第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成30年9月20日

戦国の城から近世の城へ




奈良大学文学部教授
千田 嘉博 氏

   

講演要旨
    日本にはたくさんの城跡が残されていますが、城跡から歴史を考えることは、充分進められてきませんでした。近年になってようやく城跡が発掘されるようになって、城郭考古学が本格的に深められるようになってきました。
 この講演では、戦国時代の城からどのように近世城郭が出現していったのかを考え、城跡から信長・秀吉・家康の時代を考えます。

 
   

はじめに
 中世から近世にかけての城の変化と、その意味を考えて見たい。最近城ブームが起こっている。一昔前までは天守が残っているかどうかに関心が集まったが、今は城跡を考古学的に丹念に発掘、調査し復元して、北海道の五稜郭、名古屋城の本丸御殿、松代城、熊本城などのように、遺跡、城跡を整備し、展示などをすることが全国的に盛んになってきている。
1.信長の城
 信長が若い時に城主をした清洲城は一般に江戸時代などにイメージする本丸や天守閣のある城ではなく館の集まった、いわば館城(屋形城)であった。戦国時代頃まではこういった館城が多かったが、これにはお手本があり上杉本洛中洛外図の中に描かれている室町時代の京都の武士の細川氏の館がそれである。
 これが戦国時代に入ってその姿を大きく変えていったのである。室町時代は権力機構がしっかりしている間は紛争などの解決は平和裏に行われたが、その基盤が崩れるにしたがって武力に訴えるようになり、戦国時代の到来を招き、各自がその館を武装しはじめ、その構造にも変化がみられるようになった。
 信長の城をたどってゆくと、はじめは清洲城のように平地に造営していたが、桶狭間の戦いを機に立地を変えて山の上に小牧山城を造った。調査の結果本丸に至るまで段石垣で固めていることがわかった。石垣で固めてゆくことが江戸時代の城になっていく一歩であった。石垣を造る技術は未発達であったが信長は小牧山の岩盤を利用して予想を超えた堅固なつくりを実現した。本丸への入り口は犬山城にみられるような建物の中に組み込んだ石垣の横に作った階段を上る構造になっていることも調査の結果判明した。こうして信長は民衆が今まで見たことのない「見せる城」の造営に成功し、横並びの館の一部に住むのではなく石垣を独占して一番高いところに住みながら文字通り君臨していた。
 次に信長が手掛けたのは斎藤氏の拠点であり元は稲葉山城であった岐阜城である。400メーター近くある金華山の上に建てられた堅固な城で、予想に反して家来たちも住まう麓の館は会議などを行う公的な機能を持つだけで、私生活は家族とともに家臣たちとは圧倒的に隔絶したこのような高みで送っていたことがルイスフロイスなどの記録から判明している。
 天正4年(1576年)琵琶湖・内湖のほとりに安土城を造った。長年にわたる発掘調査の結果小牧山城と同じようにほぼ直線的と思われる大手道が復元・整備された。建物はほとんど残っていない。コンピューターグラフィックスで復元すると大手道は安土城のシンボルである天守にまっすぐに向かっていて、ここでも信長がいかに「見られる城」を意識していたかがわかる。上空から見ると山頂部に城郭安土城の中枢部としての天守を構え、山麓・山腹には武家屋敷群を配置していたことが見て取れる。大手道が終わるところから天守までは複雑に入り組んだ道を設え、そこから10メートルに及ぶ石垣を築き信長を守る体制になっていた。
 天守は華麗なる7階建て、最上階は内外共にことごとく金である。本能寺の変後明智軍が略奪、放火あるいは失火により焼失した。天守の復元に関しては様々な説、考えがあったが、調査の結果天守台の石垣直下に礎石が並び、焼け焦げた石や柱が発掘されたことから石垣を覆うように建物がびっしり建っていたと考えることができる、つまり「懸け造り」で天守台から天守の一部が張り出していたことが明らかになった。このような造りは、清水の舞台、姫路城の西の丸、仙台の青葉城、岐阜県の苗木城にもみられる。天守の本体を知る手掛かりとして天正遣欧使節に託してバチカンに贈った安土城図屏風がある。これは信長が狩野永徳に描かせたもので現在行方はわからないがその模写図は残っている。この図から手すりのついたテラス状の構造物が付随していたことがわかった。信長がこのテラスに登場し、その下の白洲に集まる家来たちに話しかける風景が浮かび上がる。このように信長は城をただ造ったというだけではなく、いかに自分の権威や権力を見せるための装置にするかに腐心したことがうかがえる。

