第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成30年12月20日

行基と長屋王の時代
〜今、我々は何を為すべきか〜




『行基鍋』世話役(元建設省河川局長)
尾田 栄章 氏

  

講演要旨
     行基と長屋王は律令国家・日本を発展させるべく、手を携えて基盤づくりに取り組んだ。
 本年(平成30年)は行基生誕1350年の節目の年、これを祝するためにもその姿を忠実に再現すると共に、二人に学んで、今我々が為すべきことを共に考え、行動に繋げたい。

 
   

1.行基集団の事業を総合的に捉える
同時代に生きた行基と長屋王

 只今ご紹介いただきました尾田でございます。
 今日は行基さんが進めた事業についてお話いたします。壮大な事業が実施されているのですが、それらの事業は行基と長屋王が共に手を携えて進めたからこそ実現できたというのが私の仮説で、それを証明するために『行基と長屋王の時代』という本まで草しました。
 それで、まず行基と長屋王とはどういう人かということですが、行基については狭山市ではよく知られているかと思います。それに対して長屋王はあまり知られていないのではないでしょうか。長屋王がかつて注目を集めたのは、平城宮の近くでデパートの建設計画が持ち上がり、それに先立ってなされた発掘調査で多くの出土品が見つかり、長屋王の邸宅跡に比定されたことが契機となりました。現在では3万点を超える木簡が発掘されており、長屋王その人の存在がある程度明らかになってきました。
 この二人が少なくとも同時代を生きたことをまず確認しておきましょう。行基の没年は749年ですが、没年齢に80歳と82歳の両説があるため、生年も668年と670年に分かれます。一方、長屋王については神亀6年(後に改元されて天平元年、729年)に自尽して果てており、行基よりも20年も前に没しました。長屋王の生年には676年と684年の両説がありますが、少なくとも行基よりは6年は後となります。間違いなく、行基の人生は長屋王の人生を完全にカバーしており、二人は間違いなく同じ時代を生きたのです。
 面白い対比もみられます。行基が亡くなったおりには、『続日本記』、日本の正史ですが、そのなかの伝記(薨伝)では209文字を費やしてその功績を詳述しています。
 ところが長屋王の場合は政治家として人心を極めた存在でありながら、薨伝はたったの15文字のみです。行基が209文字に対して、左大臣にまで登りつめた長屋王の薨伝がたった15文字。ここから朝廷の強い意志が匂い立ちます。長屋王の存在そのものを歴史から完全に抹殺したかったのです。
行基の水資源開発
 さて行基集団、行基を中心とする集団が進めた仕事についてお話いたします。まず皆さん方に知っておいて頂きたいのは『水』の担う役割です。水資源を開発することの持つ意味合いです。
 人類(ホモサピエンス)は約7万年前に東アフリカを出発し、全世界に散っていったとされます。数十人程度で出発した人たちが全世界に広がり、我々ホモサピエンスは今や70億を数えるまでになりました。どうして人類が東アフリカを出発したのかは定かではありませんが、その後、地球上全体に行き渡った人類が同じような遺伝子を持つことが最近のDNA解析で明らかになりました。人類が旅立った理由は、新しい土地を求めてのことでしょうが、土地だけなら地球上にはある意味で有り余るほど存在します。しかし、土地は土地だけでは使えないのです。水があってこそ、初めて使える土地になるのです。
 我々人類がアフリカを抜け出したのは、水のある土地を求めてのことです。要するに土地が使えるというのは、水があって初めてその土地が使えるわけで、この事実は現在でも全く変わりません。ということは行基の時代でも全く同じ重要性を持っていたことになります。
 行基が池を作って水資源開発をしたことは、とりもなおさず新たな耕地を開墾するために水の確保を目指したわけです。水田耕作をするために池を作ったわけです。
 皆さんご存知の通り、日本では平均すると年間でほぼ1600mmの水が陸地の上に降ります。その水を使って我々は生活しているわけですが、この降水量は世界の他地域と比べると豊かです。ですから日本には水問題がないように言われたりしますが、決して日本に水問題がないというわけではありません。
 日本の水問題を端的に示す絶好の史料があります。濃尾平野の輪中で生まれまれ育った松尾国松さんという元岐阜市長の書かれた『濃尾における輪中の史的研究』という本の中で、日本の士地がいかに使い勝手が悪いかを端的に綴っておられます。年に数回は大水が降って水浸しになるかと思うと、一週間も雨が降らないと水を確保するために、足踏みの水車(ミズグルマ)を廻して水を持ち上げる必要が生じる。まさに「水干の両難(水害と干害)が交々に至るという事態」におちいる。まさにこれこそが日本の水問題の特性であると指摘されています。
 皆さんが今お住まいのこの地も沖積平野でして、河川が運んできた土砂によって造成された土地です。その上で我々は生活しているわけです。それだけに、少しでも雨が降り過ぎると洪水という災厄を我々にもたらしますが、それだけではなく洪水による土砂が平らな土地を供給するという貴重な役割も果たしてくれています。日本の川は常に変化しており、今、目の前を流れている川は、その姿が未来永劫まで続くわけでは決してありません。非常にドラスティックに変化しているのが日本の川です。
 これを数字でみると、約37万平方キロメートルの国土面積のうち、先ほどご覧いただいたような河川が運搬した土砂によって作られた洪積平地は10パーセント程度しかありません。この洪積平地に、人口の半分が住み、資産の四分の三が集中しているのです。これが現在の状況ですが、行基の時代もまったく同様です。ですから行基も洪水と闘うとともに、常に変動する水量を安定させるために池を作らざるを得なかったということです。

