特別講演
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年8月25日

「教科書から消える?有名人」


 

西大和学園 教諭

浮世 博史氏

講演要旨

高校の教科書から、坂本龍馬、吉田松陰らの名前が消えるのではないかと言われています。明治維新に影響を与えた彼らがなぜ? 歴史に名を残すとは何かをお話しします。


教科書から有名人が消える理由
教科書は4年に1回の改訂があり、今年も改訂されたので来年から教科書が変わります。今の教科書は皆さんが習った頃の教科書とはがらりと変わっています。ゆとり教育ということで簡単になったりしましたが、まるで振り子のように内容が増えたり、減ったりしています。いろいろな観点で歴史の内容が整理され、歴史上の人物も消えたりしています。なぜ消えるのか、その理由を知ると納得できるかもしれません。吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬や西郷隆盛といった歴史上の有名人は教科書から消えていくのか、何をして、なぜ消えていくのかについて紹介していきます。まず消える理由としては、

  そもそも内容が間違っていた

明石原人がいたことを習ったと思いますが、今は日本には原人はいなかっとわかっています。また歴史の教科書で人物の写真や絵が数多く登場しますが、昔5千円や1万円札に使われた聖徳太子や足利尊氏の肖像画、だるまのように描かれた武田信玄等、今は正しくないものとして教科書には採用されておりません。肖像画は基本的に怪しいと思ったらいいです。また農民の生活を縛るために考えられたとされる「慶安のお触書」については、幕府は一切そのようなものを出してはおりません。

➁ 誇張表現の修正

昔は身分制度として士・農・工・商があったと習いましたが、そのような身分制度はありませんでした。武士とその他といった身分の差はありましたが、明治政府が“今は皆が平等なのだ”と説明するのにそのように言ったのです。大井川に橋が架かっていなかった理由や参勤交代制度を作った理由付け等、現在は歴史の記述が変更されてきています。

   歴史上の評価が変わってきた 

 今回の大きなテーマになりますが、歴史的な評価が変わってきたという影響があります。当時は高く評価されていたが、今はここまで高く評価するのはおかしいと見直しがされた結果、教科書から人物や出来事が消えたりしているのです。

■吉田松陰

 松下村塾は吉田松陰が開いたのではなく、実は叔父さんが1842年に設立し、松蔭が1857年に引き継いでいます。松蔭は1859年に29歳で亡くなったのでわずか2年間教えただけになります。2年間でどれだけのことが教えられ、また誰に影響を及ぼしたのでしょうか。塾生として誰が学んでいたのかは、実はよくわかっていません。桂小五郎(木戸孝允)や井上聞多(井上馨)は塾生ではなく、伊藤博文や山県有朋も塾生だったのかどうか疑問です。吉田松陰には多くの武勇伝があり、いくつかを紹介します。

  友人に会いに東北へ行くぞ!と決心したが、約束の期日までに藩からの許可が出ず脱藩。

  ロシアが日本に開港をせまって長崎に来たことを知ると、ロシア使節のプウチャーチンを殺してやる!と面会を求める。

  ペリーが来航した時、ペリーの船に乗るため漁民から舟を借り、外国に連れて行け!と願い出た。

  ペリーの軍艦に乗り込もうとして失敗したことを、わざわざ奉行所に出かけて自白、長州に送られて入獄。

  日米修好通商条約が、天皇の許可なく結ばれたことを知ると老中間部詮勝の暗殺を計画。

  吉田松陰のあまりに無謀な行動に、弟子たちは血判状まで添えて諫めたのに「おまえらはこしぬけだ!」と怒る。

  「長州藩をあげて幕府を倒せ!」と願い出て、また入獄。

  安政の大獄の時に、海外渡航計画につき問われたのに、なぜか老中暗殺計画を自白して処刑される

吉田松陰は凄い人でその時代と空気をよく表している人物ですが、決して次の時代(開国して近代化を進める)を切り開いたわけではなく、尊王攘夷という復古主義の人物だったと言えます。今の歴史の評価方法は、誰がどうしたといった人物中心から、何故そうしたのか、社会や経済がどう変わったのかに重点を移しています。歴史は、一つの要素で動くのではなくあらゆる方面の力(ベクトル)が働いて動いていることを理解する必要があります。新選組や赤穂浪士も教科書からは消えています。人物の物語としては大変面白いのですが、その出来事が次の社会、新しい時代を切り開いた(貢献した)のかどうかが大事で、これが教科書に登場するかどうかの判断基準になっています。だから今の子供たちは、新選組や赤穂浪士の討ち入りを習わず、知らないのです。

またペリー来航時、流行った歌として「泰平の 眠りをさます 上喜撰 たった四はいで 夜も寝られず」が有名です。この歌はペリー来航で慌てふためく世情を表していますが、事実を描写していないので教科書から消えています。煙を吐いてやってきた蒸気船は1隻のみ、また幕府は事前に江戸市民に “艦隊が来て大砲を撃つ”ことを伝えていたので、“寝耳に水”と慌てることはなかったのです。面白くないから教科書は駄目だという考え方は捨ててください。面白いことはそれで楽しんだらいいと思いますが、その面白さと歴史を学ぶことは別だと理解してほしいのです。

■高杉晋作

高杉晋作についてもいくつか間違って伝えられていますので紹介します。

    吉田松陰の遺体を将軍しか渡れないとされた御成橋を渡らせたという「御成橋事件」、これはありませんでした。

    真昼堂々関所破りをしたと書かれていますが、その事実はありません。司馬遼太郎の小説は本人も言うようにフィクションの部分もあって全てが歴史的な事実に基づいて書かれているわけではありません。

