第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成30年6月21日

船場花嫁物語
船場商家の婚姻儀礼




大阪市立住まいのミュージアム(大阪くらしの今昔館)学芸員
深田 智恵子 氏


  

講演要旨
     江戸時代から昭和戦前頃まで、船場商家の婚礼は結納、花嫁道具の荷物送り、花嫁道具を披露する荷飾り、祝言披露宴と続く華やかなものでした。
 古文書や古写真の記録から、船場商家の伝統的な婚姻儀礼の様子をお話しします。

 
   

概要
 江戸時代から昭和の戦前頃まで、船場商家の婚礼は、結納・花嫁道具の荷物送り、花嫁道具を披露する荷飾り、祝言・披露宴と続く華やかなものであった。
古文書や古い写真の記録から、船場商家の伝統的な婚礼儀礼の様子を講演する。

大阪の伝統的な婚姻儀礼の記録
 「井上平兵衛家文書」
 大阪市南区内安堂寺町に居住した地主井上平兵衛家の『明治45年3月結婚記録』(大阪市史編纂所保管)
 「婚礼調度写真帖・明治45年」
 現在も北船場にある婚礼品の老舗「渋谷利兵衛商店」の先々代当主が作った「婚礼に関する写真集」
 「廣野家の嫁入り道具昭和14年」
 
