第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
2019年(平成31年)3月14日

楠木一族の実像と南北朝内乱




大阪市史料調査会調査員
生駒 孝臣 氏

  

講演要旨
     近年、楠木正成ら楠木一族の実像に迫るいくつかの新設が提起されています。
 本講座ではそれらの説紹介しながら、南北朝動乱の時代を駆け抜けた楠木正成、正行、正儀父子の生涯をたどります。

 
   

自己紹介にかえて
楠木正成の研究を始めて2〜3年になる。中世武士の研究は関東武士が中心であるが、私は畿内、とりわけ大阪の鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士に興味を持ち研究を始めてきた。その関係で楠木正成の史料にも触れ、2年前に楠木正成を描いた本を出版した。今日はそれを基に話したい。
はじめに
 楠木正成は1331年9月に河内国赤坂で挙兵、鎌倉幕府滅亡後、建武政権の一員として活躍し、1336年5月摂津国湊川で足利尊氏・直義兄弟と戦い敗死した。古文書等の確かな史料からわかる彼の歴史の表舞台で活躍はわずか5年間にすぎない。
 正成のイメージは死後膨らんでいった。後醍醐天皇を裏切ることなく忠誠を尽くした忠臣と言うイメージが強いが、これは戦前来の評価である。
 戦後は一変して「悪党」という評価がなされた。「悪党」と言っても、現代のアウトロー集団ではなく、荘園領主などの上級権力に反抗した存在であり、一種のレッテルのようなものでもあった。つまり、実際に悪事を行うものではなくても、反抗された側が「悪党」と呼んだ存在を指す語でもあったのであり、正成も常日頃から悪事を成すような存在だっというわけではない。また、鎌倉幕府の御家人、商人的武士としても捉えられており、歴史の表舞台での活躍が、わずか5年であったという点から、その実像には謎が多いのである。
 息子の正行、正儀も同様に伝承に彩られた部分が多く実像がつかめていない。数少ない確かな史料に基いて冷静にその実像を構築していくことが必要と考える。
1.楠木氏の出自と正成の実像
 千早赤坂村にある、楠木正成の生誕地の発掘調査の結果、館跡が発掘されたので正成たちがこの地にいたことは確かである。
 楠木正成は『太平記』に、敏達天皇、橘諸兄を祖とする河内国一帯に繁茂した橘氏の後裔とあるが、数種ある系図の正成の父の名前がまちまちであり、橘氏説の根拠は不明である。また、観阿弥の母を正成の姉妹とする系図もあるが慎重に扱うべきとの意見が優勢である。
 中世の武士は自分のいた土地の名前を苗字にする慣習があったが、河内一帯に「楠木」「楠」と言う地名は見当たらない。ここから楠木正成は本当に河内出身だったのか?と疑問が浮かび上がってくる。しかし、史料により1295年頃〜1331年頃に楠木一族の人物が正成に至るまで河内国にいたのは確実である。
 ある古文書には、1331年に「悪党楠木兵衛尉」が和泉国若松荘に乱入し占拠したとある。この「悪党楠木兵衛尉」が正成本人かつ確実な史料での正成の初見であり、正成=「悪党」論の根拠になったものでもある。
 「高野春秋編年輯録」には、正成が鎌倉幕府最高権力者得宗北条高時の命令により、紀伊国保田荘司を討伐し、その旧領をもらったという記述がある。このことから正成は得宗家に仕える得宗被官だったと考えられる。しかし「高野春秋編年輯録」は江戸時代の記録であり、同時代に書かれた古文書等の一次史料ではないので、慎重に扱う必要がある。
 しかし、正成が得宗被官であったと言う前提で、その他の史料を調べてみると、1293年に鎌倉幕府が「駿河国入江荘内長崎郷三分一・同荘楠木村」を鶴岡八幡宮に寄進したという古文書があり、「長崎郷」が得宗被官の長たる内管領の長崎氏の名字の地と考えられることから、「楠木村」も同じく得宗被官の武士楠木氏の名字の地であった可能性がある。
 楠木氏が正成の祖父、父の代から代々得宗家に仕えた武士であったならば、「高野春秋編年輯録」にある得宗家の命により保田荘司を討伐に行ったという話もおかしくはない。
