろうと、こう言われているのですね。だから二百万石あった大名が一万石ですからね。結局一万石の大名で復活します。ところが氏直はすぐに病死します。 その後、氏盛が家督を継いでいく。氏盛の領地として慶長3年には今度河内が出てきます。河内関東で一万一千石。この河内が領地になったことによって狭山とのつながりが出てきます。 池尻が領地の一つでもありました。陣屋の完成は第三代の時です。氏直にしてみたら氏盛を養子とした、おじ氏規の子供ですから、いとこですね。いとこを養子にして、氏盛が狭山藩初代となったということで、小田原北条はこれで命脈を保つということになります。もう一度まとめておくと鎌倉北条は鎌倉時代の北条氏、小田原北条は戦国時代の北条氏で、氏直が高野山蟄居ということを経て、狭山北条藩が江戸時代に出来上がることになる。 <葛西神社履歴による 葛西神社の造営> 時代は近代、明治の狭山ということで。明治2年、版籍奉還。明治4年、廃藩置県ということで、狭山藩はここに消滅します。 その当時の狭山はどんなだったか、明治五年に九か村ありました。明治22年、町村制施行により狭山村と三都村二つに分かれます。東野・池尻・半田村が狭山村に、大野新田・岩室・今熊・茱萸木新田・山本新田・西山新田で六ヶ村ありましたが、三都村になりました。最終的にはこの二つが合併して狭山村になります。 明治七年に廃藩置県後の陣屋跡に葛西神社が造営されます。読み方は「かさい」もしくは「かっさい」。神社が造営されるのですね、陣屋が神社にかわります。 造営目的としては、かつての陣屋の跡が、茫々たる平野となっている現状に心を痛め、世々子孫縁を追って旧恩に報いるため、と『葛西神社履歴』に記載されています。 やはり、殿様とつながっていたいのですね、アイデンティティはやはりこの殿様とのつながりの中にあるということですね。神社を作ったということは、みんなが集まる場所を作りたかったと。そういう同窓会館的な役割も、あったのじゃないかと思います。 <葛西神社の祭神と命名由来について> さらに資料を見て行きますと、どうして葛西神社と名前をつけたかということが書かれています。 主祭神は市杵島姫大神。いちきしまひめおおみかみと読むんですが、『日本書紀』、『古事記』に出てくる神の名前です。左座に第九代氏喬が尊崇していた昌運稲荷の神鏡。右座に北条家先祖歴代の神霊を祀る神鏡。やっぱり一番大事なのは真ん中の位置。市杵島姫大神は、本地垂迹によってすなわち弁才天です。 葛西神社の葛西の命名由来については、非常に単純ですが、葛城山の西だから葛西とつけましたと。『葛城神社履歴』に書かれています。地元の人は葛西神社のことを弁天さんとか弁天社とか葛西神社と呼んでいました。 旧藩士の文書における葛西の由来は二説あります。一説は葛城山説、葛城神社履歴に記載されています。神社が葛城山の西にあることから名付けられた。これはもう間違いないです。もう一説は実は鎌倉に葛西ヶ谷(やつ)というところがあるんですね。ここから来ているのではないかという説もあります。 まず、葛城山の西説ですが、葛城山ってどこやねんっていう話ですね。まあ我々そんな事を聞かれたらここから見えている、大和葛城、今ちょうどツツジが満開ですね。多分大和葛城山を意識し葛城山の西と名付けたと思うのですが、しかし、金剛山のことも、葛城山、金剛の山並みも葛城山と時代によっては呼んでいるのですね。実は金剛山はもともと葛城山なのです。山頂に葛木神社というのがあるのですね。下るとお寺があります。それが転法輪寺ですね。この山号が金剛山。ここから山名としているんですね。だから多分、古い呼び方は葛城山で、そのうちに金剛山になっていたということが充分考えられます。ちょっと横道にそれるかもしれませんが、貝原益軒という人がいます。江戸時代の儒学者です。この人の書いた『己巳紀行』の『南遊記事』というのがあります。南の方に遊んだ記事の中に、現在の金剛山は、その当時、元禄の頃の金剛山は葛城山だと、こう書いてあるんですね。江戸時代には、そういう意識であったかもしれません。葛城山はまあ大体こんな感じで、葛城山系と考えたらいいのではないかと思います。このほど日本遺産に認定された「葛城修験」の山があります。これはどこを葛城山というかというと、役行者たちが修行した修験者の山ですね。和泉山脈、岩湧山、金剛山、葛城山、二上山、ここで修業をしていたので、葛城修験の山全体が葛城山です。 