第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2023年4月28日

「坂本龍馬を斬ったのは誰か?
~幕末最大のミステリーに迫る~


 

霊山歴史館 学芸員

米澤 亮介 氏

講演要旨

 慶応3年(1867年)11月15日、京都の醤油商・近江屋で 発生した坂本龍馬、中岡慎太郎、藤吉の襲撃事件の実行犯や黒幕を、霊山歴史館が所蔵している「坂本龍馬を斬った刀」など関連資料をもとに探っていきます。



はじめに

私が学芸員をしております霊山歴史館(りょうぜんれきしかん)は、京都東山三十六峰の一つ、霊山(りょうぜん)と呼ばれている山の麓にあります。この山はお釈迦様が法華経などを説いたインドの霊峰、霊鷲山(りょうじゅせん)に形が似ていることから霊山と呼ばれるようになりました。お釈迦様ゆかりの霊峰に似ているということで霊山は信仰の対象になり、それが幕末にいたって洛外にあり立地的に幕府の目の届きにくいところであることから反幕府派の志士たちのお墓が建てられるようになりました。墓は386柱あり、祠を設けて祀られている人々を含めると、3000人を超える霊が祀られています。坂本龍馬、中岡慎太郎それに龍馬の小者藤吉のお墓もここにあります。

事件の概要

 坂本龍馬が霊山に葬られることになった近江屋事件、近江屋騒動とも呼ばれますが、その概要は慶応3年(1867年)11月15日現京都市中京区河原町通蛸薬師にあった土佐山内家御用達の醤油商「近江屋」にて坂本龍馬と中岡慎太郎と龍馬の小者藤吉が何者かに襲撃され命を落としたというものです。

犯人は?

「誰が龍馬を襲ったのか」については「新選組犯行説」「京都見廻組犯行説」「薩摩藩黒幕説」などいくつかの説があります。

(1)「新選組犯行説」は事件直後から広く信じられていた説です。「いろは丸沈没事件」で多額の賠償金を取られた紀州藩が新選組に襲わせたという噂があり、それを信じた旧海援隊、陸援隊の同志たちが仇討ちを試みた天満屋事件もありました。11月15日付けの「寺村左膳道成日記」には「多分新撰組等之業なるべしとの報知也」の記入があります。物的証拠としては、新選組が出入りしていた先斗町の料亭「瓢亭」の下駄と組頭・原田左之助の鞘が落ちていたことと、中岡慎太郎が耳にした「コナクソ」という四国方言が挙げられます。原田は伊予松山、現在の愛媛県出身です。しかし下駄についての証言は当時子供であった近江屋の息子が維新後の調査に父親から聞いたと話したものであり、また幕末当時の鳥取、尾張の藩の資料では「中村屋」「噲々堂」の下駄とあり、必ずしも「瓢亭」の下駄だとは決められないところがあります。そして「鞘」について原田左之助のものだと証言したのは、新選組から離隊した旧御陵衛士(ごりょうえじ)の人々でした。御陵衛士は11月18日に京都油小路で新選組に粛清され、その際に逃げ延びた者が原田の鞘だと話ました。つまり新選組に恨みを持つ者の証言で、にわかには信じにくいものであり、さらに中岡慎太郎が聞いたとされる「コナクソ」という言葉も薩摩弁の「コゲンクソ」ではないかとか、関東弁の「コノクソ」ではないかなど諸説あり、瀕死の傷を負った中岡慎太郎がどれだけ正確に聞き取れたかも疑問です。そして箱館戦争後、降伏した旧新選組隊士たちに龍馬暗殺に対する尋問も行われますが横倉甚五郎、大石鍬次郎、相馬肇は「一向不存候」、「見廻り組暗殺致候由、勇より慥に承知仕候」「見廻り組暗殺致候由之趣初而承知仕候」などと述べ、犯行を否定しています。なお、永岡清治著「旧会津白虎隊」によると事件当夜、局長近藤勇は山本覚馬と酒宴を催していたのでアリバイがあるとのことです。幕末当時幕府のお尋ね者であった龍馬を討ったとなると功績になるにもかかわらず、新選組で龍馬を斬ったと証言した者はいませんでした。

 近年唱えられた説に新選組の斎藤一が龍馬を斬ったというものがあります。斎藤は左利きであったとも言われおり、通常武士同士が対坐するときに敵意がないことを示すためすぐには右手で抜き打ちができないように右に刀を置くのが作法なのですが、龍馬と会った時もそのようにし、そしてすきをついて左手で刀を抜き龍馬を斬ったとの説です。この説は浅田次郎氏の書いた「壬生義士伝」からヒントを得たものであると言われています。しかし絵心のある隊士が斎藤一を描いた絵を見ると左利きではなかったようで、この説も信ぴょう性を欠くものであると考えられます。