2.秀吉の城
 秀吉の建てた大坂城は徳川家康が江戸時代の初めに作った大坂城の地下に埋もれている。この豊臣大坂城が描かれたのが浅野文庫の諸国古城之図である。本丸の表に対面用の大御殿、千畳式御殿がありその本丸の奥には石垣で囲った奥御殿が建っている。このことから二重の構造になっていたことがわかる。信長の城づくりを秀吉が忠実に受け継いでいたと言える。城を北側から描いた「豊臣期大阪図屏風」がエッゲンベルグ城に近世初頭に輸出されて、保存されていたことが最近わかった。それにより大きな馬出と呼ばれる広場があったことがわかる。他に「大坂冬の陣屏風」の模本が国立博物館に保存されている。これによっても主要な入り口の前に馬出が設けられていたことがわかる。主な戦場は南側になるということが地形的にも明らかで、その総構えを守るために真田信繁(幸村)が四角い独立した城である真田丸を現在の明星学園のある辺りに造って守りを固めたのである。
3.家康の城
 家康は若い時から信長と同盟を組み、秀吉にも仕えて最終的には天下を取り江戸幕府の礎を築いた。若い時は愛知県の岡崎城の城主をしていた。ここでは天守の石垣が最も古いが家康の造ったものではない。岐阜城、安土城、大坂城などの絢爛豪華な城をよく見ていたものの家康の造る城はきわめて地味であった。次に家康が居城にした浜松城でも、家康がその石垣を造ったと考えられていたが、発掘調査の結果家康が江戸へ移った後に入城した堀尾吉晴が築いたものと判明した。家臣団の居住地についても信長、秀吉の場合はすぐ近くに住まわせていたが、三河以来の家康の家臣たちは比較的自由に居住地を選んでいたようで、家康の統率力が必ずしもいきわたっていたとは考えられない。本格的な近世大名への飛躍の転機になったのは秀吉の命令で江戸に移った時であった。それまで出身地に近いところでいろいろなしがらみもあったが遠く離れた江戸で心機一転部下たちに新たな統率力を発揮する機会に恵まれたのである。
 一般には「江戸図屏風」が示す江戸城が知られているが、これは寛永年間の三代将軍家光の時代のものである。しかしながら、家康が造った江戸城は従来考えられていたものとは大きく違っていて、大・小天守が連立した姫路城のような造りであったことが最近千田氏により発見された松江市歴史館蔵の「江戸始図」により判明した。この1607−09年(慶長12−14)の家康による慶長江戸城の縄張り図によると、巨大な本丸の中に大天守、付け櫓、小天守など石垣のある天守廓を持つ壮大な江戸城が江戸の空に聳えていたのである。これが家康時代の江戸城である。
 文字の記録によると1606年には天守台石垣の高さは8間であったが、その後改造を加え10間になった。天守は5重、鉛瓦を葺き、外観は富士山に並んで雪の嶺に聳え、夏も雪のように見える姫路城のような趣があったという。『愚子見記』によると、天守の高さは7尺間、石垣上端から天守棟までは22間半、これは「権現様御好也」とあり家康の好みのデザインを取り入れている。大天守が55mの名古屋城などを圧倒的に上回り、高さは68mであった。石垣も満足に造れなかった家康が江戸に移ってからは自分の好みの城を造り、夢を実現したのである。
 家康が豊臣勢との決戦を意識して造った名古屋城は本丸の面積を確保して堅固な造りを目指したが途中からは「豊臣弱し」と見て政治や居住の空間面積を最大にしてその後の江戸城の宮殿化を先取りした。慶長江戸城もその後ほどなく政庁としての役割を果たすべく改造された。天守はシンボルとして残されるのみとなった。戦いのための城から政治のためのシンボルとしての城に変化していく姿が見える。徳川が天下の実権を握っていく流れの中で造られた福井城に見るように、城下町は城を中心に重臣、家臣が住み、その周りに町人が住み、大名を頂点とした階層的な武装都市が体感できるだけでなくそのような世界観を持たせるような形になっている。
 信長の城づくりの改革から秀吉、家康とつながり、それを全国の大名が共有していったのが戦国から近世の城への変化である。石垣の進化や天守の誕生だけではなく社会そのものの劇的な変化を城の姿かたちは示している。城郭の研究から社会と政治の移り変わりを読み取ることができる。数多ある全国の城を調べることは古文書を読むのに似て歴史を考えるうえで極めて有意義なことであると思います。

《講師未見承》


平成30年n月 講演の舞台活花



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