第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年3月10日

「今、この身で生きる」
~人生の意味を見つめる~


 

浄土宗願生寺 住職

大川内 大博氏

講演要旨

人生には喪失経験による悲しみ事もつきものですが、私たちは悲しみ事にも意味を見出し、強く生きる力を持ち合わせています。「私らしい人生」について、生きる意味を見つめながら、共に考えてみたいと思います。


はじめに・人生の意味

今回私がいただいたテーマは「人生の意味」。私が人生の意味を、大先輩の皆様方にお教え答できるわけではありませんが、ただ先ほど紹介していただきましたように、20年間主に癌の末期の患者さんのベッドサイドでお話を聞かせてもらったことや、大切な家族を病気、事故、時には事件で亡くさざるを得なかったご遺族から、まさに心の叫び・魂の叫びというような気持ちを聞かせていただいたことを、お伝えできたらという思いで今日はまいりました。

 「人生の意味」を仏教ではどのように考えているのかといいますと、「お前が考えろ」というのですね。仏教にはいろんな問いに対して正解が書かれているように思いますが、正解は一つではありません。考え方、価値観は時と場合により変化していくもので、仏教では正解に行き着くための方法論をいくつか紹介しているに過ぎないのです。

四苦八苦

お釈迦様がお生まれになったとき「天上天下 唯我独尊 三界皆苦 我一人これを救う」とおっしゃいました。様々な苦しみ、一人ひとりの苦しみを救うことを宣言しています。「我一人」というのはお釈迦様だけが尊いという意味ではなく、私たち人間はあなたが尊いように、私も尊いというのです。私たちの人生は根本的には苦しみの中で過ごしていかざるを得ない、思い通りにならない世界で生きています。まさに「まれるということ」「いるということ」「むということ」「にゆくということ」の四苦に、「愛別離苦(あいべつりく)」―愛する人ともいずれ死別しなければならない苦しみ。「怨憎会苦(おんぞうえく)」―会いたくない人にも会わなければならない、恨み憎む者にも会わなければならない苦しみ。「求不得苦(ぐふとくく)」―求めているものが得られない苦しみ。「五蘊盛苦(ごおんじょうく)」―人間のからだや心を形成する五感。そこから生じる苦痛や苦悩。「生老病死」の四苦に、この四苦を加えて「八苦」。お釈迦様はこの八つの苦しみをお説きになりました。その中で私たちは生きていくのです。  

私はこれまで末期の癌患者さん、そしてその遺族の方々の支援をしてきたわけですが、大切な人を失わざるを得ない悲しみや苦しみ。「愛別離苦」について考えてみたいと思います。

 愛別離苦

大切な人を失わざるを得ない。そんな経験をみなさんも経ておられることと思います。「苦」というのはまさに思い通りにならないということです。実際の人生の中でみなさんはどのようなライフイベントをお持ちでしょうか。幼稚園のとき、兄弟ができたとき、社会人になったとき、伴侶とめぐり合ったとき等々、成長の過程でいろんなライフイベントがあったことでしょう。そして当然のことながら、思い通りにならなかったこともたくさんあったと思います。順風満帆の人生なんておそらくなかったでしょう。浮いたり沈んだり、人生山あり谷ありで進んでこられて、そのライフイベントの中で、大切な人やものも失くしてこられたわけです。失くしたものの中にはリカバーができるものもありますが、元通りにならないものもあります。唯一無二で他にかわるものがないもの、私にとって大切な物語が埋め込まれているもの、そのような大切なものは意外と脆く、簡単に自分の手から消えていくのです。人の命も、本当に儚く散っていきます。そして、その大切なものは普段存在していることに気づかず、あって当たり前、いつまでもそこにいて当たり前、失って初めて実は尊いものだったことに気づきます。健康、身体的な機能、社会的地位・・・など、私たちは失くして不安になったり、腹を立てたり、無気力になったり、投げやりになったりしますが、それも自然なことだと思います。人生右肩上がりの時は、大切なものを味わえなかったり見えなかったりするものです。思い通りにならなくなって、自分の人生の意味や、生きていることの価値を初めて理解します。そんな経験を繰り返しつつ成長してきたのではないかと思います。

