第8回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2022年1月20日

知られざる豪商・廣岡家

~大阪と共に歩んだ400年~


 

神戸大学 経済経営研究所 准教授
高槻 泰郎氏

講演要旨

近年新資料の発掘が相次ぎ、NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」でもモデルとして取り上げられた江戸時代 大阪の豪商・廣岡家(屋号は加島屋久右衛門)を素材として、大坂市場発展の歴史を解説します。

講演要旨

 長者番付と江戸時代の加島屋の格

 今日は大阪の豪商 廣岡家を素材に、江戸時代を中心に大阪の市場が歩んだ歴史をお話しします。  文久3年(1863年)に江戸で刷られた「大日本持丸長者鑑」という長者番付に、日本全国のお金持ちがリストアップされています。最高位は大関で、東の大関が鴻池善右衛門、そして西の大関が今日の主人公、加島屋久右衛門となっています。鴻池、三井や住友といった名前は有名なので皆さんもよくご存じでしょうが、加島屋はそれほど有名ではありません。NHKの朝ドラ「あさが来た」で取り上げられ、少しは知名度があがりましたが、ネットで「加島屋」と検索すると先ず新潟の鮭フレーク屋さんが出てきます。私としては悔しいのですが、今はこちらのほうが有名です。この番付では多少は地方の商人、例えば名古屋の伊藤次郎左衛門(今の松坂屋)や京都の下村(今の大丸)等も入っていますが、上位のほとんどは大坂商人であり、江戸時代の人にとって大金持ちが集まっているのは大坂だということがよくわかります。また天保飢饉の最中であった天保8年に大坂の商家が寄付をしているランキングがあります。ここでも筆頭の金額を納めているのは加島屋と鴻池です。住友は1715貫納めています。中途半端な金額なのであと85貫出して1800貫にすればいいのに、なぜ減額したのでしょうか。これは、加島屋と鴻池が1800貫を出しているので、住友としては少し減らして出したということです。当時は家の格に基づいてこういった忖度というか空気を読むといったことが行われていたのです。家の歴史や社会的な地位、どんな大名と付き合っているか、いろんなところから出てくるブランド力が格として成立していて、番付も格を意味しているのです。

当時商人達は、勘定帳や勘定目録といった帳簿をつけていて、利益がいくら、資産がいくらと書かれていますが、それらは非公開の情報です。寄付等は商家の利益で決まるのではなく、格によって決まります。加島屋と鴻池が1800貫出すと決めた後で他の商家が決めていくという構図なのです。幕府が寄付を募る時やお金を借りる時には、まず加島屋と鴻池にこっそりと相談し、内々の承諾を取ってから他の商家にアナウンスするのです。加島屋と鴻池は、江戸時代の政策にも組み込まれるような格の高い家だったのです。

廣岡家は元々尼崎の農民で、次男坊が大阪に奉公に出て独立して建てた家が加島屋久右衛門で玉水町に大きな家があり、これが本家でそこから南に23分歩いた江戸堀1丁目に五兵衛家と呼ばれた分家がありました。久右衛門家は10代続き、5代目の時に分家ができ、そこに三井家より嫁いだのが朝ドラの浅さんです。

 加島屋の立地、商売と儲け

1800年代初頭で加島屋はどの程度の資産を持っていたのでしょうか。江戸時代は今のように会社法もないので、どの商家も独自の基準で好き勝手に帳簿を作っていたのですが、1位は三井、2位は鴻池、3位が加島屋、以下長谷川、下村と続きますが、金融をやっていた加島屋の利益はそれ以下の商家と比べると桁が違っていました。京都の下村は加島屋の4分の1以下でしかありません。

さてデビッド ラムゼイという人が世界中の古地図を集めてそれをグーグルマップに当てはめることをしています。ずれはありますが貼り付けて拡大したりして遊べます。今日の話の舞台は東西に流れる大川(淀川)、中洲で2つに分かれて、北が堂島川、南が土佐堀川です。中洲が中之島で堂島の米市場がありました。古地図を張り付けると、今は全日空ホテルがある辺り、岡山とか福岡とか鳥取とか書かれており、中之島は大名の蔵屋敷が並んでいたことがわかります。ここに諸大名は国許より米を運び入れ、堂島米市場で売るという構図でした。加島屋久右衛門の玉水町の屋敷は、今は大同生命大阪本社が建っていますが、米市場迄5分、中之島は目と鼻の先で、大名の資金繰りを担う商売で1丁目1番地にありました。写真では大きな屋敷は2段構えで手前が店舗、奥が久右衛門家の家族が暮らす母屋となっていて店舗の2階で従業員が暮らしていたと思われます。