2.行基集団が築造したものとは?
 非常に厳しい自然条件に対して、行基集団は実に壮大な事業を実施しています。
 それは大きく畿内の三か所にわけられます。一つは、今我々がおります狭山池を含めた和泉の地の開墾事業です。典型的な事例は久米田池を中心とする大規模開発事業です。二つ目は、昆陽池を中心とした伊丹、今の伊丹空港の近くの台地の開発です。残る一つは淀川の左岸の湿地の大開発事業です。京都から大阪までの狭窄部を流下する淀川が作り出す、枚方から現在の高瀬大橋の辺りまでの一大湿地帯の周囲を、大堤防を築いて囲み込み、内部を干陸化するという大規模で多様な開発事業です。
 その結果、現在の近畿地方にほぼ匹敵する畿内に、昆陽池・狭山池・久米田池という今も現役の大きな池が残されています。それぞれに河道外貯留ダム形式という新しい方式で築かれたものです。1300年も前に作られた池が今も現役であるとは凄いこと、まさに世界遺産に登録されるだけの値打ちは充分にあると考えられます。一つでも凄いのに、三つも残されているということは、行基集団が世界に誇り得る大事業を実施したことの何よりの証拠だと思います。
 加えて、淀川左岸の中下流部、枚方から今の高瀬大橋のところにかけての一大開発事業には、大放水路の建設など、池の開発とは全く異なる技術の体系が用いられています。現在の治水対策に相当する事業と農地の灌漑と排水を同時に実施しているのです。従来は、大河川が開発されるのは戦国時代になってからとされていたのに対して、想像もできないような大事業が行基の時代に実施されていたのです。
『行基年譜』
これらの事業が実施されたことは、いかにして知り得るのでしょうか。
 幸いなことに『行基年譜』という史料が残されています。行基年譜は大きく二つに分かれており、ひとつは「天平十三年記」と呼ばれます。行基集団が実施した事業を朝廷に申告するため、事業名を工種別に分類して天平13年に纏めて提出した文書とされます。もう一つは「年代記」と呼ばれるもので、行基集団が起立した寺院名を年代別に纏めたものです。
  この二つの史料が『行基年譜』に取り込まれています。従来は、「天平十三年記」は天平13年に行基集団が朝廷に提出した資科そのものだから非常に信頼性は高いものの、「年代記」はあまり信用できないとされてきました。しかし最近の発掘調査の結果が年代記の伝える内容と整合することから、信頼性が高いと見直されてきました。
 「天平十三年記」という貴重な史料がありながら、その内容については理解されることなく今日まで来ました。それは天平十三年記の記述内容が工種別の総括表という体裁を取っているため、この事業一覧表だけを眺めていても事業の実態を読み解くことはできません。多種多様な事業を地域別に分解して再構築する作業が欠かせませんが、これには建設事業に精通した技術者のノウハウが必要となります。その内容を詳しく解説する時間がないため、興味をお持ちの方は拙著「行基と長屋王の時代」を是非ともお読みいただきたいと思います。
狭山池
 その一例として狭山池についてお話したいと思います。西除川流域で3000戸もの浸水被害が発生したのを受けて、昭和63年から平成13年にかけて狭山池をダム事業として再開発する事業が実施されました。この事業を実施するなかで堤肪(池の堤体)を掘削しました。その時に堤体が幾つかの層に分かれていることが観測されました。行基集団が盛り立てた部分の推定に関して、大阪府立狭山池博物館は行基集団の施工部分を推古天皇時代に作られた堤体の50センチ程度の嵩上げ部分と見立てておられます。この非常に大きな紫の部分、高さ3.5mぐらいの嵩上げについては、天平宝字の災害復旧事業によると推測されています。
 しかし私はこの推測は間違っていると考えております。一番大きな理由は、天平宝字6年の事業は、『続日本紀』によると「河内国狭山池堤が決壊する。単功(一人が一日に行う作業量)総計8万3千人を以て修造した」とあります。つまり災害復旧事業として修造したのです。通常は、池を作ったときは「築」という字をあてます。決して「修」という字は使いません。修造というのは、前にあったものが壊れたので、前にあった状態にもどすということです。
 ですからこの天平宝治の工事は、壊れた堤を元まで戻すということでしかない。天平宝字6年以前の姿に戻すことを意味しており、以前より大きく盛り立てるという解釈は成り立ちません。
 事業の性格という議論に加えて、根本的に成り立たないのはこの紫の部分の土量を計算すると約20万立方メートルぐらいになります。1立方メートルの土を入れかえるのに単功1人(これ自体が相当無理な数字で、2・3人程度は必要でしょう)とすれば、単功20万人となります。とても8万3000人でやれるような仕事ではありません。この紫色の大きな嵩上げ工事こそが行基集団が施工したものと私は考えております。
久米多田池と久米田池溝、物部田池と物部田池溝
 さて次に久米多池と物部田池についてみてみましょう。
 「天平十三年記」によると、『池』として久米多池と物部田池が出てきます。それとともに『溝』として久米多池溝2000丈(豹6km)と物部田池溝60丈(約180m)が出てきます。この地で二つの池と池溝が築造されたことを「天平十三年記」が伝えてくれます。有難いことに、池溝の諸元(長さ、幅、深さ)が記載されているのです。
 これが何を意味するのでしょうか。これが久米多池です。久米田池をご存知の方はお判り頂けるかと思いますが、この堤に満々と水を湛えるためには、久米田池の脇を流れる牛滝川の水は使えません。牛滝川ははるか下を流れており、相当上流まで遡って取水し、延々と導水してくる必要があります。そのための施設こそが久米田池溝なのです。
 では、物部田池と物部田溝とは何なのでしょうか。今は消滅してしまったのですが、久米田池に隣接していた池が物部田池で、その池に久米田池から導水する施設が物部田池溝と考えられます。葛城山から流下する牛滝川の水量が極めて豊かなだけに、久米多池だけでは小さすぎる。それを補うために作られたのが物部田池であり、久米多池と物郎田池を結ぶために造られた短い導水路が物部田池溝と考えております。
 次に伊丹の昆陽池についてもみておきましょう。昆陽上池と同池溝、昆陽下池と同下池溝、その両者の関係は、江戸時代まで大きな池が二つあったことから明確です。両池溝は今では天神川と天王寺川に名前を変えていますが、池に水を入れるために築造された池溝ですので、その導水機能を維持するために治水上は不利な天井川として敢えて残しているのです。まさに行基が作った考え方が今も継承されていることになります。
淀川左岸の大開発事業
 もう一つ今までのご覧いただいた池の築造とは全く異なる『淀川左岸中下流部の総合開発事業』と呼ぶべき大干陸化事業があります。先ほども少し申し述べましたが、土木技術を学んできた人間には、淀川や利根川、あるいは木曽川というような大河川の開発は、戦国時代以降とみられていました。それゆえ行基の時代に淀川でこのような大開発事業が展開されるとは誰も考えてこなかったわけです。ところが、『行基年譜』あるいは『天平十三年記』が伝える内容を忠実に読み解くと、行基の時代に実施されたことが素直に読み解けます。
  行基の時代に実施された事業ですから、少しの強雨で切れるような弱い堤防しか造れなかったのですが、通常の年なら堤防があるからこそ収穫できるわけです。たとえ洪水で収穫がない年があったとしても、通常の年にそれなりの収量が上がるなら、ありがたいわけです。
 これが日本人の水との付き合いかたであり、またこのような水と人との関係をベースにして初めて水田開発が進められたということにもなりましょう。

