第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2021年7月15日

ここまでわかった明智光秀

 

城郭談話会
福島 克彦氏

講演要旨

2020年NHK大河ドラマの主人公は明智光秀でした。光秀は主君織田信長を倒した「本能寺の変」で広く名を知られています。「本能寺の変」に至る経緯、光秀の心の動きを史料を基にお話します。


はじめに

大坂と光秀ということで今日は話をしていきます。
登場人物ですが、まずは織田信長で、光秀にとっては主人となります。織田信長と嫡男の信忠の二人がたまたま京都にいたことで、「本能寺の変」が起こります。羽柴秀吉は、光秀と同じく信長の部下で、山崎で光秀と戦った人物です。
 光秀が本能寺を目ざした道が現在も残っています。亀岡城から向かうのですが、亀岡盆地から山を越えて京都盆地に入り、最後に本能寺のある京都に向かいます。秀吉を助けるために高槻方面に向かうか、決断をした場所が沓掛です。本能寺か、中国方面か最終判断を求められたのが、この地だろうと思われます。
 光秀は信長を倒した後、京都を支配しますが、京都を守るために、河内の国から京都に入る東高野街道を封鎖します。現在の摂南大学の駐車場あたりに光秀軍は陣取ります。その光秀の防衛線を回避して逃げたのが徳川家康と穴山梅雪です。家康は助かりますが穴山梅雪は殺されてしまいます。
 山崎の文献資料によると、本能寺の変が6月2日、その翌日6月3日には山崎の人たちは光秀から禁制をもらっており、いかに光秀との関係が強かったかを表しています。さらに秀吉軍の方が優勢だと分かるや、6月7日に大坂にいた秀吉軍の旗頭織田信孝からも禁制をもらっています。どっちに転んでも山崎の町を守ろうとしていたことが分かります。本能寺の変から6月13日の山崎の合戦までわずか10日余で、両軍から禁制をもらって町を守ろうとしていたのです。
 戦争に負けた光秀は竹やりで殺されたということになっていますが、最近の資料では農民たちが持っていたのは普通の槍だったということが分かっています。斎藤利三は、湖西路を息子と逃れていましたが、息子は殺され、本人は生け捕りにされ京都市中を引き回しされた後殺されます。

光秀とはどんな人物だったのか

・織田信長の戦争

戦国時代はもらっている知行高によって兵隊の数とか鉄砲の数とかが決められていましたが、信長は所領高に対応した軍役量を規定せずに戦果を求めるところに特徴がありました。基本的には命じられた本人が、戦略を練り、調略・攻撃を駆使して自己の責任でなるべく短期間で敵を平定することが求められました。各武将の裁量で兵力を組織させ、連続する多方面攻撃に思いのまま動員するというのが信長の戦争の特徴です。つまり家臣に大きな権限が与えられ、兵隊を集めたり鉄砲を集めたり、すべてが家臣たちの責任でした。信長の戦争はいかに重臣たちのサポートが強かったかが分かります。

・明智光秀の存在

 フロイス執筆『日本史』の明智光秀評には、「その才略、深慮、狡猾さにより、信長の寵愛を受けていた」「裏切りや密会を好み、計略と策謀の達人であった」「築城のことに造詣が深く、優れた建築手腕の持ち主で、選り抜かれた戦いの熟練の士を使いこなしていた」「信長に贈与することを怠らず」「装う必要がある場合などは、涙を流した」とあります。本能寺後のことで、悪いイメージも入っているのは確かですが、武将としては優れていたことを示していると思われます。
 光秀は当初、織田信長と足利義昭と両方に従っていましたが、やがて義昭を見限って信長だけを主人にしていきました。そのころから信長は畠山氏、三好氏がいた河内を攻めており、例えば羽曳野市にあった高屋城などでは、よく戦があったようです。このころに誉田八幡宮に光秀らの禁制が出されています。ここに出てくる武将たちは、丹羽長秀、羽柴秀吉、細川藤孝など、信長の家臣団の中でも優秀な人たちで、その中に光秀の名前もありました。そして光秀はさらに大坂本願寺との戦いを繰り広げていきます。