 日本人は死ぬことを「お迎え」という言葉で表現します。「お迎え」ということは、誰かが来てどこかへ連れて行ってくれることです。どこへ連れて行ってくれるのか。仏教的に言うと仏さまが来て掬い取ってお浄土の世界へ連れて行ってくださる。例えば善光寺さん。日本人のDNAの中に入り込んでいるような昔から信仰深いところですが、なぜ人々の信仰を集めてきたのかというと、善光寺さんはその昔から、死者に再会できる場所、死んだ人に会える場所ということで信仰を集めたといわれます。決して物理的な実現をするわけではありませんが、ここは死者とともにある場所ですよという思いが、大切な人を亡くした悲しみを癒していたのです。

 千の風になって・ここちゃん

 私たちは大切な人を亡くした時、大切な人をどこに感じているのでしょう。亡くなった大切な人はどこにいるのでしょう。15年ほど前に『千の風になって』という歌が流行りました。「お墓の前で泣かないでください。そこに私はいません」。その歌詞は今でも多くの人の心に響くようです。なぜか。死を頭の中の理解ではなく、心情的にとらえようとしているのです。死んだ人が遠くへ行ったとは思いたくない。もう一度あの人の声を聞きたい、会いたい。かなわないなら、せめてそばにいてほしい。極楽浄土、天国そんな遠くではなく、もっと自分のそばにいてほしいと思うのです。そんな願いの中で、折り合いがついたのが『千の風になって』の歌詞だったように思います。

 あるお父さんの書かれた手紙です。ここちゃんという6歳でこの世を去った娘さんにあてて書いたお手紙です。ここちゃんは、3歳で再生不良性貧血という病気を発症し、幼稚園年中さんの時に白血病を発症。幼稚園には5ヶ月だけ通うことができたここちゃんは、ランドセルを背負って小学校に通うことを希望に闘病していたのですが、小学校に入ってすぐ亡くなられました。そのここちゃんに、パパが思い出を手紙に書いています。手紙の最後にこんなふうに書いています。「いつかパパがお空にいったら、またここちゃんに会えたらいいなと思います。そしたらまた一緒に遊ぼうね」。そしてある日のここちゃんのお母さんのブログです。『アナと雪の女王』という映画が大流行しました。そしてそれはここちゃんとママが行った思い出の映画になりました。ここちゃんの闘病中に外泊許可をもらって出かけ、「また映画館に来ようね」とここちゃんと約束をしました。残念ながら、その約束はかないませんでした。ママからすると、ここちゃんにかなえてあげることができませんでした。そしてその後『アナ雪2』が上映され、あるママ友に見に行こうよと誘われました。そのママ友も同じように娘さんYちゃんを、闘病の末亡くされていました。病院でのママ友に背中を押され、思い出のある『アナ雪』の続編を見に行くことになりました。結局この映画はママとママ友、そして亡くなったここちゃんとYちゃんの四人で見ることになりました。実際に行ったのは二人ですが、ママたちにとっては、決して二人ではなく四人なのです。

生きていた時のように横にいない、そばにいない、話すことができない、物理的に制限された人生の中で、死者は一時的な不在ではなくどこか私たちのそばにいたり、特別な時に一緒にいてくれたりします。そばで見てくれているという感覚を、私たちは大事にしようとします。そこに、何かしらの意味を見出し自分の人生に組み込んでいくのです。私たちに、起こったことは変えられません。しかし起きた事実の意味は変えることができるのです。「亡き人と共に生きる」ことができる私たちは、人生においても同じように失敗から学び、失敗を意味付けることをして乗り越えてきています。あの時ああいう失敗をした。その失敗があったからこそ、今自分はこういうことを大切にして生きている。失敗があったからこそ、めぐり逢えた。あの経験がなければ出会えていないのです。