 このように否定はされても新説を唱える人がいるということはいまだ新選組犯行説を唱える者が根強く存在することをも表しています。

(2)「薩摩藩黒幕説」とは「武力討幕を掲げていた西郷隆盛や大久保利通が、『大政奉還』により徳川慶喜を討つ大義名分を奪われたため龍馬を暗殺したのだが、中岡慎太郎たちはそこに巻き込まれた」というものです。

幕末から唱えられていた説であり、肥後藩国事史料には「坂本を害し候も薩人なるべく候事」とあり、松平春嶽の書状には「此度土藩尽力により芋藩の姦策已に敗れたる形勢なり」と書き、大政奉還で面目を失った薩摩藩が手を下したことをにおわせています。さらに旧京都見廻組の今井信郎が箱館戦争で敗退したあと龍馬襲撃者として裁判にかけられて禁錮を命じられているのですが、恩赦によりのちに釈放されています。これは西郷隆盛が指示を出したからではないかという説があり薩摩藩黒幕説の根拠の一つとされています。ただし今井は見張り役に過ぎなかったことが裁判で認められており、「屢々官軍に抗撃、遂に降伏致し候とは乍申、右始末不届につき…禁錮申付る」と、新政府軍と交戦した罪科も加味して禁錮に処せられています。そして明治5年に上述のごとく釈放されるのですが、同時に他の者も釈放されていますので西郷が根回しをしたわけではありません。また慶応3年10月16日付、大久保利通宛ての岩倉具視書簡に、松平容保が西郷や大久保、小松帯刀を殺害対象にしているから速やかに帰国するように、と書かれていて、彼らが当時幕府から追われる身で京都見廻組を動かすことはもともと不可能であったことがわかります確かに大政奉還で目論見は外れたものの龍馬は武器の運搬などでまだまだ必要な存在であり、貴重な搬入ルートの一つを自らつぶすようなことはしないとも考えられます。

そもそも薩摩藩黒幕説は国際法学者・蜷川新氏が「歴史公論」(昭和9年)に「幕末維新の陰謀、政治とその表裏」を発表し、唱えたものです。のちに昭和27年に著した「維新正観」のなかで「海援隊隊士・中島信行が事件直後に近江屋の女中から襲撃者が薩摩弁を話していたという証言を得ていた」と紹介しています。しかしながら「坂本龍馬海援隊始末記」の中に「慶応3年10月19日龍馬は紀(州)藩と伊呂波丸賠償事件交渉のため中島を京都より長崎へ遣わす」とあり、当時中島は長崎にいて事件直後に現場に駆けつけることは不可能でした。以上のことから薩摩犯行説を唱える研究者は私の知る限りおられない状況です。

(3)京都見廻組説
 襲撃の様子
 京都見廻組与頭・佐々木只三郎の子孫高橋一雄が刊行した「佐々木只三郎伝」(昭和13年)には「桂早之助、渡辺吉太郎、高橋安次郎が8畳間に踏み込んで、一人は慎太郎の後頭部に斬りつけ一人は龍馬の前頭部を横に払った」とあり、さらに「龍馬は佩刀を後ろの床の間に置いていたのでこれを取ろうと後ろ向きになったところをまた右の肩先から左の背骨にかけて大袈裟に斬られた。次の太刀を鞘のまま受け取ろうとしたが天井が東の軒に向って低く傾斜していたため鐺(こじり)が天井にあたって突き破り、敵の刀は鞘越し三寸ほど龍馬の刀身を斜めに削りさらに流れて龍馬の前額を斬った。特に初太刀は脳漿の汾出するほどの重傷で龍馬は『石川、石川(中岡の変名)、刀はないか』と叫びやがて昏倒した」とあります。

「佐々木只三郎伝」はあくまでも後世に子孫がまとめたものですが上記の3人が斬ったとしています。渡辺は1864年に神奈川奉行所支配組同心より京都見廻組へ移籍した隊士で、「鳥羽伏見の戦い」に従軍して戦死。高橋は京都見廻組伍長を務めますが「鳥羽伏見の戦い」で戦死しています。

ここで「箱館戦争」に従軍して捕まった今井への取り調べ記録から今井信郎の証言を述べますと、「佐々木、渡辺、高橋、桂、土肥、桜井と私の7人で近江屋へ行ったが龍馬が留守につきその夜8時ごろ再び訪問し、桂、渡辺、高橋が2階に上がり、その様子は下にいた私どもは存じませんが、召し捕ろうとしたが拠所なく討ち果たしたと聞いた」とのことです。龍馬を斬った者が、「佐々木只三郎伝」の記述と一致しています。