南船場の玩具商「廣野家」が娘のために用意した嫁入道具一式が嫁ぎ先に保管されている(未使用)
 井上平兵衛家は南区内安堂寺町(現在の中央区安堂寺町)で江戸時代の末期頃から醬油や塩を販売する商家で、明治以降、薪炭なども扱い、明治20年代には貸家経営に乗り出す。
 当主が残した様々な記録の中に詳細にまとめられた明治45年の結婚の記録がある。この記録は砂糖袋に入れて保管されていた。船場の商家は財力もあるが、砂糖の袋を活用したり、広告の裏をメモに使ったり、「始末」を旨とする船場商家の普段の生活ぶりが垣間見えて資料的に面白い。
 渋谷利兵衛商店の写真帖、当主渋谷益三が中表紙に「現在における婚礼儀式風俗の資料としてこれを作る 明治45年1月吉日」と記している。
 渋谷利兵衛商店は、享保9年(1724年)創業の老舗で、今も高麗橋にある結納品。
 昭和14年南船場 玩具商廣野家の娘廣野カツと文庫紙店の息子浮田光治の婚礼時、廣野家が娘のために調えた花嫁道具が当時の状態のまま保存されている。又、写真もあり、当時の様子が伺われる。
 この後、太平洋戦争が始まり、華美な行事や催しが避けられるようになり、伝統的で華やかな婚姻儀礼も見られなくなる。
 『井上平兵衛家 明治45年の婚礼の記録』から見ていくと井上平兵衛の娘朝子と新郎半五郎の婚礼までが詳細に記録されている。明治45年というと、江戸時代が終わり半世紀近く経過しているが、婚礼の慣習は江戸時代の風習が継続されている。記録の最初に「近々半五郎と結婚してはいかがと相談せしところ両人において異議なき口上を聞きし期日は来たる3月28日に挙行するにつき衣服整え方にかかる」と書き出している。書き出しが2月5日なので、婚礼の決定から挙式まで2ケ月であった。もともと二人は許嫁であったと思われる。
 婚礼の手順として、まず新郎に誓約書を提出させている。
 誓約書は新郎養父と保証人の連名になっている。
 井上平兵衛に娘しかいなかったので長女の朝子に半五郎を婿に迎える婿入り婚。船場の商家では婿入り婚を推奨しており、女子が生まれると喜んだ。
 男子が誕生してもその子が家業をきちんと継いで発展させてくれる優秀な子に育つかどうかわからない。それなら娘に外から優秀な婿を迎える方がいい。そういう考え方が船場の商家にあり婿入り婚を推奨していた。
 井上平兵衛も、長女の朝子に半五郎を婿に迎えるということになった。
 半五郎は結婚前に室田家に養子に出た。推測であるが、井上家と半五郎の生家では釣り合い取れないので、一旦半五郎を室田家に養子に出し、室田家から井上家へ婿入りし、釣り合いをとったもの思われる。
誓約書の文面は
 「この度、私儀、貴家へ貰い受けられし候についてはご家法のとおり堅く相守り、人道に違背致し候行為決して致し申すまじく候はもちろんその家に対し一家親類の交際は誠実をもって旨とし、然るにより不心得仕り候節は如何様のお取り計らいくだされ候とも一言の申し分これなききっと仰せの通りいたし候。よって後日のためくだんの如し」
半五郎
明治45年2月28日
となっている。
 要約すると「結婚して家に入ったら、その家の家法を守り決して人道に外れるようなことはしない。親戚に対しても誠実に付き合いをする。もし何か間違いを犯したらどのような処罰、処分も甘んじて受ける」と言う内容である。
 更に、養子先戸主、室田貫二と請人の室田柁太郎二人が添書きし、保証人からも誓約書を出している。こういう手続きを踏んで婿を迎える結婚話が進んでいく。これは封建時代の習慣が引き継がれているものと興味深い。
祝言披露宴の次第
 明治45年3月28日披露宴当日、開始は午後9時、参加者は新郎新婦、仲人夫婦、親族合わせて20名程度。会場は井上家の座敷。
 第一席、夫婦杯の取り交わし。神主は呼ばず、祝言の部屋に新郎新婦と仲人夫婦で行う人前婚。現在は神前婚が一般的だが当時は人前婚であった。
 第二席は新郎新婦と参列者全員でお雑煮を食べるお祝いの儀式を行う。
 江戸時代中期頃になるといわゆる結婚マニュアル本が出版されるようになった。富裕な商人達は結婚マニュアル本を参考にして、武家の婚姻儀礼に倣った華やかな結婚式を行うようにたった。祝言の籍で雑煮を食べることは古来からのしきたりで、江戸時代に出版された結婚マニュアル本にも書かれていた。
 明治45年の井上平兵衛家の祝言披露宴でも雑煮を食べている。江戸時代以来の伝統的な形式が引き継がれているということがわかる。
 雑煮を皆で食べた後、休憩し、午後9時から披露宴を始まる。江戸時代から夜の披露宴が正式であった。
 嫁入り婚の場合は花嫁が輿か籠に乗って婚家に夕方5時以降到着する。
 家に入り休憩後、夜から祝言が始まり、夜を徹して祝宴が続く。江戸時代の結婚式が夜に行われるのが正式なもので、明治時代になってもそれが引き継がれており興味深い。
披露宴の料理
 井上家の披露宴の献立は最初に膾、白髪大根・赤貝・鯛細切りとなっている。めでたい食材鯛、大根も「白髪になるまで夫婦睦まじく」と白髪大根が使われている。
 次の汁は味噌汁と思うが、嫁菜や赤貝が入っている。
そして、少し深い御坪皿に入った焼きしんじょ、木耳の料理。次に御平=鰆の一塩、しんじょ麩、椎茸が平皿に盛られる。次が菓子椀、縁が少し高い器にお菓子が盛られてくる。