 こうした点については、正成と同時代人も同じ認識を示していた形跡がある。
 1333年閏2月、千早城に籠城していた正成を攻め落とせない鎌倉幕府軍を揶揄した歌が京都で読まれた。「楠の木の根は鎌倉になるものを 枝をきりにと何のぼるらん」。現代語訳すると「楠木の根っこは鎌倉に成っているのに、どうして鎌倉の連中はわざわざ、その枝を切りに畿内へとのぼってくるのか」となる。
 これは京都の貴族たちが、幕府の身内であるはずの正成を討てないでいる幕府のふがいなさを嘲笑したものである。このように楠木正成が鎌倉幕府に所属していた人間であることは世間で広く知れていた。
 ここから楠木氏は駿河国「楠木村」出身の得宗被官で、正成の父祖が河内国の得宗領に代官として移住し、正成は河内で誕生したと考えられるのである。そして父祖同様、得宗被官として活動し、反幕府を掲げる後醍醐天皇周辺とネットワークを築き、幕府を裏切り挙兵に至った姿が浮かび上がってくる。
 一般的に、後醍醐天皇の忠臣であった楠木正成が鎌倉幕府の御家人であった筈がないと言う先入観があると思う。しかし幕府御家人として家格の高い足利尊氏や、新田義貞も幕府を裏切り後醍醐天皇につき従った。正成も彼らと同様と言える。
 また、一人の人間が天皇や幕府に仕えるのはおかしいと言う指摘もあるが、中世の、特に畿内の武士は天皇、公家に仕えながら幕府の御家人であったり、商人的な活動をしたり、時には「悪党」として追及されることもあった。武士が一人の主君に仕えると言う考え方は、江戸時代になって固定化するものである。
 正成が後醍醐天皇の忠臣か、幕府の御家人か、それとも「悪党」かといった、どれか一つの姿に当てはめる必要はない。いろんな顔を持っているのが、楠木正成の実像なのである。
2.正成の挙兵と鎌倉幕府の滅亡
 1331年9月、正成は河内国で挙兵した。この時、二度目の倒幕計画を果たした後醍醐天皇は、現在の奈良と京都の県境に位置する笠置山に籠城中であり、ここに正成を召還したと『太平記』に出てくる。
 正成は後醍醐天皇に、挙兵を約束して赤坂へ帰り、赤坂城で挙兵してそこに籠城した。
 少数の正成軍はこの戦いで、多勢の幕府軍を相手に城壁に登ってくる敵に熱湯をかけたり、大木や大石を投げかけたりと、ありとあらゆる奇策で抵抗した。しかし10月21日兵糧不足で正成は赤坂城を撤退した。後醍醐天皇はこの間に幕府に捕らえられていた。
 幕府は後醍醐天皇の隠岐への配流と、正成の行方不明により、一連の戦いは終結したと思い込んでいた。しかし、翌1332年12月に紀伊国で再び挙兵し、隅田党と合戦に及んだ。これに対し、幕府軍も再び追討軍を派遣した。同時期に、後醍醐天皇の皇子、護良親王も吉野で挙兵した。正成は紀伊を北上し、幕府の手に落ちていた赤坂城を奪還し、更に北上を続け、四天王寺で六波羅軍を撃破した。『太平記』には、このとき六波羅軍を淀川(現大川)まで追いつめ渡辺橋から川へ落したと言うエピソードが記されている。
 その後、正成は千早城に籠城し、押し寄せてくる幕府軍に奇策を用い対抗する様子が『太平記』に記されている。なかなか正成軍を落せない幕府軍の不甲斐なさを京都の貴族たちが詠んだのが前述の「楠木の根は…」の歌である。
 正成が幕府軍を一手に引き受けている間に後醍醐天皇が隠岐を脱出し伯耆へと逃れる。これを討つために関東から足利尊氏が派遣される。尊氏は京都から伯耆を目指すが、丹波で兵を返し六波羅探題を攻略し京都を制圧した。
 六波羅探題首脳は京都の天皇を連れて、近江へ逃げるが、蓮花寺で野武士に包囲され約四百数十名がここで自刃し、六波羅探題は滅亡した。この2週間後、関東で挙兵した新田義貞が鎌倉幕府を陥落した。北条高時以下約1150名が自害して、ここに約150年続いた鎌倉幕府が滅亡した。正成が挙兵してわずか2年で鎌倉幕府は滅びた。その後正成は6月2日、伯耆から帰京する後醍醐天皇を兵庫に出迎え、京都まで同行した。
3.建武政権下の正成