もう一つの葛西ヶ谷説、別所亨氏の『狭山藩資料第二輯』にはこんなふうに書いてあります。「葛西神社の名称は元鎌倉葛西ヶ谷に在りし社名に依る」のではないかということですね。社名に関して鎌倉の教育委員会に問い合わせたところ、残念ながら、そんな神社はないということです。お寺もないということですので、これは社名じゃなくて地名と考えたら分かりやすいかなと思います。鎌倉の葛西ヶ谷という地名から葛西と名付けたと。 源頼朝に従った、葛西清重の屋敷があったことから葛西ヶ谷と名付けられました。清重は奥州合戦で武功を挙げ、下総国葛西城を中心に所領していました。北条高時は鎌倉幕府、第十四代執権です。1333年鎌倉東照寺で、北条一族や家臣らと自害しましたが、東照寺は葛西ヶ谷にありました。したがって葛西ヶ谷は鎌倉幕府滅亡の地ということになります。 ここで問題が出てきますね。鎌倉北条と狭山の北条、鎌倉北条と小田原北条はなにか血縁関係があるのかどうか?ということが出てきます。鎌倉北条に関係があるから、鎌倉の最後の得宗家であった北条高時、その霊を慰めるというのであれば、狭山北条と北条高時は関係ないといけないですよね。その辺の関係がどうかということですが、それについてみていきますと、小田原北条の第二代の氏綱が、関東進出の第一歩として伊勢氏から北条の名を名乗り、家紋も三つ鱗にしましたが北条の執権であった、たいていの人が相模守なんですよね。鎌倉も小田原も相模国です。北条という名前だったら、相模の支配者だと皆が認識してくれると。ここでやっぱり北条ブランドが欲しかったということですね。で、家紋も頂戴した。ということで、実は小田原北条とこういうつながりがありますが、血縁関係はありません。じゃあ鎌倉北条と小田原北条、なんにも関係なかったのかというと、不思議な縁があります。北条早雲は、伊勢新九郎、平氏の流れをくむ伊勢氏の一族といわれており、鎌倉北条氏も平姓を自称。早雲は伊豆国韮山に城を構えた。小田原北条の出発点は韮山。鎌倉北条の本拠地でもある。狭山北条第6代氏貞は韮山において、1753年頃に願成就院を再興。願成就院は北条時政建立のお寺です。韮山城の南南西に葛城山があり、この葛城山の山頂には葛城神社が鎮座している。1300年前には修験道の開祖、役行者の修験道場として栄えたという神社です。 鎌倉北条から小田原北条、狭山北条は鎌倉北条とつながっているということになっているんですね。ということは、狭山藩の藩士たちもみんなそう思っていたはずです。自分たちは、あの執権、北条時宗がいたあの鎌倉北条の末裔だという、そういう家柄を誇っていたっていうことは間違いないでしょうね。六代氏貞は、鎌倉北条に大いに関係ある願成就院の再建を行っています。だから間違いなく自分たちは鎌倉、北条につながっているという意識があったはずです。葛西神社の祭日に鎌倉北条初代の時政を祀る日もちゃんと設定されていますので、初代の神霊を祀っているということは、自分たちは鎌倉北条の子孫である、末裔であるということが、狭山北条の意識とすれば、鎌倉北条につながっていたといえるのではないかと思います。鎌倉北条、北条高時終焉の地が葛西ヶ谷。先祖が非業な最期を遂げたところ、その魂を慰めるという意味合いでいくと、葛西神社という名前が実はぴったりじゃなかったかということです。 地元への配慮として葛城の西、地元の理解を得て祭神は、弁天さんとお稲荷さん、ということで上手くいくかのように見えた葛西神社なんですが、残念なことですがなんと造営後の明治25年に焼失してしまいます。29年に再建。その10年後にお祭りしています。そのお祭りの写真がこうやって残されているのですが、ここに鳥居がありますね。ここに拝殿が見えています。北条さんの三つ鱗もあるし、参列の皆さんがここに並んでおられる。これが明治37年の時の葛西神社の様子で見事に再建が果たされました。その頃、神社合祀令が出ました。もう日本にはいろんな神がいるし、祠があって神社がいっぱいあるんで。明治政府とすれば、それをまとめて管理しやすいようにしたいということで、合祀政策を打ち出すんですね。北条の葛西神社も、ひょっとしたら狭山神社に合祀されたかもしれない。しかし、そこはうまく切り抜けたのだろうということです。「葛西神社は北条家の祖霊を祀る神社ですよ」というふうに、こう言われると、ちょっとどうしようもないですね。