3.行基集団と朝廷の関係は?
 さて年代記をご覧ください。養老2年に隆福院を作っています。もう一つ深井尼院、女性用の道場も作っています。行基集団は四十九院を建立したとされますが、どの寺院がその49院に含まれるのかは定かではありません。いろんな見立てがあるのですが、行基が作ったとされる道場を一覧表にしますと、最初の頃はずっと男性用の道場のみが建立されています。
 その後、神亀元年になって初めて尼院を作り出します。その後は、大事な道場を建立するときには尼院を併設するようになります。女性を非常に重要視していた集団だということが、ここからも読み取れようかと思います。
 なお寺院と道場という用語は、律令制のもとでは明確に便いわけられています。寺院という言葉は当時の法律用語でして、律令の僧尼令には「僧尼は必ず寺院に居住しなければならない」という定めを置いていました。それ以外の“寺院もどき”は道場と呼ばれ、勝手に道場を建立して大衆を教化するような行為は還俗、すなわち僧籍をはく奪する罰を受けることになります。律令の解説書には、行基大徳の行っているのはこの類だと記しています。
 また行基の薨伝には、「留まるところには必ず道場を建てる」と記述されており、決して寺院とは呼んでいません。
 このように行基自身には大僧正というポストを新設して手厚い扱いをするのですが、行基集団が作ったものはあくまでも道場として扱い、決して寺院とは呼んでいません。すなわち、朝廷は行基自身を大僧正として高く評価するものの、行基集団が建立したものはあくまでも道場と呼んで不法扱いの対象とできるように注意深く扱っています。まさにダブルスタンダードで、その微妙なバランスの上に立って行基と行基集団をコントロールしていたように思えます。
 行基と朝廷の関係を考える上で最も大きなエポックメイキングな事柄は、養老六年から神亀元年にかけて策定された
『良田一百万町歩開墾計画』であります。そしてこの開墾計画を具体化するための政策として、三世一身法を準備します。
 さて、良田一百万町歩といってもあまりピンときませんが、この当時の水田面積を推算すると、凡そ60万町歩と見積もられています。良田一百万町歩開墾計画となると、往時の倍ぐらいの面積を新たに開墾しようという破天荒は計画ということになります。当時の産業としては農業しかないわけですので、所得を倍増あるいは3倍増するそういう計画を作っことになります。敗戦後に池田勇人首相は「所得倍増計画」を打ち出しましたが、はたして彼はこの良田一百万町歩開墾計画を知っていたのでしょうか?
 三世一身法は、律令制度の根幹である公地公民制という大原則を変更して、土地の私有を認めようとする大改革です。そこまでしないと良田一百万町歩の開墾はできないことを明瞭に認識していたからに相違ありません。班田の供給すらできない事態が目前に迫っていたからでもありましょう。そこまでの覚悟を固めて思い切った政策を打ち出したのです。
 この一連の政策を進めたのが朝廷側筆頭の左大臣・長屋王であり、その後ろに行基が知恵袋として支えたというのが私の見立てであり、仮説でもあります。
 残念ながら天平元年に長屋王の変という一大誣告事件が仕組まれて長屋王は自尽し、その功績はすべてが闇の中に放り込まれます。それを白日もとに曝したいというのが私の願いでもあります。