 京都に帰った後醍醐天皇は、自分が不在であった間の人事、元号、及び幕府による決定等を全て否定し、天皇を中心とした新しい政権、すなわち建武政権を樹立した。正成は新政権下で記録所、寄人、恩賞方等中枢のポストを兼務し、官位も従五位下を与えられた。五位以上が貴族という特権階級であり、下級の武士がようやく到達できる官位である。更に摂津・河内の国司、守護に就いた。
 一方で、足利尊氏は従三位、新田義貞は従四位下と、正成は彼らと同じ鎌倉幕府を倒した功労者なのに、冷遇されていたのではとみられることもある。しかし尊氏らと正成は元々身分が違う。「侍」身分の正成は、本来国司にはなれない。加えて政権の中枢ポストに就いている。これは後醍醐天皇の先例を無視した人事の裏返しと言える。正成だけに限らないこうした破天荒な人事などの結果、政権内部で問題が起こった。
 1334年10月、足利尊氏にライバル心を持ち、反発した護良親王が謀反の嫌疑により、逮捕される。これは尊氏に対する反発もあるが、父後醍醐天皇に対する反発もあったとみられる。また、北条氏残党の反乱も日本列島のあちこちで起こった。
 1335年6月、西園寺公宗の後醍醐天皇暗殺事件が発覚した。正成は高師直と逮捕に向かった。西園寺公宗を捕まえると、暗殺事件は北条高時の遺児、時行らと共謀したクーデターの一環だとわかり、それを未然に防ぐことができた。しかし、残った時行が信濃で挙兵し、鎌倉を占拠した(中先代の乱)。足利尊氏はこの鎮圧にあたりたいと申し出たが、後醍醐天皇は応じなかった。しかし尊氏は天皇の制止を無視し、中先代の乱を鎮圧した。天皇は尊氏の行為を謀反と認定し、新田義貞を追討に派遣した。だが、義貞は追討に失敗し京都に逃げ帰ってきた。
 1336年正月、正成は宇治、京都で足利軍と合戦し、一ヶ月の合戦の後、足利軍を破り、九州へ敗走させることに成功した。この時正成は尊氏を討ち取ることが出来たが、正成には思惑があり、討ち取ることをしなかった。この思惑が正成を別の道に誘うことになる。
4.楠木正成の最期
 歴史上、政争に敗れて九州に落ち延びた人間が、京都に戻ってきた試しは無い。その代表例が平家である。南北朝時代の人々も九州に落ち延びた足利尊氏は二度と戻ってくることはないと考えた。1336年2月、後醍醐天皇は元号を建武から延元に変え、戦勝ムードであった。
 そんな中、正成は後醍醐天皇に新田義貞の討伐と尊氏との和睦を進言した。正成は天皇に「帝が鎌倉幕府を倒せたのは尊氏のお蔭です。新田義貞は鎌倉幕府を倒したとは言え、世の中の武士は、皆、尊氏に従いました。帝に味方していた京都の武士さえ勝利した後、帝を見限って、尊氏の九州下向について行きました。これを見て帝の徳のなさを知ってください」と述べたという。正成による天皇の痛烈な批判である。ここから、正成は武士から人望の厚い尊氏を政権に復帰させることが重要と考えており、正成の尊氏に対する共感と尊敬、後醍醐天皇に対する冷静な視線がうかがえる。
 4月に足利尊氏・直義は九州の武士を味方につけ、京都に上ることを開始した。この時正成は2度目の提案と最後の諫言をした。後醍醐天皇を比叡山に逃し、からになった京都に敵を入れ、新田義貞と挟撃する作戦を進言した。しかし、天皇が一年のうちに2回も京都を空けるのは良くない、との理由で却下された。
 5月に天皇は正成に対して尊氏討伐のため兵庫へ下向するよう命令を出した。
 これに対し『太平記』では正成が、「この上は、もはや意義は申しません。ですが一言。帝が大敵を打ち破る策を立て、勝ちに導くというお考えではなく、忠義にあつい武士を大軍にぶつけよと仰るのは、討ち死にせよとのご命令なのですね。義を重んじ、死を恐れぬのは忠臣勇士の望むところです」と述べ、その日のうちに五百余騎にて兵庫へ下向したと記される。『梅松論』にも同様の記述があり、正成が実際に言い放った言葉と言える。
 このように建武政権で正成が孤立していたことは、周囲も認識していた。誰も味方する者がいない中で、最後の戦いに向かわなければならない状況にあった。
