第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2021年11月18日

上方落語と大阪弁


 

大阪大学大学院 文学研究科教授
金水 敏氏

講演要旨

上方落語は、大阪弁を用いる芸能の一つであり、大阪弁の特徴がその芸の本質に深く結びついている。本講義では、上方落語の歴史と現状を確認しつつ、上方落語を通じて大阪弁の特徴を明らかにしていく。

講演要旨

大阪(関西)人気質と上方文化について

本日は私達が暮らしの中で使っている大阪弁あるいは関西弁に着目しながら、上方落語という芸能との関係についてみていきます。大阪という町の発展は芸能の発展と切り離せない関係にあると感じます。芸能といっても色々あり、落語や漫才というものが特に発達しました。それ以外にも吉本新喜劇あるいはそれに先立つ松竹新喜劇、その前身の曾我廼家家庭劇といった演芸・演劇は、大阪で安い料金で働く人々が気楽に楽しめるエンターテイメントでした。大阪の町そのものが、江戸時代以降商売人の町であったということ、また商人は黙っていてはダメで、多いにコミュニケーションをして人との繋がりの中でビジネスチャンスを拡げ、それを商売の極意と考える大阪の文化が芸能の発展を支えました。こうして大阪の町では、芸能の花が開き、芸能の中で言葉が磨かれ、町の人達の言葉が芸能に影響を与え、お互いに話芸を磨いてきたと考えます。

大阪の町は人と人との距離が大変近く、そして人々は話が大変上手であると言われます。テレビのバラエティー番組で、駒川、天神橋、千林といった有名な商店町でロケをすると、必ずおばちゃんが向こうから寄ってきて話しかけてくる光景をよく見ます。芸人顔負けのコメントが凄く上手で、見ている側を多いに笑わせてくれます。芸の神髄みたいなものが、大阪の町の隅々に行き渡っているという気がします。こうした文化が今でもあって、テレビのケンミンshowを見ると、大阪の人達がいかに面白いかについて時々特集しています。大阪の子供は小学生でも小さい子供でもノリ・ツッコミが出来るといった特集を見ました。その内容は、大阪で子供つかまえて、「ねぇねぇちょっと僕、学校で縦笛習っている?」と聞いて“ちくわ”を渡します。東京でやると、「あのね、これ“ちくわ”だよ」と言ってそれで終わります。けれども大阪では何食わぬ顔でちくわを受け取ります。そして「これ吹かれへん、おかしいな、これ“ちくわ”やん」となり、ここまでがワンセットです。これがノリ・ツッコミで、小学生がやっているのを見て、子供がこんなこと出来るのは信じられないとスタジオ中が驚きました。ピストルでバーンと打ったら死んでくれるし、刀で切りつけたら倒れてくれるのが大阪の子供です。

本来、年齢や性別、その人物の特徴によって話し方は決まってきます。例えば「その秘密を知っているんじゃ」、「その秘密を知っておりますわ」、「その秘密を俺は知っているぜ」とか。英語には人物や年齢によるさまざまな表現はなく、「Oh yes I know the secret」となります。私は人物像と言葉遣いの関係と言うものの緊密な結びつきを役割語と呼んでいます。「俺」と言うと、なんか老人ぽいとか、「お願げえでございます」と言ったら、田舎の人みたいです。大阪弁、関西弁は確かに方言ですが、「ほんまでっか」とか、「そうでんがな」とか、「ちゃいまんねん」という言葉遣いを聞くと大阪の人だなと思います。しかし皆さんの周りに、「そうでんがな」とか「ちゃいまんがな」とか言う人がいますか。時々いらっしゃいますがもうかなりお年の人です。私も30年以上大学で仕事していますが、「来週試験するよ」と言うと、「先生そら殺生でっせ」と言う学生は一人もいません。でも大阪を一歩出ると、大阪弁は「でんがな」とか「まんがな」とか言うと思っている人が凄く多いです。こうした言い方を私はコテコテ大阪弁と言っていますが、このコテコテ大阪弁は大阪でも使う人はほとんどいなくなり、ほぼ死滅したと思います。なぜコテコテの大阪弁が今でも大阪弁、関西弁の代表と信じられているのか。こういった大阪弁が日本中に広まったその背景には、やはり芸人さんの口を通じてのテレビの力、ラジオの力があります。大阪弁を広めたその力としては落語家さんが多いに関わっていると思います。