  京都で徳川家茂の行列に「いよっ!征夷大将軍!」と声をかけた、という事実もありません。 

現在の教科書の記述では、

・高杉晋作・桂小五郎らの長州藩尊攘派も、下関で四国艦隊に惨敗し、ついに攘夷の不可能を悟った。

・高杉らは奇兵隊を率いて1864年末に兵をあげて藩の主導権を保守派から奪い返し、領内の豪農や村役人と結んで、藩論を恭順から討幕へと転換させ、イギリスに接近して大村益次郎らの指導のもとに軍事力の強化につとめた。

とあります。

 つまり高杉晋作は徴兵制度の先取り等、次の時代にやることを今の時代にやっているということで、歴史上重要な役割を果たしているわけなので、歴史の教科書から消えません。史実に基づかない記述で「高杉晋作はたいした人物ではない」として、本当の彼の姿、彼のすごさが失われることは残念なことです。

■坂本龍馬

 講演会で坂本龍馬に関する歴史的事実を話したりすると、受講者の方からお叱りを受けたりします。私も司馬遼太郎の「竜馬が行く」が好きで何回も読んでいますが、小説の中の龍馬は虚像であり、実際はどうだったのかはわかりません。坂本龍馬に関する誤解として、

  もともとあまり利発な少年ではなかった。

十二歳になっても寝小便をしていた。

友人からいじめられても言い返すことができない。

文字を覚えるのも苦手だった。

 と言われていますが、これはほとんどが嘘です。坂崎という人が明治16年に書いた小説が描いた坂本龍馬です。他に

志を立てて江戸に出たというのも間違い。実際は貧乏の郷士の家に生まれ、「口減らし」で江戸に行かされた。

  十代のころ剣術修行に明け暮れていたというのも作者の想像。十代の時から佐久間象山の弟子になり西洋砲術を学び、土佐に帰って射撃訓練をしているので、子供のころから利発だったと思われます。

   二十代で勝海舟に出会って「近代」に目覚めたわけではありません。十代の時からすでに近代について考えていて、勝に会って初めてがらりと考えが変わったわけではありません。

   坂本龍馬が西郷に新政府の人事案を示した時、坂本龍馬の名前がないことを指摘すると「世界の海援隊でもやりましょう」と言った話は確認できていません。史料によると坂本竜馬の名前は参議として入っており、嬉しそうにはしゃいだと記録されています。

 坂本龍馬は薩長同盟の立役者として有名です。薩長は以前より同盟(お米と銃の交換)を締結しており、もともと幕府を倒すための同盟ではなく、口約束であって相互に取り交わした文書はありません。坂本龍馬が桂小五郎に求められて書いた朱書きの覚え書きでは、

・長州藩と幕府が戦争を始めたら薩摩藩は京都に兵を出す。

・薩摩藩は長州藩が朝廷での立場がよくなるように努力する。

・薩摩藩が京都に出兵しても会津や桑名が言うことをきかなければ、これらと戦う決意がある。

 となっており薩摩藩のしたたかさが読み取れます。坂本龍馬もその時代に活躍しましたが、次の時代に移る過程で暗殺されました。薩長同盟も坂本龍馬だけの力で成されたわけではなく、例えば小松帯刀などの役割も龍馬に劣らず大きかったはずです。人物中心から社会や経済を中心に、次の時代を拓くという教科書の編成方針に沿うと、坂本龍馬は消えていくことになりそうです。ただこんな大人物を消すのかという苦情もあって、全く消えるのでなくコラムで紹介する方向になると思います。

■西郷隆盛

 西郷隆盛は教科書から消えません。大久保利通もそうですが、幕末から明治へと時代を切り開き、 次の明治維新でも活躍したからです。皆さんの知る西郷さんの肖像画は、弟の西郷従道と従兄弟の大山巌の写真から作られたモンタージュ(合成写真)です。西郷隆盛は写真を撮られると魂を抜かれるとして写真がとても嫌いで、明治天皇から一緒に写真を撮ろうと言われても断ったそうです。平安時代から肖像画は本物そっくりに描くと呪われるとして、わざとそっくりに描かないのがマナーでした。肖像画がそのように思われていたので、ましてや写真になると魂を抜かれると考える人は数多くいました。平安時代の美人の顔は、しもぶくれで目はちょんちょん、小野小町はそんな顔だったでしょうか。いやそんなことはなく真実は真逆だと思います。また西郷さんの合成写真はでっぷりと太っていますが、現役時代は痩せており。引退してから肥えたとされています。

おわりに

 教科書はつまらないという学生はいますが、それは教師がどういう意味があって書かれているのかをきちんと伝えていないからです。教科書には次の時代の「ネタふり」が随所に書かれています。

「ここでどうしてこんな話が書かれているのか」と思ったら次でその話が生きるようになっています。室町時代、応仁の乱で京都が荒廃した時、京都から多くの公家たちが地方に下りました。そのころから薩摩の島津氏は京都と繋がりを持っており、幕末になって急に京都と密接に関わったわけではありません。薩摩藩は73万石で経済力もあり、昔から京都とつながっていて、だから幕末に活躍できたのです。

 最後に教科書の記述に戻りますが、教科書は時代を先取りした人物や出来事について歴史的事実を踏まえて載せるようになっていて、皆さんも興味をもって見直していただいたらと思います。そうすることで、歴史の内容を違った角度から見ていくヒントにもなると思います。   

 


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