 『太平記』には、摂津国の桜井の宿で、嫡男の正行と最後の言葉を交わし、正行を河内に帰したというエピソードがある。5月25日に正成は摂津湊川に新田義貞と布陣し、九州から上ってきた足利尊氏・直義軍と激戦を繰り広げる。新田軍は早々と戦線を離脱し京都に逃げ帰った。正成は大軍を前に対抗できず、戦場近くの小屋に火をかけ弟の正季と刺し違えて死去した。この時一族28人が自害した。『太平記』には300人とあるが、実際は28名であったと思われる。その後この戦いは尊氏が京都を制圧し、持明院統の豊仁親王(光明天皇)を即位させ、11月に後醍醐天皇と尊氏が和睦した。後醍醐天皇は三種の神器を光明天皇に譲渡したが、12月になると京都から吉野へと逃亡し、譲った神器は偽物であり、自分こそが正統であると主張した。これが南朝の始まりである。すなわち、正成の死後、6ヶ月あまりで南北朝時代へと突入したと評価できるのである。
5.楠木正行の登場
 正成の死後、その遺志を継いだのが息子正行である。『太平記』には桜井宿で父と別れたのが11才とあることから、1326年の生まれと推定される。戦死したのが1348年正月であることから、およそ22、3才と考えられるが、『太平記』の別の記述では1347年の時点で25才とあり、2才ほどの差がある。いずれにせよ、23才〜25才の生涯で、父同様、歴史上での活躍は短期間であった。
 『太平記』の正行像は父の遺訓を守り、南朝への忠義を貫いた孝子、忠臣として描かれている。しかしこれらは『太平記』が生み出したものであり、その実体は不明である。そこで残っている数少ない史料から、正行の実態を探りたい。
 1339年8月、吉野で後醍醐天皇が死去。その後、後村上天皇が即位した。代替わりに際し、南朝の廷臣たちは不安に思っていたところ、正行と一族の和田正武が2000余の兵を率い、御所を警護した。これに後村上天皇、南朝の廷臣たちは頼もしく思ったと『太平記』にある。1340年、正行は河内国建水分神社に扁額を奉納している。この頃から楠木一族の棟梁として南朝に出仕していたことがわかる。さらに同じ頃、正行は河内国司・守護として、古文書を発給している。これら数少ない古文書が、河合寺、観心寺、金剛寺に残っている。
 南朝に出仕した1340年〜47年は正行の雌伏の時であった。正成の首が届けられたとき正行は自害を考えた。しかし母の説得により、来たるべき日に備えたと『太平記』にある。それが事実かどうかは別にして、『太平記』の作者は正行をこの様な人物と捉えたのだろう。
 1347年8月、7年間の雌伏の時を経て、正行は紀伊の隅田城で挙兵した。隅田は正成が2度目の挙兵をした場所でもある。紀伊から河内に入り、8月24日に河内国の池尻(現在の大阪狭山市)、すなわち狭山池北側周辺で幕府軍と合戦した。その後も八尾城、藤井寺・誉田八幡宮一帯で合戦し、9月19日の教興寺合戦で細川顕氏率いる幕府軍を破るなど、連戦連勝した。23〜25才の若者がベテランの幕府軍を破り、焦った幕府は11月に細川顕氏、山名時氏連合軍を住吉に差し向け、天王寺から堺にかけて合戦したが、ここでも正行は幕府軍を撃破した。
 『太平記』には、正行が敗走した顕氏・時氏軍の兵士を父と同様、かつての渡辺橋から淀川にたたき落したが、転落した敵兵を救い上げ、薬、衣服を与え敵陣に送り返したとある。
 戦前、日本が赤十字に加盟する時にこの話を聞いた欧米の赤十字本部の人が「日本には助け合いの精神がある」と評価し、加盟がスムーズにいったと言うエピソードが残っている。
 正行の連戦連勝に焦った幕府は正行討伐のため、武闘派の高師直・師泰兄弟を切り札として河内に派遣した。南朝側は12月2日にこの情報を得て、幕府軍迎撃の軍勢派遣を決定した。
 『太平記』には、高師直らの大軍が来ると聞いた正行は、吉野の後村上天皇に最後の挨拶をし、後醍醐天皇の墓前に師直打倒の誓いを述べ、「返らじとかねて思へば梓弓 なき数に入る名をぞ留むる」との辞世の句を詠み、将兵と共に過去帳に記名し戦場に向ったとある。これは、正行が実際に直後の四條畷合戦で戦死することから、死を覚悟した正行の最後の行動として『太平記』に記されたエピソードとして知られるが、正行は本当に死を覚悟していたとは考えない。これは『太平記』のフィクションであり、正行は死ぬつもりはなかったと考える。