当時の商家では123歳で奉公にあがり40歳くらいまで勤めて、最後まで勤めた人に「のれん分け」という独立開業資金を退職金のように支給することが一般的で、従業員は「のれん分け」を願って結婚もせず無休で働いていたのです。私は朝ドラ「あさが来た」で時代考証を担当し得るものが多くありましたが、これについてはあとから話します。現在、加島屋久右衛門の屋敷(模型)を復元中で、7月に完成し大阪の大同生命本社に展示予定ですので、ぜひ見に来てください。

加島屋久右衛門はどれほどのお金持ちだったのか強引に数字を出してみます。金1両は6万円として現在価値に置きなおすと、利子収入は約15億円になります。江戸幕府が加島屋の100倍くらいなので、国家財政の100分の1をたった1軒で占めているのはすごいことです。熊本藩(54万石)の収入が約13倍ですが、加島屋の従業員はおそらく40名もいない中で何千人もいる熊本藩の13分の1、津和野藩(実石7.5万石)の収入とほぼ一緒で、その効率性、労働生産性の高さに驚きます。しかも当時は所得税も住民税もなく、玉水町に払うべきお金はあったにせよお小遣いにもならない金額だったでしょう。無税だったので幕府も何とかして政策資金を徴収しようとしたわけです。

 加島屋の資料発掘について 

加島屋が有名でないのは、加島という名が残っていないことと資料があまりなく研究されていなかったからですが、この10年で変わってきました。加島屋の子孫の人が興した大同生命の地下倉庫に2500点ほどの古文書が眠っていて、2012年の大同生命110周年で研究に使ってもらおうということになり、それらが大阪大学に寄託されたのです。その古文書は再整理されて公開されており、大同生命大阪本社2階の展示室で成果が発表されています。展示の説明図等私が書いた研究資料もありますので、皆さんも行かれたらぜひ読んでください。展示室で人気があるのは、慶応312月、鳥羽伏見の戦いの1か月前に、土方歳三が差出人として400両を借りた証文で、奥書として近藤勇の名もあります。400両は今でいうと4千万円ですが、加島屋としては寄付金のようなもので、私の恩師の宮本又郎先生は返済を期待しない「捨て金」と言っています。この展示がNHKの方の目にとまり朝ドラの誕生につながったと聞いています。

朝ドラが出来上がりますと、奈良の吉野の林業家で岡橋さんという廣岡家の子孫の方から「うちに廣岡家の資料があります。がらくたばかりだけど」との連絡が入り、私は恩師の宮本先生と岡橋家を訪れました。1944年第2次世界大戦の終盤、大阪も空襲を受けるようになり、慌てて廣岡家の方が奈良に文書等を疎開させたのです。廣岡家の文書がないといわれていたのは大阪になかったからで、奈良に疎開されて忘れ去られていたのです。大同生命の地下室の文書は2500点で江戸時代のものが400点でしたが、こちらはほとんど江戸時代のもので今は約2万点近くまで増えてきています。岡橋さんに、折角ですからと林業の現場である林を見せてもらった後、門を入ると玄関まで50メートル程もある立派なお宅でした。蔵は複数あって、そのうちの一つに長持ちやタンスが雑然と置かれていました。引き出しを開けると全て古文書、茶碗と書かれたタンスも開けると中は古文書で私は涙が出るほどうれしく思いました。岡橋さんにとってはがらくたでも、私には無上の価値を持った文書でした。これらの文書は神戸大学に移管させていただきましたが、ご子孫の方いわく東京に運ぶには抵抗があったようで、大阪地域の研究はやっぱりこちらでやったほうがいいのだと実感しました。