父母との別れ

5年前に父を見送りました。調子が悪く、いろいろ調べてもらったのですが、最後に膵臓癌であることがわかりました。わかりその時点で予後が一か月でした。父を亡くした悲しみはありましたが、その時人生の中でのいろいろな変化に遭遇しました。大学院で博士号をとる研究もしていましたが、父の死ですべて吹っ飛び「俺の人生、何してくれるねん」といった苛立ち、腹立たしさが強く、そのような自分自身が嫌になったこともありました。時間が経過しようやく、このタイミングだったからこそライフ設計を変えられたこと、父がいなくなったからこそ、物事を考え直すことができるようになったことに気づきました。告知を受けた日はさすがに父も泣いていました。住職を50年以上やっていた父、取り乱すことなく、冷静にその事実を受け止めていました。もう少し生きたかっただろうに。そのような父の思いもくみ取れるようになり、父の死の意味も考えることができるようになりました。

 一昨年、母を見送りました。末期がんが見つかり、2カ月でこの世を去りました。母はアジサイが好きで、鉢で育てていました。そして、母の遺言の一つが、鉢植えのアジサイを地植えにしてほしいというものでした。それで母のお墓から見える位置に植えることにしました。花も、見る人が気づかないと素通りしてしまいます。町の中にこれだけアジサイがあるとは知りませんでした。見ていても、目に入らなかったのです。母の看取りの中で、母が私の人生の中のアジサイに大きな意味を与えたのです。母とアジサイがつながり、アジサイを見るとそこに母がいると感じるようになりました。亡き人が人生の中に登場し続ける、そこに人生のいろどり、奥ゆかしさをもたらしてくれます。そこに人生の意味を見つけることができるのです。

 父の死後、母の夢に父が登場し夢の中で父は孫を抱いていたそうです。父は死ぬ前、私の長男を自分のそばに決して寄せ付けませんでした。もっと孫の成長を見たかったんだろうと思います。今は夢の中で、ようやく自由に抱っこできるようになったんだなと思い、心が軽くなるのを感じました。夢で見たことを特別な意味、特別なメッセージとして受け取り、死んだ人が夢に出てくると大きな影響を与えます。私自身ご遺族のケアに関わってきて、夢というのはとても大きな力をもっていることを感じます。どんな形で夢に出てくるのか、夢の中でこんなことを言っていた、夢の中でこんな表情をしていた。きっと今は安心しているんだな、今は幸せなところにいるんだなと思えたりします。

 終わりに・悲哀を抱きて

 人生の中で大切なものを失わなければならなかった事実を、克服したりなくしたりする必要はありません。「悲しみは悲しみのまま」「苛立ちは苛立ちのまま」で意味を見出すことができます。悔しさをばねに生きる、その悲しみによりどれだけその人を大切にしてきたかを知ることができます。コロナ禍になって不自由になったからこそ、当たり前の世界をありがたいと思えるようになったのと同じです。

悲しいのは愛するが故、これは仏教が説く根本的な苦しみなのです。だからこそ私たちはその尊さを知り、はかなさを知るのです。命があること、今自分の周りに大切なものがあることのありがたさに気づき、その意味を実感するのです。

『法華経』の中に、「常に悲感を抱きて心ついに醒悟す」という言葉があります。悲しみにより大切にしていたものを知るのです。悲しみを心に抱きつつ、悲しみの中に大事さ、尊さを見つけることができます。一人ひとりの人生の中で悲しみを丁寧に見つめていくことが大切になってきます。つまり、自分自身が主人公、主役になって生きていくのです。自分の命の灯を自分の人生の土台の中に灯していくということです。大事なことは、自分を見つめていくその眼差しなのです。

 


2022年3月 講演の舞台活花



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