 というのも、四條畷合戦の前に楠木一族の大塚惟正が配下の武士に宛てた書状には、渡辺・天王寺までの派兵と、今回の合戦が「勝敗を決する大事な合戦である」と書かれている。このことは、南朝の武将たちが今回の合戦を、決戦と認識していたことを示している。すなわち、実際は正行も幕府と雌雄を決する決戦と認識していた。高師直らと戦えば負けるかもしれない、ではなく、彼らを倒し決戦を制するつもりでいたというのが、正行の本心だったであろう。なぜなら、正行は8月に挙兵して以来、連戦連勝であり怖いものなしだったのである。いつまでも正行の死を悲劇的に、かつ美談として捉える必要はない。
 ただし、四条畷合戦で、高師直は正行よりも一枚も二枚も上手であった。高師直は野崎(現大東市)に布陣し飯盛山を占拠した。これに対し正行は一歩遅れ、深野池と飯盛山山麓に挟まれた東高野街道を進軍せざるを得ない状況で、師直軍本陣を目指し突撃した。一時優勢であったが最終的に正行は、弟正時、和田賢秀、和田新兵衛らと河州佐良々北四条で討死した。
 正行討死を一番喜んだのは北朝の貴族である。北朝廷臣洞院公賢は「新年早々喜ばしいことだ。年始の祝儀みたいなものだ」との感想を述べている。一見冷徹のようだが、北朝の貴族たちからすれば、1347年8月以降続いた正行の進撃に対する恐怖心からようやく解放されたという思いの表れであり、北朝・幕府が如何に正行を恐れていたかの裏返しと言える。
正行の死後、高師直軍は吉野を焼き討ちし、後村上天皇は吉野から賀名生(現奈良県五條市)に亡命した。高師泰は南朝残党の掃討戦、楠木一族への総攻撃を展開し正行館を焼き打ちした。正行の死は南朝滅亡の危機に直結したのである。これは、後醍醐天皇を最終的に吉野へ走らせた正成の死後と同じ状況であった。
7.楠木正儀と南北朝内乱の終結
 楠木正成の三男の正儀は楠木一族で年代的にも一番長く活動した。父正成が5年、兄正行が7〜8年に比べて、正儀の活動期間は30年と長期間であった。
 『太平記』で正儀は当初、父や兄に似ず優柔不断と評価が低かったが、だんだん変化し、父正成と同じような描かれ方をされている。
 正儀は一時、南朝から北朝へ寝返り、北朝の武将として10年間戦った後、南朝に帰って来た。それが原因で戦前・戦後を通して、楠木一族にシンパシーを抱く人から評判が悪かった。
 しかし史料によると、正儀こそ楠木一族の苦労人で、父・兄の後を継いで、南朝と幕府の和平交渉に粘り強く尽力した。また、北朝から4度も京都を奪還し、父・兄以上の重臣であったと評価できる。
 1382年に正儀は南朝に復帰した。この頃南朝の力も弱く、南朝は正儀を重臣として迎えたことが窺える。正儀は1386年4月19日付けの古文書を最後に、消息不明となる。
 正儀は南朝が最も苦しい時期に、その最先鋒として幕府軍と戦い、次第に南朝での居場所を失い、北朝・幕府へと移った。その後、南朝に再び戻るという、紆余曲折を経たように、まさに南北内乱期という時代を体現した人物であったと評価できる。
おわりに
 楠木正成・正行・正儀の歴史的位置正成・正行の死は南北朝内乱の本格化、激化を生み出したと言える。
 正儀が南朝に帰参した頃は、畿内における南北朝内乱は事実上、終息しており、その7年後、南北朝が合一された。従って、楠木氏三代の動向は畿内の南北朝内乱の展開と連動していたと評価できる。このように楠木氏三代の軌跡を追うことによって、南北朝時代をトータルに考えることができると言うのが、本講演の主題である。




2019年(平成31年)3月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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