第5回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年8月24日

「煌めく人生~恐るべき努力家 松本清張~


 

東大阪大学・東大阪大学短期大学部元学長

一色 尚 氏

講演要旨

 生物としての人間の機能は、20歳頃がピークで、そこから70年かけて衰えていきます。恐るべき努力で才能を開花させ、今も読み続けられるなど、広いジャンルと膨大な作品を残した空前絶後の人。こうした人たちから、私たちは少しでも生き方を考え、学んでいきたいと思います。


<はじめに>

 松本清張について話すが、私は専門家でも文芸評論家でもない。皆さんのイメージとは違う話になると思う。先入観を除いて「隣のオッチャンがしゃべっている」いう感じで聞いて頂きたい。

 著書総数750余、作品約千点、推計原稿枚数12万枚、作家生活40年、多数の読者を獲得したのが、松本清張だ。

 文芸評論家、新聞等によると清張は、小倉の貧しい家庭に生まれ10代で働き始め、新聞記者を目指すも学歴の壁に阻まれた。貧しく文学に情熱を燃やす余裕はなかった等暗い半生を送ったように評されているが疑問である。現在でも高卒で働くと10代。ましてや明治42年生まれの清張の時代、10代で約98%が働いており特別なことではない。

 清張は社会派ミステリー作家として大きく羽ばたいたが、推理小説、歴史小説、ノンフィクションとあらゆる分野を書き、全てに成功している。このような作家は他にいない。普通の範疇では捉えられない作家が松本清張といえる。

1)作家への道

 清張と同じ1909年(明治42年)に生まれた有名な作家に太宰治、中島敦がいる。それぞれ早くデビューし名作を残したが、太宰 39歳、中島 33歳と若くして死去した。

 この時期、清張は無名で42歳のとき、『西郷札』で遅咲きのデビューを果たした。

 清張自身もそうだが、清張の父も同様に暗い子ども時代を送ったとか『半生の記』に書かれている。清張は度々「暗い過去」と言っているが、矛盾点があり「それはあたっていない」と言う人が多数いる。

 清張は大正13年に川北電気株式会社に給仕として就職した。3年間に貸本屋で借りたり、田山花袋の紀行文等を本屋で立ち読みした。地方の店で毎日立ち読みができるのか?これも疑問が残る。その他、芥川龍之介、菊池寛、江戸川乱歩の影響を受けた。
 清張は「18歳までに全ての本を読み終えた」言っている。30年間清張を担当した藤井康栄は「文学に対する博覧強記振りは全ての編集者の知るところ」と言っている。
 前述の文芸評論家の「文学に情熱を燃やす余裕はなかった」とは矛盾する。
 藤井康栄の父は詩人の大木惇夫で、妹の宮田鞠栄も清張の担当者であった。原稿の締め切りのため、国鉄の電車を遅らせたという噂もエピソードとなっている。
清張は学歴にこだわり、大学卒の担当者には徹底的に質問攻めで、「君は大学を出ていながら、そんなことも知らないのか」と訓戒を垂れるのだった。
 郷原宏、森まゆみも「清張は生涯、学歴にこだわった。大作家の地位を得たのに何故なのか、不思議であった」言っている。

 『学歴の克服』で「いつも懐に文芸書を入れ作家になろうと思っていた」と書いている。一方『実感的人生論』では「支えてくれたのは文芸書であったが、作家になろうとは思っていなかった」と全く違うことを書いている。
 他にも不遇な作家はいるが、あまり知られていない。一方、幼い頃を書いた清張の本は、全てがベストセラーになっているので、これが実像として捉えられている。
清張の住まいは、トタン屋根の劣悪な環境にあったと書いているが、当時、火災防止のため「トタン屋根にすべし」と法制化されており、「トタン屋根の住まい」は清張に限ったことではない。正しく見るには現代の視点ではなく、当時の状況を見ることが重要である。
清張が生後2か月、そして2歳の時、着物姿の父と写真館で撮った写真がある。当時、写真は珍しいものである。

 『私のくずかご』『父系の指』に「父は相場があたった時は、着物を着て、かっぽれを歌っていた」「時々、私を芝居見物に連れて行った」とある。清張は生まれた時からずうっと貧乏であった訳でもない。いい時も悪い時もあったと思われる。
『半生の記』に「18歳の頃新聞記者を目指し、地元紙に採用を申し入れた。その時社長から、記者は大卒でないとダメと一蹴された」とある。地元紙といえども18歳の少年に社長が自ら会い、このようなことを言うだろうか、少し疑問に思う。『学歴の克服』では「新聞記者を目指し新聞広告をみて訪ねた21歳の時」と書いている。このようにあやふやな部分が多い。