4.行基集団とはどのような集団だったのか?
本日お集りの皆さんはご存知かと思いますが、養老元年4月23日に行基と行基集団を「小僧(ショウソウ)行基ならびに弟子たち」と口汚く罵る詔が発出されます。個人名を明記した個人攻撃は続日本紀を見渡しても他にはなく、僧尼令違反を問う一連の朝廷側の動きの中でも極めて異例の厳しさです。いかに当時の朝廷が行基集団を忌み嫌っていたかを雄弁に物語る事件です。
 ところが、翌年の養老二年に出された僧尼令違反を問う太政官令をみると、その文言は一転して非常に柔らかなものになります。この間に長屋王が大納言として議政官に連なり、朝廷内で強い発言権を持ち出していました。さらに、養老四年に太政官筆頭の右大臣藤原不比等が亡くなると、長屋王が養老五年正月に右大臣に登ります。これで議政官筆頭になるわけですが、その直後の同年五月に行基は平城宮の近くに菅原寺の敷地を賜ります。これで行基集団は平城宮に近い一等地に広大な敷地を持つ寺院を建立することになりました。
 長屋王は右大臣に登るやいなや菅原寺の建立を行基に認めたのです。これは、藤原不比等が左大臣石上麻呂の逝去により太政官筆頭となるやいなや、己の一番やりたい僧尼令違反を咎める異例の詔を発出させた事件を思い出させます。長屋王も己が太政官筆頭となるやいなや自分が最も大事と考える新しい水田開発を進めるパートナーの行基集団を手厚く遇しているのです。まさに歴史は繰り返しているようです。
 もう一点、強調しておきたいことがあります。行基集団は女性が活躍する集団であったということです。養老六年七月、「妻子をして家を離れさせて親や夫を顧みない」というふうに行基集団とおぼしき集団を非難する太政官奏が出されます。それだけ行基集団は女性に魅力的だったということになりましょう。
 更には、薦江池が所在する河内国大鳥郡深井郷の道場は天平六年に建立された深井尼院しかありません。となると、薦江池を作ったのは深井尼院、すなわち女性のみで池を造った可能性も大いにありそうです。女性が活躍する集団であったことは間違いありません。