日本演芸史と上方落語

  さて上方落語というものは大阪弁の落語です。大阪弁そのものがどういう歴史を持っているかについて、大阪の文化あるいは上方落語の歴史を少し見ておきましょう。実は大阪は元々海だったため、豊臣秀吉はこの湿地帯を南北基盤の目のように道と下水道、堀割りをして町として整備し、商人を住まわせて商業地域とし、この時点で大阪の町が形成されたといえます。 冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅ぼされますが、関ヶ原の合戦で勝っていたらどう考えても大阪が日本の都で、関西弁、大阪弁が日本の標準語になっていたことは間違いないと思います。豊臣の大阪城はすっかり取り壊されましたが、その後徳川幕府の手によって新たな大阪城が築かれました。徳川幕府は大阪を大変重要と考え、大名を置かず天領として直轄地としました。この桜川のほとり、中之島や堂島の辺りに各藩の米倉庫が建てられました。日本全国からこの大阪に米が集められ、取引され、世界に先駆けての先物取引も行われました。

この頃の大阪は経済が発達し、元禄バブルとも言われます。芸能・文芸が盛んになり、『好色一代男』といった短編小説が生まれ、道頓堀に竹本座がひらかれ竹本義太夫という浄瑠璃の名人やその作者の近松門左衛門が出て心中物とか時代物が多く演出されました。文楽、人形浄瑠璃は大阪で生まれたものなので、使われている言葉はいわゆる大阪弁です。関西弁が日本全国でちゃんと通じたわけで、今の標準語・共通語それに近い力を持っていたと考えて差し支えありません。

一方で江戸の町は何もない土地柄で、方言を喋っているのはお百姓さん達なので、文化面では何ら貢献がありませんでした。徳川家は直轄の武士団を連れてきて、また各藩に対し人質目的の江戸屋敷を作らせました。江戸の町は武家屋敷で占められその端っこに商人が住んでいる状態でした。呉服店は京都が本店で江戸は支店、番頭さんは京都出身で単身赴任、店の中では京都弁が使われていたので、関西弁が標準語でした。

 上方落語の盛衰

18世紀から19世紀にかけて江戸の町が栄えてきて、経済が大いに発展、「何で関西弁ばかり使わなければいけないのか、江戸には江戸の言葉があるだろう」ということで、『東海道中膝栗毛』とか『浮世風呂』とか、町人が楽しむ「戯作」と呼ばれる小説に江戸語が反映されるようになりました。幕末頃には学問の中心も江戸に移ってきました。明治時代に入り、江戸の町の言葉、特に山の手に住んでいた武士の人達の言葉遣いに近いものを基に標準語というものを作ろうということで、今日の東京の言葉が出来ました。

関東大震災があり関東一円が大変な被害に遭って、関東の文化人が関西に引っ越して来ました。また市域拡張ということで、沢山の人々が大阪に流入してきました。この時代を「大大阪時代」といいます。繊維産業を中心にいろんな産業が興って大阪の町は大変賑わいましたが、お金を使っての楽しみの1つは、グルメでした。大阪には日本全国から小麦が集まり粉モン文化、そして昆布とかだしの素も入ってきて出汁の文化、いち早く西洋のソースが入ってきて地ソースの文化、こうしたB級グルメの元はこの頃に発達しました。今でも大阪に美味しい安い割烹や日本食を出すお店が一杯あります。大阪の食い倒れという大衆文化が大いに花開きました。

