第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年5月19日

「チベットに渡った禅僧 河口慧海」


 

高野山大学 非常勤講師

奥山 直司氏

講演要旨

河口慧海(かわぐち・えかい 1866-1945)は明治時代、鎖国体制下のチベットに単身ヒマラヤを越えて潜入し、そのスリリングな冒険談を『西蔵(チベット)旅行記』に著したことで世界的に知られる仏教者、仏教学者です。本日は彼の第一回チベット旅行に焦点を当ててお話しします。


1 はじめに

講演に先立って大阪狭山市にお住まいだった登山家の大西保さんのことをお話します。残念ながら8年前に他界されましたが、西ヒマラヤの山々については世界一の権威でした。縁があって知り合いになり、彼からは「情熱」ということを教えられました。大西さんは同じ関西人として慧海の通ったルートを全部たどりたいという夢をもって活動されていました。河口慧海もまた大きな夢をもち、それに向かって前進を続けた人物です。

2 生い立ち

慧海は堺市の現・北旅籠町に樽職人の長男として1866年(慶応2)に生まれました。幼名は定治郎(さだじろう)と言い、長男として家業を継ぐ定めがありましたから、日中はその技術の習得に努めなければなりませんでした。そのため小学校も中退しています。しかし向学心が強く、本を読むことが大好きな少年でした。幸い、夜の塾に通うことは許されて、漢学塾に通うようになりました。ここで読解力と文章力を身に着けたようです。その頃、お釈迦様の伝記を読んで発心(悟りに向かって心を発すこと)し自分もそのような生き方をしたいと数え年15歳で願ったときに河口慧海物語が始まります。厳しい仏道の修行に耐えられるかどうか自分をテストするために3つの誓い(禁食肉・禁酒・不淫)を自分に課し、商売繁盛の神様として親が信仰していた信貴山の毘沙門天に誓いました。親はなかなか彼の出家を許しませんでしたが、彼の強い意志と向学心に根負けして、自分でやってゆくのであればと上京を許します。23歳の時でした。哲学館(のちの東洋大学)に入り新しい学問を学び、25歳の時にようやく親の許しを得て、黄檗宗のお寺で出家して慧海仁広となりました。河口慧海の誕生です。

しばらく黄檗宗の僧侶としていろいろ活動したのち、彼はチベットに行こうと思い立ちます。それはわかりやすく正確な和訳のお経を作って日本国民に広めたいと考えていたからです。というのも『法華経』のような代表的大乗経典には複数の漢訳があって、内容にいろいろな違いがあるため、本当の意味を考えるうえで苦慮したからです。哲学館で、西洋では仏教をサンスクリット語で書かれた原典、あるいはそのチベット語訳で研究していると聞き、日本でも同じように原典に忠実な研究をしなければならないと考えるようになりました。そしてお釈迦さまの真実の教えを知るためには、その故郷であるインドではすでに仏教は廃れているからネパールや鎖国状態のチベットに行ってお経を持ち帰るしかない、これは人生をかけるだけの価値があると考えたのでした。

3 チベット旅行

当時海外旅行といえば相当な費用が掛かり、職人の息子である慧海には到底賄えるものではありませんでした。ところが幸運にも肥下徳十郎(ひげ・とくじゅうろう)という外護者(仏道の修行者を助けてくれる在家の支援者)を得て目的を果たせました。徳十郎は15歳からの親友でしたが、同じ町内の金持ちの家の養子として家業に勤しみながら、慧海の夢を実現すべく援助してくれたのです。

南海本線七道駅の前には、2頭の羊を連れて雪の中を黙々と進んで行く慧海の銅像が立っています。当時の日本人にとってチベットは、今でいえば、宇宙の果てのような遠い場所でした。まして鎖国状態の危険な国ですから、慧海に思いとどまるように進言する人もいたようです。しかしお釈迦様の真実の教えを明らかにしたいという彼の意志は固く、両親や友人を説得し、徳十郎のような外護者にも恵まれて何とか神戸を出発します。数え年32歳の1897年(明治30)6月のことでした。

まずインドに向かい、カルカッタ経由でダージリンに行きます。ここでインド人のチベット学者サラット・チャンドラ・ダースに会います。歓待されますが、ダースは慧海のチベット行きには反対し、自分の下で勉強して日本に帰る方がよいと忠告します。それから1年5ヵ月の間ダージリンでチベット語の話し言葉を覚え、それを駆使して情報収集を行いました。語学のいい教師は子どもだと後で述懐しています。ダージリンから北に向かえばチベットの都ラサに通ずる街道がありますが、当時のチベットは南から来る外国人を厳重に警戒していましたから、ここからチベットに入るのは不可能だと彼は判断します。前には進めないし、かといって後ろに下がることもできない慧海は横に移動しようと考えました。

彼はまず中国人の巡礼と称してネパールに入りました。ネパールの都カトマンズで情報を集めた結果、西に進めばチベットへの道が開けると判断し、馬に乗って出立します。マチャプチャレ、アンナプルナ、ダウラギリという世界有数の高山を前にし、グランドキャニオンが二つ重ねられるくらい深いカリ・ガンダキの大峡谷の川床に沿って進みます。そしてツァーラン村に到着します。ここで10ヵ月間村長の仏堂に滞在して冬を越します。ここでも情報収集に励み、北に向かっても兵士たちが厳重に国境を守っているため入国はできないと判断しますが、熟慮ののち、西に向かえば望みがあるという見通しを立てます。