 お菓子だけでなく煮物なども盛ったようだ。内容を見ると「切り身」とか「菓子椿花」となっている。どんな料理だったのか想像がつかないが、菓子椀には何かの切り身と「椿の花」という菓子が盛られていたと想像する。
 猪口の中に箸休め的に、現在、私たちも食する筍と烏賊の木の芽和えがある。
 当日は3月28日なので春の食材が使われている。
 次に組肴。「えび抱玉子、熨斗型厚焼き、かまぼこ、鶴菓子、はじかみ」とある。少し甘いもの・卵・かまぼこが盛られている。組肴とあるので色々なおかずを組み合わせて一つの皿に入れてあるのかと想像する。
 こういう一つの皿にのせて出てくるものは渋谷家で作られた写真集にも解説があり、そういう形式で料理を出すのが定番であったと考える。
 次に焼肴、鯛の浜焼き。めでたい食材ということで披露宴の料理に何回か登場する。次に酒の肴がいくつか出て、ここで休憩になり披露宴の座敷から退出し、しばらくして席に戻り、焼出し「いか・うど・兵庫えんど」、蛤の吸い物が出て、冷やし物「パイナップ」が出ている。現在ではパイナップルは珍しくはないが、明治45年ではハイカラで高価な果物。披露宴ということで使われたのかと思う。
婚礼の写真
 井上家の資料は文字による記録が主で、写真は残っていない。
 渋谷利兵衛の資料は、大阪の大家の結婚披露宴を伝統に則って行ない、それを写真に残しており明治45年の伝統的な婚礼の様子をて見ることができる。
 結納品を運ぶ結納道中の写真では、使者を先頭に、その後に結納品を担いだ行列が続く。到着した結納品はめでたい図柄の掛け軸がある床の間に飾られる。
 花嫁道具道中写真では、花嫁道具を長持ちに入れ花嫁の家から婚家へ運んでいく様子が写されている。
 荷物が嫁ぎ先に到着すると飾り付けし親戚や近所の方に披露する。
 着物、帯と和装小物類、布団、座布団、装身具類(当時は和装なので帯留が中心)、草履、宝石、お稽古道具、人形等が飾られる。
 船場の商家では娘が嫁ぎ先で、肩身の狭い思いをしないように、また一生着物、装身具類に困ることのないように支度をして持たせて送り出したといわれている。
大きな商家のもので、写真集のリストを見ると道具類の量は六百数十点と非常に多い。
『婚礼調度写真帖』の中に祝言を行う部屋の設えの写真があり非常に興味深い。
 床の間に幕を張り、中心の部分に「島台」というものがあり、両側に三々九度の盃を交わす時のお酒の入った瓶子が置かれている。
 手前には伝統的な飾りとして右に「置き鳥」雉、左に「置き鯉」が飾り付られている。
 雉は神様の使いの鳥、鯉は出世する魚と言われ祝言の飾り付けに用いられる。
 後は祝言、三々九度用に必要な三つ重ねの器と加え銚子、長柄柄杓が配置されている。
 現在は結婚式場でこの様な飾り付けがされている。
 『婚礼調度写真帖』による正式な披露宴の次第を説明する。
 井上家の記録では伝統的な形ではあるが、少し省略されている。
 『婚礼調度写真帖』によると祝言・披露宴は第五席まで行われる。
 第一席。夫婦の盃取り交わしを仲人と新郎新婦のみで行う。その後、一旦休憩をする。
 第二席。親子の盃、婚家の両親と新郎新婦がその親子の盃を交わす儀式を行い、続いて兄弟親戚と杯を取り交わす。
 井上家では新郎新婦の盃だけであったが、新郎新婦夫婦の盃、親子の盃、親族の盃と進むのが正式な形式である。ここで休憩に入り祝言が終わり、新郎新婦が衣装替えをする。
 第三席で新郎新婦と参列者全員で雑煮を食べてお祝いをする。
 『婚礼調度写真帖』よると雑煮の中身は、雑煮、熨斗餅、平の鰹・亀甲の形に切った大根、丁子芋、松葉昆布等、めでたい食材を使い、めでたさを意識している。
 雑煮で祝った後、休憩となり、新婦は再度衣装を替える。
 第四席からは祝宴、披露宴で食事になる。現在の披露宴とは違い、一晩、二晩かけて行われる。休憩を挟んで第五席の祝宴と延々続く、これが本来の披露宴の流れである。
本来の三々九度
祝言の盃だが、現在の三々九度は非常に簡略化されている。本来は三つの膳に三つの盃があり、三々九度で合計9回お酒を飲むのが正式なものである。
 各膳にはそれぞれ肴が用意されている。
 初献にはクラゲ、梅干し、生姜、栗、二献目は数の子とか鯛のお造りとか生姜、塩など、三献目、スルメ、生姜、鯉・塩、カラスミと記録されている。
 これを肴にして、各膳三つ重ねの盃でお酒を3回、合計9杯いただくのが、正式な三々九度である。肴自体はそんなにおいしいものではない。
 これが夫婦の盃だけではなく親子、親族兄弟の盃と続き、盃事だけでも時間がかかる。
 休憩後、雑煮でお祝いをする。祝言、披露宴に時間をかけていたことがわかる。
婚礼にかかった費用
 井上平兵衛家文書に婚礼の費用が詳細に書き残されていた。分析すると大きく五つに分けることができた。
1.衣装装身具類の費用
 井上平兵衛家は婿入り婚だが、嫁入り道具にあたる費用は全体の1/3を占めた。内容的は婚礼用の衣装、結婚後も使える礼装用、普段着の和服、襦袢・帯、帯揚げ・半襟、寝間着、腰ひも等細かいものまで用意されていた。当時和装であったが懐中時計・指輪・腕時計なども用意された。明治時代に男女のペアウォッチがあったことが興味深い。
2.住居費や家財道具
 井上家の朝子は長女なので家に残る。井上家の蔵を改装して新郎新婦の離れにした。その工事の費用、後に洋室を作ったことが資料から判ったが、カーテン、ランプも購入している。それから座布団を二十帖用意しているが、六畳程の座敷しかなく、座布団二十帖は敷けようが敷けまいが花嫁道具として必需品だったと思われる。