大阪文化が日本国中に影響を与えた最初のピークが元禄時代、そして2番目のピークが「大大阪時代」で、60年とか80年毎に、こうしたピークがやってきます。大阪大空襲があって多いに被害を受けますが、その後昭和20年、30年代にラジオとか新しいメディアを通じて松竹新喜劇や夫婦善哉、花菱アチャコさんや落語家の桂春団治さんとか出てきました。初代春団治そして2代目春団治といった人達が使ったコテコテの大阪弁はこの「大大阪時代」の言葉と考えたらいいと思います。

落語の歴史について、元祖は安楽庵策伝だと言われており、その後江戸を中心に鹿野武左衛門、関西で露の五郎兵衛や米沢彦八が登場します。江戸落語は、お座敷芸に近く、関西の米沢彦八は生玉神社の辻話を外で話すといった芸風の違いも出てきます。天保頃に上方落語は大いに栄えますが、明治から昭和にかけて、昭和の爆笑王と言われた春団治一門の2代目春団治等、落語界の大御所たちも亡くなり、上方落語は滅亡の危機を迎えます。しかしその後上方落語協会が発足し、四天王と言われる六代目松鶴、米朝、三代目春団治、五代目文枝等の活躍で復興し、落語家からテレビの人気者が登場、深夜放送ブームや桂米朝さんの独演会といった努力もあって、今日の上方落語が育まれました。ここ さやかホールでも、桂の一門会とか上方落語を上演されますし、東京の落語家さんの若手で一番人気のある一之輔さんの落語など、関西、関東それぞれの落語を実際に聴き比べると芸風の違いがわかります。 落語の修業というのは基本的に師匠からの口伝えです。師匠の口ぶりをまねるところから始めますが、演じる際には、師匠に忠実に演じる場合と、かなり変えながら演じる場合があります。今風のゲームをどんどん入れたり、古風な言い方を今風の言い方に代えたりします。

今私達は「ごわす」と聞くと、お相撲さん、鹿児島方言・薩摩弁だと思いますが、実は大阪弁なのです。「ごわす」は「おます」になりましたが、「じゃ」とか「やす」と同様に今日ではほとんど使われていません。同じように「~でんがな/~まんがな」、「~だっせ/まっせ」、「わて~」、「わい~」「~はん」も現在の日常会話ではあまり使われなくなっています。これらの言葉は大正から昭和初期の大大阪時代に完成し、現在の大阪落語の言葉使いに色濃く残っています。笑福亭鶴光、月亭可朝、笑福亭鶴瓶といった落語界から出てきた人気者が、コテコテ大阪弁を意識的に使ってきたことも、全国的にコテコテ大阪弁が知られるようになった一因かと思います。

時うどんと時そば

  次はオノマトペについてですが、オノマトペというのは「そこに捨てといて」と言ったらいいのに、「そこにポンと捨てといて」という表現のことです。「ポンと」は別にいらないでしょ。でも関西人はこのように言うのが好きなの

です。江戸落語の「時そば」は客の男が調子よく喋って、お勘定する時に「今何時だ」といってお金をごまかし、それを横で見ていたい男が真似をして失敗する話です。関西でも同じように「時うどん」があります。「時うどん」の方は男2人が花街を冷やかした後、うどんを食べようということでお金を出し合って食べて、ちょっと頭のいい男の方が代金をごまかす。その後もう一方の男が同じように得しようと一人で行って同じように2人でうどんを争う真似をして結局損をしてしまう。関西大阪では、しょうもないことを、うだうだ喋ってその中で人間関係を作っていく傾向があります。会話の面白さが凄く大事なのです。

 おわりに

上方落語の言葉は、昔ながらの古い大阪弁で、戦前から戦後にかけて春団治とか四天王と呼ばれ活躍した名人の言葉使いが、今日強く影響を残しています。「時そば」と「時うどん」は、実は「時うどん」の方が先に生まれてそれが東京に輸出されて「時そば」になったのですが、こういう同じネタを東西で話すというのは幾つかあります。この「時そば」、「時うどん」を聴くと、特に関東と関西の落語の違いがよく分かります。皆さんも上方落語を通して、上方言葉・大阪弁について考えていただけたらと思います。



2021年11月 講演の舞台活花



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