これらの古文書はクリーニングして1件毎に画像にとり、今年の夏に公開することにしています。古文書は「神戸大学に見に来てね」でもいいのですが、コロナの状況も考えると画像にしてインターネットで誰でも見られるようにしたほうがいいと思います。廣岡浅子さんの直筆の書状も出てきました。女性の簪(かんざし)が包まれていた紙がそれで、浅子さんが本家の奥様にあてた年賀状でした。ドラマでは“おてんば姫で文字も汚い”とされていましたが、とても格調の高い綺麗な文章でした。またお正月に風邪を引き、会いに行けないので寒紅を送るといった書状もありました。鍵がかかって開かない箱もあったので鍵職人を呼んだりもしました。長持ちに「五人囃子」と書かれたものがあり、中には立派なお雛様が収納されていましたが、私は古文書しか興味がないのでそのまま閉じました。NHKの朝ドラの打ち上げがあって、“大阪くらしの今昔館”の谷直樹先生に「人形があったんですが」と言うと、「なんで今言うのや、豪商の持ち物で文化的な活動がわかるのに」とひどく叱られました。今は今昔館に納められていますが、ドラマの放送期間中に展示できていたら、ものすごい集客力があったはずです。今年の夏には、廣岡家の特別展で展示される予定なのでぜひ見に行ってください。雛人形の道具も超一流のもので、見る人に尊敬の念を抱かせるような豪商の財力と期待される役割を感じ取れます。

 加島屋の商売指針

初代の久右衛門が奥方と二代目久右衛門に宛てた遺言状が残っています。「我ら一代」という言葉が十回以上も出てくるのが特徴的です。当時「我ら」は、「私達」という意味ではなく「私」という意味で、「俺が儲けたお金なのでどう使おうと俺の勝手、二代目に渡してしくじったら俺の人生が無駄になる。だから少し残して後は西本願寺にすべて寄進する」と書かれています。加島屋は四代目の久右衛門の時、一番発展し日本を代表する豪商になりましたが、経営的に苦しい中で西本願寺に寄進したおかげで仏の加護があり商売が繁盛したと考えていたようです。四代目の遺言状では「堂島での商い(浜商い)はするな」と書かれており、家訓で家を継承していくことが大事との発想があります。初代は個人商店的な遺言内容ですが、4代目は大企業の社長の訓示みたいです。浜商いは投機的なもので危険でしたが、大名貸しも踏み倒される危険がありました。三井の当主が子孫に向けて書いた考見録には、「とにかく大名には金を貸すな、特に細川は駄目だ」、「鴻池は上手くやっている」と書かれています。鴻池は貸し先を絞って、つまり大名を審査してから、返してくれそうな大名にだけ貸す、そして不良債権は帳簿から落とすということをやっていて、あとから他の商家も真似をするようになりました。

加島屋のやり方は、大名の懐に飛び込み情報を開示させ、それを踏まえた上で低利でお金を貸すということで、相手は萩藩、中津藩、津和野藩とかでした。津和野藩(島根県津和野市)はお米がとれないので、“紙”と“ろうそく”を特産品として育成しました。加島屋は、この特産品を販売し、その売上代金をすべて預かっており、その売上金から自分の貸金を取り立て、津和野藩の必要経費を支払っており、藩との契約では「万端お任せ申し候」とされていました。このように大名の“金と物”を握っていたので、貸金の踏み倒し等はあるはずがなかったのです。また津和野藩には収入と支出の計画を出させたり、事前に“紙”と“ろうそく”のサンプルを送らせて品評会をやり、品質の良し悪しをチェックする等、その徹底的なモニタリングに大阪商人のすごさを感じます。

浅子さんは保険業を立ち上げますが、女性教育にも力を注ぎ、日本女子大学創設者の成瀬仁蔵氏からの感謝状も見つかっています。この書状では財務委員として渋沢栄一氏の名前もあります。加島屋10代の長女、信子さんは前田家へ嫁ぎ、華族の一員になります。華美な持参品が当時グラビアでも紹介されていますが、財力はあってもやっぱり華族という身分が欲しかったという一面を忍ばせます。

本日は廣岡という家が成長していく過程とどのようにして儲けたのかのメカニズムをわかっていただけたのではないかと思います。ご清聴ありがとうございました。

 


2022年1月 講演の舞台活花



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