 清張は「中学生と会うのが辛く、横道にそれた」、「職業紹介所で担当者に小学卒は日雇い、土方にしかなれないと言われた」と書いているが、藤井康栄は「清張の学歴は当時の国民の平均的レベル」と言っている。『半生の記』に」書かれている暗い部分ばかりにとらわれてはいけない。
 清張は印刷技術を学び、朝日新聞西部本社の印刷を引き受けることになる。 清張は身近な人に「貧しいなかでも、一人っ子として両親に愛されて育った」と言っている。『学歴の克服』では「赤貧洗うが如しと言うほどでもなかった」と書いている。新聞のインタビューでは「苦労をしている人は、他にもたくさんいる。自分が特別とは思わない」と語っている。『半生の記』『私のくずかご』で暗い過去が書かれているが、清張の実像は多くの書物を読みこまないと間違ったものになる可能性がある。

 郷原宏は「作家の手にある一切の記録は物的証拠とはなり得ない。我々にできることは、それらの不正確な記録を手掛かりに清張という物語を推理解明すること」と書いている。

 清張は33歳で徴兵され衛生兵となった。午後は自由な時間があり、京城(現・ソウル)の街を歩いたり、読書をしたり、英会話の勉強もした。他の人程、過酷な経験はしていない。 復員後、小倉に素早く住まいを見つけ、家長としても素晴らしい能力を発揮した。
 清張はデザイナーとしても豊かな才能を発揮し、国鉄・日本交通公社等主催の観光ポスターコンクールで九州1位、全国2位になった。デザイン学校で授業を担当し、小倉のショーウインドー、包装紙をデザインした。当時の仲間はデザイナーとして一流なので、その仕事をやめないよう励ます声が強かった。昭和28年当時に行きつけのステーキ店があった。これはかなりの才能と収入があったものと考えられる。

 藤井康栄は清張自身、人付き合い下手、人間関係が不器用と言っているが、これは言葉通りには信じられないと語っている。

 山村正夫が入院した時、清張が大きな花束を持って見舞いに訪れびっくりさせた。人付き合いはむしろ上手だったのでは、と思われる。

 朝日新聞時代の清張評は「無口でとっつきにくい。負けん気が強い努力家。時々面白いことを言って周囲を笑わせた。暇な時はよく本を読んでいた」というものである。

 東京本社への異動を東京本社に直接依頼するなどは、図々しい願いだと言ってもいい。それでも人望があったのか、小倉を発つとき、西部本社の多数の人が見送りに来た。

2)作家 松本清張の登場

 清張は英会話も出来たので朝日新聞時代、進駐軍との通訳も務めた。英会話力が素晴らしく、専門用語でも英語で通した。

 作品の講評を乞い、木々高太郎、 大佛次郎、 長谷川伸らにデビュー作『西郷札』を贈った。ポイントはしっかり押さえている。岩下俊作 日野葦平にも可愛がられ、小説をどんどん書いていった。

 木々高太郎により、清張の『或る小倉日記伝』を三田文学に載せてもらった。そしてこれが芥川賞を受賞した。昭和20~30年代の清張の短編小説を是非、読んで頂きたい。ベストセラーとなった『点と線』、『眼の壁』で大きく名を成し、社会派推理小説と呼ばれ、歴史小説家から推理文壇のエースとなり、これ以降「清張以前 清張以後」と呼ばれるようになった。

 推理小説という名称は木々高太郎の発案で、また探偵という字が漢字制限にひっかかることもあって、この名称が一般化した。「探偵小説」は謎解き、犯人を見つけるものであったが、「推理小説」は犯人の動機、社会背景を描くよう視点が変化した。これが清張の推理小説である。

 私は高校の時「ゼロの焦点」を読み、感動し、その後多くの清張作品を読んだ。

 作家生活10年目、清張は連載11本、原稿枚数 40枚/日 1200枚/月であった。

 この頃、清張は指が動かなくなる「書痙」になり、速記者を使い、『砂の器』などの名作を残していった。

3)家族・知人が語る清張

 息子これ程の努力家はいない。健康そのもので、薬も飲んでいない。戦記物『平家物語』を物語のように聞かせてくれた。優しい父であった。歴史好きになったのは、父の影響があった。しかし一方「読書をし、勉強しなければ世間で通じない」とよく言われ、厳しい父でもあった。