 光秀の所領となるのは、滋賀県の近江と京都と兵庫にまたがる丹波になりますが、その頃の丹波は、戦いが続いていました。光秀につくものとまだ抵抗しようというものの両者がいましたが、信長が最も欲しかったところは大坂でした。大阪湾があり、上町台地があり、京都、堺にも近く、淀川が流れ、また当時は大坂の北を大和川が流れていました。大阪湾からは瀬戸内海の航路がつながり、さらには唐、南蛮にまでつながっています。大阪平野が広がり、生産力も高い。上町台地は地盤が固く安定していて、水害もない。大坂は大変良い立地条件が備わっており、信長はどうしても手に入れたかったようです。
 しかし、そこに大坂本願寺があり、信長は自分の部下に大坂を攻めさせます。その陣地となったところが天王寺、野田、森河内で、光秀が担当していた森河内は、大坂本願寺を目の前にして、監視するには絶好の場所でした。淀川と寝屋川が合流し水運をおさえるにも適していました。光秀はそこで本願寺を監視するのですが、その頃の様子を示す資料が残っています。そこには光秀の配下となった丹波の国衆が、亀山城の普請と森河内の番替を担当していること、丹波の攻略と大坂本願寺攻めが並行して進んでいること、つまり光秀が大坂本願寺を攻めるのに丹波の国衆を使っていたことがわかります。その後天正8年に、信長は大坂本願寺を紀州の方に追いやることに成功しました。 
 この後信長は戦線をいろんなところに拡大していきます。秀吉は中国攻めに、柴田勝家は上杉攻めに、滝川一益は関東地方に、織田信孝、丹羽長秀を大坂、堺に入れ四国攻めにと、戦争を繰り広げます。光秀は近畿地方を任されていましたが、近畿地方の戦争は大体終わったので、秀吉の応援に行けとの命令が出されます。そのために光秀は兵隊を集め、西方へ向かうはずだったのですが、その時に「本能寺の変」が起こったのです。

本能寺の変

 史料から光秀の行軍と従軍兵士の認識がわかります。なぜか光秀軍は西へ行かずに京都の方へ向かいました。このような奇妙な行動をとったわけですが、当然種々の憶測を生みました。兵士たちはこうした動きがいったい何のためであるか訝り始め、「おそらく主君は信長の命に基づいて、義弟である三河の国主(徳川家康)を殺すつもりであろう」と考えたとも「本能寺という名前も知らなかった」ともあります。兵士たちはおかしいなと思いながら戦っていたことがわかります。
 信長の三男だった信孝と丹羽長秀が四国の長宗我部を攻めようとしていました。この長宗我部と親しかったのが光秀の家臣斎藤利三でした。そこで、光秀と利三が信長と長宗我部との間をとりもっていました。最初二人は親しい間柄だったのですが、やがて二人の間がぎくしゃくし、長宗我部も敵だとなりました。二人の間に入っていた光秀も利三もその立場を失ってしまいました。最近見つかった文書では、本能寺の変が起こる直前まで、何とか二人の間を取り持とうとしていたことが分かってきました。四国攻め直前の状況で「本能寺の変」が起きたわけです。最近の研究では「本能寺の変」を起こしたのは、このあたりの事情が関係しているだろうと言われています。
 信長の動きを止めるために、たまたま自分は亀山におり、しかも信長と信忠がそろって京都にいる。これはチャンスだとなったのだろうと思います。

山崎の合戦後

この事件はいろんな影響を与えました。家康は堺見物に行っていましたが、何とか逃れました。大坂には光秀の娘婿で信長の甥の津田信澄がいましたが光秀との謀議を疑われ、自害します。
 そして信孝と丹羽長秀は、信長を殺した光秀と闘うために京都方面をめざし、摂津富田あたりで秀吉軍と合流、山崎へと向かいます。

 光秀は山崎の合戦で負けてしまいますが、滋賀県の方にはまだ兵士がたくさん残っており、坂本城に立てこもります。坂本城には明智の婦女子や家族、親族もいましたが、秀吉の軍勢が接近し、高山右近が最初に入城したのを見ると、家臣たちは多量の黄金を窓から海(湖)に投げ始めました。太閤記にも、金品とか名品とかを湖に落としたという記述があります。城と一緒に燃やしてしまうと後世に遺物が残らないということでそうしたようです。その後家臣たちは、天守閣にこもる婦女子を殺害し、天守閣に放火、自害しました。
 明智光秀の反乱は終わってしまいますが、「本能寺の変」後8日ないし10日の間に近畿地方の辺りから滋賀県、岐阜県にかけて、光秀が勢力を伸ばしていた場所では多くの混乱が起こっています。逆に言えば本能寺の変の後、10日ぐらいの間に、光秀は押さえなければならないところは、きちんと押さえていて、これは特筆すべきことだと思います。柴田勝家が、近江に行こうとした折にも守りが厳しくて入れなかったと言っています。それぐらいしっかりと光秀は要所を押さえていたのです。光秀には誰も味方してくれなかったと言われていますが、押さえるところはちゃんと押さえていて、近江の武将たちは光秀に味方しており、河内の国でも三箇氏が味方していたことが分かっています。

おわりに

信長による近畿地方の戦いというものには、必ず明智光秀が関わっていました。光秀は当然信長の命令で戦っているのですが、地元の史料を見ると必ず地域の住民たちと向かい合い関係を結んでいたことが分かります。光秀の史料で信長の具体的な動きが逆にわかることもありますので、それらの資料を学んでいくことは大事なことです。ぜひ光秀、信長の関わりについて関心を持っていただけたらと思います。


             《講師未見承》



2021年7月 講演の舞台活花



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