5.「行基さん大感謝祭」のとりくみ
 行基集団は極めて魅力的な集団であったことは間違いなく、非常に面白い研究テーマであります。そのような行基さんを中心とする集団に学ぶべく取組んだのが「行基さん大感謝祭」です。今年(平成30年)の10月20日に春日大社の境内である飛火野において開催したところ、有難いことに3500人の方々の御参加をいただきました。なぜ飛火野かと言いますと、行基集団とおぼしき集団がかつてここで大集会を開催したため、「京の東の山原に数千、時により万を数える人を集めた」と朝廷より非難されていたからです。
 大感謝祭の取り組みの一つとして、奈良・喜光寺(かつての菅原寺)の行基像を担いでの大仏さんへの参詣が叶いました。東大寺さんの特別の計らいで大仏殿の正面から入れていただき、更には般若心経を共に唱えて頂くなど大仏さんと行基さんが一体化したかのような法悦に浸ることができました。
 行基さんは大仏建立に向けて勧進するなど大いに尽力されたのですが、大仏開眼の前に亡くなられています。そういうこともあり、行基さんと大仏さんが初めて対面する機会を持てたことは本当に有難いことでした。
 次の活動としてAI行基さんを万博で実現しようと考えております。ディープラーニングというような手法を駆使して行基さんにあらゆる情報を入れると、行基さん自身が自分の言葉でその時代のことをお話になるのではないか、場合によっては自分史もお書きになるのではないか、との夢を語り合っています。そういう姿を2025年に開催される大阪万博に持ち込めないかと議論しております。
 さて最後になりますが、「行基さん大感謝祭」をこれから毎年続けていきたいと願っております。
 ここ狭山では、熟年大学のような特色ある民の取り組みが多彩に展開されています。行基さんとの因縁が深い狭山池が現存し、狭山池博物館もある大阪狭山市で、「行基さん大感謝祭」を開催していただければ、この取り組みが近畿全体に拡がる良い機会になると信じております。是非とも共々に取り組んでいただきたいという思いを述べさせていただいて、私の話を終わらせていただきます。
 ご清聴いただきありがとうございました。




平成30年12月 講演の舞台活花



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