3.儀礼用品
 祝言の間設えのための道具、三宝や盃、折敷、雄蝶・雌蝶の飾り。
 これらを当事者で用意する必要があった。
4.食材
 披露宴を自宅で行っているので食材も準備する必要がある。仕出し屋に支払う料理代、菓子、お酒の代金、器も新しく披露宴用に買っているようだ。
5.祝儀、謝礼
 かなり支出されている。祝儀はもちろん貰うが、各方面への連絡、物品の手配を依頼した代理人に祝儀を渡している。そういったものも全部記録されている。
 支出総額と件数は、記録に残っている分で141件、費用総額とは899円20銭。現在の金額に換算するのは非常に難しく一概には言えないが、当時の諸物価から換算し2500万から3000万ほどと推測される。当時の船場の豪商の嫁入り支度にはそれくらい高額な費用がかけられていた。
 祝儀について、明治と現代を比較すると非常に面白い。当時も祝儀は現金が多かったようで、祝儀の約半数ぐらいの人が現金であった。現金5円~10円ぐらいが贈られている。現金に品物を添えている場合もある。品物はずっと使えるもの、おめでたいものということで紋のついた風呂敷、扇、帯等が添えられている。品物の中で高価なものでは桐のタンス、桑の鏡台、針箱等を、現金に添えて贈られるという方もいた。
 商品券も祝儀として結構あり、面白いと思った。商品券といっても今の商品券のように何でも使える金券ではなく、使途が決まっているもので、多いのが呉服券。後、酒券、すし券、鰹券等。鰹券は渋谷商店の鰹券、沢の鶴の酒券、小大丸の呉服券等。名の通った老舗のものなら間違いないという当時の船場の考え方が表れていて面白い。
 お祝い品には婚家と相談の上と思われる花嫁の婚礼用の髪飾り、櫛、笄、帯がある。
 その他、生魚・生貝が贈られている。28日の披露宴に使ってもうらおうという意図なのか3月25日に贈られている。実際にこれを活用したと思われる献立がみられる。
 祝儀の数は全部で48件。個人、グループ、団体と様々である。
 披露宴招待客15名に対して48件の祝儀を貰った。ほとんどが井上家当主の井上平兵衛の関係者からのもの。当時の結婚は本人同士よりは家と家の結びつきが強く、それが祝儀にも反映されている。
 祝儀の返礼と「進上」と書かれた記録が帳面にまとめられている。
 祝儀の返礼は、1/10の金額に、袱紗と菓子を添えてお返しをしている。現物の場合は推定額が書かれてあり、その1/10を返しているのが記録されている。
 「進上」というのは婚礼に特にお世話になった方への謝礼として支出したもので、例えば仲人には謝礼金とは別に、渋谷商店の鰹券を送っている。又、何かと手配した代理人には一円の現金、丁稚、女中にも謝礼金を支払いしている。その他、手伝ってくれた人には高島屋や、そごうの呉服券を渡している。
 これから結婚の予定や可能性のある親戚には、祝言で使った飾り、熨斗アワビ、雄蝶雌蝶の飾り等を贈っている。面白いのは高島屋やそごうの呉服券、沢の鶴の酒券等、誰かから祝儀としてもらったものを、別の人にお礼として渡している。ここに合理的な大阪の商家らしい考え方を感じる。
 昭和14年の広野家と浮田家の婚礼の資料を紹介したい。
 写真を見ると結納の飾りは渋谷家のものとほとんど同じで、昭和の14年になっても結納品は、床の間に掛け軸を掛け、島台に目録ともにきちんと飾られている。
嫁入り道具の荷飾り。廣野家の娘のかつに用意された着物類や花嫁衣裳がある。
 他に装身具、人形、身の回りを飾るもの、箪笥4本。桐の箪笥や、姿見と鏡台、手元の小さな箱類も飾られている。
 今までの写真は古いものだったが、一昨年今昔館の展覧会でカラー写真を展示した。
 装身具の一部、帯留め、クリップとあるがこれはブローチのことで、装身具類を納めるための手元箪笥は、桐の箪笥に螺鈿細工が施されていて非常に綺麗な箪笥である。
 昭和14年の結婚式の写真では、挙式は住吉大社で行われた。井上家、渋谷家記録の明治終り頃は自宅で祝言や披露宴をしていたが、昭和の14年には神社で結婚式を挙げ披露宴は船場の綿業会館のホールで行っている。結婚式披露宴の進め方が変わった。
 明治45年~昭和14年の間に参列者の服装が変化したことがわかる。女性は和装と変化はないが、男性は洋装の人もみかけられる。
 船場の風習として、嫁入り道具には嫁の実家の家紋を入れる(女紋)。嫁入り道具は全部荷物目録に書き込まれている。これは嫁に出す娘に対する実家からの財産分けという意味があったようだ。婚家ではその立派な道具を入れるために嫁のために専用の蔵を建てそこに収めた。目録の品々は、嫁ぎ先に入っても嫁の財産で、万が一離婚して生家に戻る時は目録にある品全部それを持って帰ったといわれている。女紋を入れるのも「嫁の私財」を証明するためという説もある。船場の風習を調べていくと非常に面白い。
 浮田家は嫁が持参した道具を使うのは、男のプライドが許さないと一切使わせず、保管したため、廣野家で用意した嫁入り道具が綺麗に残った。日常のものは使ったが、着物、道具等高価なものは大事に保管した。船場から帝塚山に引越しした時も、嫁入り道具を全部移動したので、幸いにも空襲にも遭わず、きれいな状態のまま今まで残った。

