第5回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成28年10月20日

戦国時代の女性たち




京都橘大学名誉教授
田端 泰子

  

講演要旨
     毛利元就の妻「妙玖」や、娘「しん」、伊達政宗の妻「愛姫」や実母「義姫」など有名な武将の妻の生き方を検証するとともに、下級武士の娘「おあん」の体験や庶民の女性の生活にも触れ、戦国時代とはどういう時代だったか考えます。
 
   
         

「北政所」の実名と「おね」の生まれた年
 戦国時代の女性達の話をします。確かな歴史書には、男性史の史料は多いのですが、女性の史料は少ないのです。歴史学を「ヒストリー」と言いますが、ヒズとは彼ですから、男性の歴史が歴史一般だと考えられていました。1970年代頃から女性の歴史が必要なのではないかということでウーマンリブが湧き上がってきました。
 今日は、北政所「おね」の生涯とその役割についてお話します。
 「おね」の実名は色々ありまして、今までの学説では「ねね」と言われることが多かったのですが、1990年代頃に「おねい」「ねい」「ね」の実名説が出てきました。しかし私は「おね」ではないかと思います。その根拠は、秀吉が「おね」宛に書いた書状には、かな文字で「おね」と書いてありますので、身近にいる秀吉がどう呼んだかと言う事が大事なので、「おね」ではないかと思っています。
「おね」の亡くなった年は1624年ですが、史料では亡くなった時の年齢が76歳、82歳、83歳の3説があります。それによると「おね」の生まれた年は、天文11年(1542年)、天文17年(1548年)、天文18年(1549年)の3説になります。秀吉との結婚式の記録から考えると、秀吉と5歳違いの天文11年生まれではないかと私は思います。

「おね」の実家杉原(木下)家
 「おね」の実家は杉原氏で、木下家と親戚筋になりますので、のちに木下家とよばれるようになります。「おね」のお母さんは朝日といいます、この人が杉原家の跡取りで父定利は入り婿なのです。「おね」の甥に小早川秀秋(関ヶ原合戦で裏切りをした人)がいます。朝日の妹に七曲がいてこの人は浅野長勝と結婚しています。
「おね」と木下藤吉郎の結婚
 藤吉郎が生まれた年ははっきりしていまして、藤吉郎25歳ですので、「おね」20歳と推定しています。
 「おね」と藤吉郎の結婚について、朝日は初めは反対していました。藤吉郎は信長の足軽で身分が低いのです。いつの時代でもそうですが、母として娘は玉の輿に乗ってほしいのです。
 それを見かねて浅野長勝、七曲夫妻が母朝日を説得して、結婚にこぎ着けたのです。そのことで藤吉郎は浅野家に恩義を感じて、のちのちまで引き立てています。
 婚姻式の様子は、「土間に素描藁に、薄縁を敷いて」結婚式を上げたとおね自身が述べています。藤吉郎の家には板敷の部屋しかなく、非常に質素な結婚式でした。

長浜時代の「おね」
 
天正元年(1573)信長が浅井氏を攻略した後、江北三郡は藤吉郎が拝領し、その時姓を羽柴藤吉郎と名のりました。その場所に、天正2年藤吉郎は長浜城を築城しています。その時加藤清正、福島正則らを家臣にし、名前を木下から羽柴に改姓しています。
 秀吉が長浜城を留守にしている時、「おね」が秀吉の代理として城と城下町など領国を守っています。

「関白」と「北政所」
 秀吉はどんどんと昇進し、天皇から関白をもらう事により「おね」の位も上がり、役割が急激に拡大しました。
役割としては
  関白の正室として、天皇家との日常のおつきあい
  養子・養女の養育と教育
  家臣や女房衆を統率
  大名家への気配りや交流
 以上のことを成し遂げた「おね」の力量はすごいものだったといえます。

天正18年の秀吉の北条攻め
 天正17年末、秀吉は小田原征伐を発令します。関白としての秀吉が征伐することは特異な事です。秀吉は小田原に行くのですが、ちゃちゃ(淀殿)を「おね」を通じて呼びよせています。

「おね」への所領給与
 天正19年、秀次を関白にした後、秀吉は太閤になります。
 天正20年3月秀吉は朝鮮征伐の為に名護屋(九州佐賀)に行く三日前に、大坂城の南側の領地を「おね」に生前贈与しています。

醍醐の花見
 慶長3年(1598)3月15日に醍醐で花見があり、その時に盃の順番を巡って、淀殿と松丸殿で「盃争い」がありました。その時に仲裁したのが「おね」と「まつ」でした。そのことから、引き続き正室として高い地位を保持していたことがわかります。
 その年の8月に秀吉は亡くなっています。

後家尼時代
 秀吉が亡くなった後、「おね」は尼姿になり、京の高台寺に入ります。
 淀殿が秀頼の後見役になり、「おね」は秀吉の菩提だけを弔う立場になり、京に退いたのです。

大坂城落城後の「おね」
 元和元年(1615)4月に大坂城が落城(夏の陣)し、5月15日に豊臣家が断絶します。そのすぐ後に、「おね」が伊達政宗に、【大坂の御事ハ、なにとも申し候ハんすることの葉も御入り候ハぬ事にて候】の手紙を出しています。という事は、「おね」は夏の陣の後も朝廷やお公家さん達に人脈があったことを示す手紙ではないかと思います。

北政所「おね」の役割
 秀吉の生存中は夫の留守を守り、豊臣政権を支える役割をしてきました。秀吉死後は秀頼の後見役を淀殿に譲り、後家として秀吉の菩提を弔いました。いいかえれば秀吉生存中も、亡くなってからも、豊臣政権の「かかさま」としての役割を果たしたのではないかと思います。

これでわたしの講座は、終わります。




平成28年10月 講演の舞台活花



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