北条家の神社ですよと、多分こういう言い訳をしたと思います。神社合祀令が出ましたけども、何とかまぬがれております。ただし、もうその頃からちょっとお参りも少なくなったのかどうか。狭山に残った藩士の人も少なくなったのかわかりませんが。北条家からの下賜金があったというのが、出納簿に乗っている、これを最後に、記録簿として残っていません。だから昭和10年以降は、荒れ果てた感じになっていたのじゃないかと思われます。明治7年に葛西神社が出来上がります。25年に焼けます。29年再建。ところが昭和10年には、ちょっともう様子が分からなくなっていると。やはり藩士たちが代替わりして行きますね。藩士の中でも他に移っていく人も居るし、実際お殿様とかはもう東京だということで、徐々になんとなく殿さんとのつながりが薄れていった、のじゃないかと思うのです。さあ、それで戦後の葛西神社はどうなっていたか。 <葛西神社から幼稚園へ> いよいよ幼稚園のお話です。葛西神社から幼稚園になります。その前に祭典の時の葛西神社の様子を見てみますと、こんな感じですね。ここに拝殿があって、神殿がある。ここに鳥居があって、井戸があって、手水鉢がある、松林などがある。ここは社務所という。これが残されています。盛んな時ですよね。葛西神社とすれば。この手水鉢は今も人の目に留まるところに置いてあります。市立図書館の横に、元郷土資料館がありますが、その前がちょっと砂利を敷き詰めています。そのすみの方に、葛西神社に昔あった手水鉢があります。社務所として使用されていた建物は、養蚕所から神社社務所に変わって、さらに小学校分教場から幼稚園になっていきます。 <昭和25年(1950)9月狭山幼稚園開園> 昭和25年頃狭山町には幼稚園がなかった。たまたま有志団に狭山にも幼稚園をとの話が持ち上がり、篤志家から資金が集まり設立の準備に入った。用地については末永先生のご尽力により、北条氏狭山藩の弁天社の土地を購入した。 園舎の建築は南出倉吉が引き受けて、トタン浪板葺く、木造平屋が完成した。職員室は狭いが弁天社の拝殿を使用することとなったが、弁財天の御神体を、東京在住の北条雋八様へおかえしすることになり、この度も末永先生のお世話で、旧家臣の笠原、高三富三郎の両氏が、羽織袴で東上し、無事返還した。昭和25年9月大体の設備が整ったので、園児を受け入れることになった。資金の調達は南出倉吉が引き受けることになった。その後西地区にも幼稚園が出来て、両者共に私立幼稚園として発足した。1、2年後西幼稚園では経費増による経営困難になり、町営に移管された。 東幼稚園では年々園児が増え、保母さんも新しく雇い入れする等、経費が増し、到底節約の及ぶところではなく、町よりの補助金もないので、父兄の負担が多くなり、西に比べて割高となった。事ここに至り局面打開の必要があった。昭和36年4月1日町営となり、面目を一新した。 なお、南出倉吉さんは務さんの父です。北条雋八さんは北条氏恭の四男で大正14年家督を相続しています。 神社跡地は南出倉吉さんらの尽力により狭山幼稚園となり、葛西神社の拝殿跡は、幼稚園の職員室となりました。なお、狭山幼稚園には集会所がありましたが、それはもと養蚕所でした。『狭山藩史料第二輯』によると、明治22年士族授産事業として狭山池畔に養蚕所が建てられましたが、翌年に事業は失敗。その養蚕所の建物が葛西神社に移され、再建の式典後には社務所として利用されていました。戦後、幼稚園が開園した時、「集会所」として利用されています。 昭和26年4月に狭山村が町制施行して狭山町となっていましたが、狭山幼稚園は昭和36年町立狭山東幼稚園となりました。なお同時期に町立狭山西幼稚園も開園しています。 昭和50年3月中池埋立地に新園舎が完成し移転して現在に至っています。旧幼稚園の西側にあった中池・下池のうち中池の埋立地に建築されています。 平成8年陣屋記念碑が造成されますが、かつての町立東幼稚園の園地跡は、現在では住宅地となっています。府道198号線増沿いに記念碑広場として狭山藩陣屋跡として残されています。以上でございます。長くなりましたが、これで終わりたいと思います。 |
2025年5月 講演の舞台活花
活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
平成24年3月までの「講演舞台活花写真画廊」のブログはこちらからご覧ください。
講演舞台写真画廊展へ