まとめ
 大阪商家の婚礼は江戸時代から、船場の豪商を中心に武家の婚姻儀礼に倣って、華やかに行われてきた。実家の親は娘が一生不自由しないように立派な嫁入り道具を調えて荷物目録を添えて送り出した。
 これは娘への財産分与の意味が強かったということ。婚家では専用の蔵を作って花嫁道具を収めたといわれている。花嫁用の蔵を建てる財力がなければ、船場の商家から嫁を迎える資格がないといわれていた。船場商家の人は同じ船場の中で嫁を貰うのが一つのステータスで自分の実力を示すことにもなっていた。
 このような船場独特の風習や伝統的な婚礼は、第二次世界大戦をはさんでほとんど見られなくなってしまった。渋谷利兵衛商店の当主も、最近では本当に結納をきちんと取り交わすような人は非常に少なくなっていると仰っていた。ただ、今はそういったものは見られなくなっているが、かつての船場の商家が調えた嫁入り道具は非常に豪華なものだった。着物、宝飾品、家具調度などは職人が技術の粋を尽くした工芸品といわれるようなレベルのものであった。そういった豪華な支度をするという習慣が伝統的な工芸技術が継承され、職人の育成に役割を果したという面もある。今そういった婚礼が少なくなり、日本の伝統的な工芸技術、生活文化が継承されなくなってきている状況を見ると少し寂しく思う。
 今回、船場文化にこういったものがあったということを皆さんにお話しすることができて私個人としては非常に良かったと思う。以上




平成30年6月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


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