森村誠一ホテルのフロントマンの経験のある森村は、初対面で清張の小説に描かれているフロントマンの対応の間違いを指摘した。清張はメモを持って質問し、2時間程、しゃべらされ、徹底的に調べあげていった。

2回目は、『高層の死角』の江戸川乱歩賞受賞式で会った。清張は隣にいる森村に気付かず編集者にあらすじを書くよう依頼した。森村は「審査員なのに作品を読んでいないのか」と腹が立った。しかし、祝辞に立った清張の挨拶は素晴らしく「さっきもらったばかりのメモでこんな素晴らしい挨拶ができるのか?」と感心した。

3回目は、受賞の挨拶にアポをとることができないまま自宅を訪問した。「アポのない奴には会わないよ」と清張の声が聞こえたが、奥様のとりなしで会えたが、仏頂面で「がんばれよ」の一言だけで惨めな思いをした。「大作家が新人に対し石ころを見る様な目は生涯忘れることはできない」。

郷原宏編集者として接した氏は、恐ろしく気難しい作家だった。取材結果を一蹴され、一瞬殺意さえ感じた。

森雅裕資料を持参した時、原稿を催促にきた編集者と間違われ、日本刀を持ち出されて追い返された。

山村正夫木々高太郎の新年会で清張は末席に座り謙虚であった。その謙虚な姿勢は大作家になっても変わらず、頭がさがる。

全く違うことを言っている。清張は相手によって対応を変えていると言える。

森村誠一は「清張の該博な知識は自分たちの及ぶところではない」と賞賛している。

森村は、各社の編集者から「清張さんとけんかしているのですか?清張さんは、森村の小説は小説ではないと言っていますよ」と聞かされ、自分をライバル視していると感じた。

新人作家がマスコミ等に取り挙げられるとライバル視する。これが清張の力となっている。

宮田毬栄…清張は「三島由紀夫が死んだのはものが書けなくなったからだ」と主張。

他の作家でも、作家以外の活動に転じたら「才能が枯渇したからだ」と言っていた。

『黒い福音』を担当し、資料集めに歩き回った。その後、清張に「後は頼む」と言われ、一人で調べることにした。目的の場所はテキヤと言われる所だった。行くと異様な雰囲気で罵倒された。しかし、ここでくじけては資料集めが出来ず、小説も書けなくなると、必死の思いで3時間も粘った結果、いろんなことを語ってくれ資料を集めることができた。清張に資料を持参したら、大喜びだった。ことの経緯を清張に話すと「あなたの向こう見ずにはかなわないよ」とすまして答えた。出版された『黒い福音』の見返しに、「謹呈 この本の共同取材者の大木(宮田の旧姓)毬栄様」と書いてくださった。 藤井康栄も同様の怖い思いにあっている。
「2.26事件」にかかわって、強いクレームがあり、懇切丁寧に説明し、理解を得た。しかしこのことを清張は知らない。

『日本の黒い霧』。必ずしも真実かどうかわからないが、当時、タブーとされていたことにも清張は果敢に挑戦した。

NHK「新日本風土記」の担当者が「少し仕事をセーブしてはどうか?」といったところ、清張は「私には時間がない。書きたいことが山ほどある」と叱られた。

出版社に「清張伝説」がある。報告を求め、担当者宅に夜中でも電話があり、家族も大変であった。清張は倒れるまで、努力を惜しまなかった。

藤井康栄は清張の本には矛盾、相反する点があると言っている。「貧乏であった」一方では「さほど貧乏ではなかった」。「作家になりたかった」「作家になろうとは思わなかった」。「努力をした」「さほど努力はしていない」。両方とも清張である。清張を語るには時代背景を無視してはいけない。

清張は、自伝的作品は映像化させないと明言した。「イメージが強すぎる」とも言っている。清張没後『父系の指』が放映されたが、虚実入り交じった映像がひとり歩きした。

<むすび>

 清張ほど、あらゆるジャンルに挑戦した人はいない。そしてほとんどがベストセラーとなり、多数映画化、ドラマ化された。普通、功成ればホッとするものだが、清張は向上心が消えなかった。領域の広い作家で、驚異的な努力で人生を終えた。 弛みない努力、強靭な精神力で、常に新しい分野に挑戦し、信じられないほど、多方面に健筆を振るった。 100年経ってもこのような作家は出てこないと思う。

 昭和30年代の短編を是非、読んで頂きたい。
 色んな話をしたが、これも松本清張の一面であると捉えて頂きたい。
 ご清聴ありがとうございました。

                                          以上

 


2023年8月 講演の舞台活花



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