ところが、今井は明治33年に「近畿評論」の記者・結城礼一郎の取材を受けた際には「自分と桂、渡辺あと一人で龍馬を斬った」と供述を翻したのです。しかし結城はのちに新聞の読み物として捏造した部分があると懺悔しています。つまり近畿評論の今井の記事はどこまで信ぴょう性があるのか疑問視されています。

今井以外にも自分が龍馬を斬ったと証言する者がいます。旧見廻組隊士・渡辺篤という人物で、父に譲られた出羽大掾藤原国路二尺五寸七分の刀で斬ったと臨終に際し告白しています。彼は死の4年前の明治44年に「渡辺家由緒暦代系図履暦書」を記述し、その中で「佐々木の命により自分と今井他3名と龍馬の旅宿に踏み込み、龍馬と中岡、従僕の藤吉を倒した」と述べています。しかし龍馬のいた部屋は勾配天井で、そのような狭い場所で大刀を振るえるのかという疑問もあります。売名行為でないかという人さえ古い時代から存在していました。現場に落ちていた鞘について渡辺は京都見廻組の無足見習・世良敏郎のものであると証言しています。書物は少し読めたが武芸はあまり得意ではない世良が動転して近江屋の一室に鞘を忘れたたまえ、見廻組の屯所に戻る際、渡辺が抜身の刀を袴の脇開きの中に隠していたと述べています。

京都見廻組犯行説を掘り下げる中で桂早之助についても触れる必要があります。「佐々木只三郎伝」今井証言に出てきた隊士であり、渡辺による「履暦書」に見える「他3人」にも含まれていると考えられます。1841年生まれの彼は幼少より剣術を学び11歳で所司代同心・並河一三二に仕え、17歳で文武館道場の剣術世話心得に任ぜられています。今でいえば高校生が大きな道場の師範代を務めるようなものです。彼は御所の火事、「8月18日の政変」、「池田屋事件」などに出動して功績を残し、朝廷や将軍から報奨を賜っています。慶応年(1867)月京都見廻組に加わりましたが、翌年「鳥羽伏見の戦い」に従軍し戦死しています。元陸援隊隊士・田中光顕の「維新風雲回顧録」には「龍馬襲撃は小太刀の名人早川桂之助(桂早之助)、渡辺吉太郎の所為だと言われている」と述べられています。現在、霊山歴史館では桂早之助の所用した42.1㎝の小太刀(脇差)を展示しており、この刀で龍馬が斬られたと考えています。

高知県出身の維新史料編纂委員の川田瑞穂氏の「土佐史談」によると、「初めより室内の闘争を予期して長刀を携えざる小太刀の名人のみを2階に闖入せしめた」とあります。実際に室内で脇差が使われたのかという疑問が残りますが、龍馬本人が伏見奉行所の捕吏に襲われた「寺田屋事件」で「脇差で指を斬られた」と故郷の家族にあてた手紙の中で記しています。このように狭い室内で脇差を使用することは珍しいことではなく件の近江屋の部屋は勾配天井になっているので大刀よりも脇差の方が扱いやすかったと推測されます。

やはり龍馬に初太刀を浴びせたのは、狭い室内での戦闘という状況を考えて脇差で斬った桂である可能性が高いと思います。ただ、今井や渡辺の証言も正しいとするなら、龍馬、中岡がともに大小30か所前後の傷を受けたことを考え合わせると何人かでとどめを刺したと推測するのも不自然ではありません。 

最後に
 
誰がではなく、なぜ龍馬を斬ったのかについてですが、今井信郎は東亜書房発刊の「坂本龍馬」の著者・和田天華の質問に対してその経緯を「暗殺に非ず、幕府の命令に依り職務を以、捕縛に向格闘したるなり」「彼れ曾て伏見に於いて同心三名を銃撃し、逸走したる問罪の為なり」と答えています。伏見での銃撃というのは慶応2年1月23日(1866年3月8日)の寺田屋事件のことです。今風に言えば、逮捕に来た警官を殺害して逃げた罪で龍馬を斬ったのだ、というのです。なぜ捕縛ではなくて斬ったのかについては、龍馬はピストルを持っていて実際に寺田屋事件で銃撃しているため2度は許されない、確実に仕留めねばならないと初めから決めていたと思われます。つまり、龍馬襲撃は暗殺ではなく公務であったという認識を今井信郎は証言しています。 

坂本龍馬襲撃事件については現在も種々の説が唱えられていますが、以上述べました理由で霊山歴史館では京都見廻組犯行説を唱えて展示などをしています。

 


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