彼は時には野宿をしながらの困難を極めた旅行中も克明に日記をつけていました。相当な気力の持ち主といえます。2004年にその日記が発見されました。これに基づいて彼は、帰国後『チベット旅行記』を発表しますが、その内容が当時の日本人にはあまりにも奇想天外なものだったため、嘘だ、でたらめだと言う人もいました。しかし、今日では誰も疑う人はいません。現地に行けば、『チベット旅行記』に描かれた120年前そのままの風景を今も見ることができるからです。

慧海はツァーランからまず南に下り、マルパという村に入り、雪解けを待ちながら、今は慧海の記念館になっている村長の家に滞在します。峠が通れるようになり、マルパを案内人と一緒に発ったのは、1900年(明治33)6月12日のことでした。翌日ダンカルゾンという村に着きますが、体調を崩して2日間滞在します。6月15日、ダンカルゾンを出ますが、急激な登りに高山病を発症したらしく、「空気稀薄にして呼吸のなしがたきに、危険なる坂道を行くが故に、胸の動気(ママ)は激しく打ちて、呼吸は蒸気機関の発煙するに似たり。頭脳煩悶して脳中発火せるが如し。わづかに雪水を口に湿して進むといへども時々昏倒せんとす」と日記に書いています。それをこらえながらさらに進み、サンダーという小村に着きました。疲労は極限に達していましたが、それでも彼には周りの景色を楽しむ余裕がありました。このような余裕があってこそ、逆境をものともせず、無事に帰国できたのだと思います。さらにタシン・ラという峠を越え、6月23日にツァルカという村に着きます。従来、ツァルカを出てからネパールとチベットを分ける峠に立つまでの13日間の行程は謎に包まれていました。特に、この辺りにはネパールとチベットの国境に沿って11の峠がありますが、慧海がどの峠を越えたのかは、2004年に彼の日記が発見されるまで100年以上の間誰にもわかりませんでした。その間多くの登山家がこの謎に挑戦し、様々に思いめぐらしながら彼の足跡をたどりました。

慧海が13日間の行程について具体的なことを述べなかったのは、それと知らずに慧海を助けた地元の人たちに迷惑がかかるのを恐れたためであり、また国境付近の詳しい地理を明かすのは、ネパール政府にとって迷惑であろうと考えたからだと思います。それが、日記の出現によってかなり正確に跡付けることができるようになりました。日記によると、彼はティンキュー、シーメン、シェーと進んだことが分かります。シェーで4泊し、7月1日いよいよ国境を目指します。7月3日、慧海はパンザン・コーラとナムグン・コーラの合流点に近い橋を二つ渡り、パンザン・コーラの北岸を上流に向かって進みます。それからクン・コーラの谷に入り、この辺りの草地で野宿しました。そして74日午後、慧海はついにネパールとチベットを分ける国境のクン・ラ峠(5411m)に到達しました。

チベット側に降りた慧海は、見つけた池に慧海池、仁広池と自分の名前を付けながら進んでいきました。ネーユという草原に至って夜はチベット人の遊牧民のテントに泊めてもらいます。翌日はゴシャルゴンパという寺を訪ね、そこから西に向かい、マーナサローワル湖とカイラース山を巡礼してから、東に転じてラサを目指しました。翌1901年(明治34)3月21日、彼はついに禁断の都ラサに到達します。マルバを発ってから実に9ヵ月の苦難の旅でした。その間に、強盗に金品を奪われたり、川でおぼれそうになったり、餓死寸前になったり、犬にかまれたりなど多くの危険を乗り越えました。

ラサではセラ寺で修学するかたわら、法王ダライ・ラマ13世にも拝謁しています。しかし、彼は、翌年5月に日本人であることが露見して、ラサを退去せざるを得ませんでした。そのため十分に資料を集めることができなかった彼は、1903年5月に帰国すると、すぐに次の旅行の準備に取り掛かり、翌年第2回旅行に出発します。この旅行は、11年にも及ぶ長い旅になりました。

慧海は2度の大旅行を通じて、実に膨大な資料を我が国にもたらしました。サンスクリット語・チベット語の仏典だけでなく、仏像・仏画・仏具から日用品まで多種多様な資料を持ち帰りました。植物学者のためにヒマラヤの植物も採集しています。

こうして慧海は前後2回、通算17年にわたる旅を終えた時、数え年50歳になっていました。これで彼の志はすっかり果たされたのかというと、そうではありません。1945年(昭和20)2月24日に80歳で亡くなるまでの残りの30年間は、持ち帰ったお経の研究に加えて、彼の信じる本当のお釈迦様の教えに基づく布教と実践に情熱を注ぎました。 

4 慧海の言葉

最後に慧海の言葉でこのお話を締めくくりたいと思います。 

〇仏心とは向上心である。 

〇この地上を全部牛の皮で覆うならば、自由にどこへでも裸足で歩けるがそれは不可能である。しかし自分の足に7寸の靴を履けば世界中を皮で覆うたと同じことである。この世界を理想の天国にすることは、おそらく不可能である。しかし自分の心に菩提心を起こすならば、人類のために自己の全てを捧げることを誓うならば、そして人類と自己とは別のものではないという知恵と愛情が自覚されるならば、世界は直ちにこのままで天国になったに等しい。

要は自分の心の持ちよう、志の在り方が大切なのだということだと思います。

ご清聴ありがとうございました。
      
        

 


2022年5月 講演の舞台活花



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