第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成27年6月18日

災害の日本史
中世の大阪を中心に




大阪樟蔭女子大学名誉教授
小西 瑞恵

 

講演要旨

(1995年1月17日の)阪神・淡路大震災や(2011年3月11日の)東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)等の地震災害によって、日本列島は地震の活動期に入ったといわれる歴史学の立場から、過去にどのような災害が起きたか、また、どのような人々が地域を復興・再生してきたかを考える。
 

1 はじめに
 みなさん、こんにちは。小西瑞恵と申します。
 日本史、特に中世史を中心に勉強している者です。
 今日は、「災害の日本史―中世の大阪を中心に―」ということでお話したいと思います。1995 年の「阪神・淡路大震災」や2011年の「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)」など、日本列島は地震の活動期に入ったといわれます。そこで歴史学の立場から過去にどのような災害が起きたか、また人々がどのように地域復興、再生をしてきたか、説明していきたいと思います。

2 繰り返す災害の歴史
 繰り返す災害ですが、「東日本大震災」は日本にとって未曾有の大災害でした。地震規模を示すマグニチュード(以下 M)は9.0です。この9台というのは世界的に見ても非常に珍しい巨大地震です。地震学の方ではM7.8以上を巨大地震と規定しているようですが、8を超えると大変な被害が出る。9を超えると未曾有の大災害になる。実は歴史上、これまで9を超える巨大地震は数えるほどしか記録にはありません。その中で一番規模の大きかったのは1960年のチリ地震です。日本にまで津波がやってきて被害をもたらしたので有名ですが、これが9.5で、一番大きいとされています。最近では、2004年のインドネシア・スマトラ地震。M9.0〜9.1で、東日本とほぼ同じ規模でしたが、東日本は死者・行方不明者2万1千人以上。インドネシアは死者・行方不明者22万人以上といわれています。簡単に比較はできませんが、同じ地震規模でも地域によって被害は随分違います。1964年のM9.2のアメリカ・アラスカ地震は地域特性上、被害はさほど出ていません。
 「東日本大震災」は貞観の大地震以来の千年に一度の規模ともいわれましたが、実は青森と岩手両県の太平洋沿岸・三陸沖では度々地震が起きています。震源地は沿岸から約200キロ沖の日本海溝沿い。内陸部を襲う大津波が発生するため歴史上「三陸沖地震」という固有名詞があるほど何回も起こっています。記録に残るものとしては、貞観11年5月26日(869年7月13日)の地震がM8.3で、毎年発行される『理科年表』に載っています。三陸沖では、その後慶長16年(1611年)、延宝5年(1677年)3月・10月に2回、寛政5年(1793年)にも大地震があり、Mは7.9から8.2でした。大変な被害をもたらしたことは確かですが、時代が古いほど記録は限定的でその実態はなかなか分りません。明治29年(1896年)6月15日のM8.2の三陸沖地震では、津波が北海道から宮城県の牡鹿半島に至る海岸に来襲し、死者数は2万1959人。昭和8年(1933年)3月3日の地震はM8.1で死者・不明者が3064人となっています。
 このように地震災害、津波災害は繰り返し起きていることをまず知っていただきたいと思います。大体百年から百五十年に一度ですので、人間の寿命を考えますと一人の人間が経験するかしないかは微妙なところで、巡り合わせで違ってきます。経験した人は被害の体験を語り継ぐのですが、それが続かないのはこの微妙な災害の周期も関係していると言えるようです。
 ここまで東日本、三陸沖地震の話になりましたが、これは私たち西日本、関西にとっても無縁なことではありません。大地震はプレート(岩板)とプレートの境目で起こるのですが、日本は太平洋プレート、南のフィリピン海プレート、それにユーラシアプレートの上の境目に位置していて、この地理的条件から仕方のないこと、宿命的なことなんです。2011年の東日本大震災の地域から南に下ると東海地震、東南海地震、南海地震が起こるだろうといわれる地域があります。一番の問題は南海トラフ。これはプレートの沈み込みで出来るもので海溝もそうですが、トラフは深さが4千から5千メートル。日本海溝は(最深部で)8千メートル以上です。いずれにせよ、東南海や南海地震が起こると大変な災害をもたらすことが分かっています。最初の実例が仁和3年(887年)に西日本で起きた地震で、貞観の地震の18年後に南海トラフ沿いで起きた巨大地震でした。
 当時日本の首都であった平安京で民家や役所の建物が倒壊して多数が圧死、摂津(大阪、神戸)の沿岸部に津波が襲い多数の溺死者を出しています。永長元年(1096年)には、畿内と東海道でM8.0〜8.5の地震があり、近江の勢田橋が落ち、京都の多くの社寺が倒壊、伊勢・駿河地方では大津波で民家400以上が流失という記録が残っています。1099年の康和元年には南海道・畿内にM8.0〜8.3の巨大地震があり、これは永長の地震に連動して起きたものと考えられます。

3 中世の巨大地震
 鎌倉時代に入ると、1185 年の文治元年に京都で激しい地震があり、藤原忠親の『山槐記』には、現在の岡崎公園辺りにあった法勝寺や法成寺が被害を被り、琵琶湖の水が北に流れて岸辺が干上がったり、田んぼが裂けて淵になったと書かれています。京都盆地北東部が震源地で、Mは7.4 ほど。鴨長明が『方丈記』に書き記したのでよく知られています。1293年の永仁元年には相模トラフを震源地とする強い地震が鎌倉地方を襲い、諸寺に被害が出たほか死者が数千人とも2万3千人ともいわれています。相模トラフ(相模舟状海盆)は日本列島を乗せたユーラシアプレートとフィリピン海プレートが接触する所で、これが動いたのが1923年(大正12年)9月1日の「関東大震災」。Mは7.9で首都圏を中心に10万5千人余りの死者・不明者を出しています。
 南北朝時代になると、1360年(延文55年・正平15年)にM7.5〜8.0の地震が紀伊・摂津を襲い、津波が熊野尾鷲から摂津兵庫に来襲。翌年も京都近辺で地震が多く、法隆寺のお坊さんが書いた『斑鳩嘉元記』によると1361年(康安元年)8月3日にM8.1/4〜8.5の巨大地震が畿内と四国を襲い摂津四天王寺の金堂が転倒、圧死5人。天王寺区にある安居神社の西浦まで潮が満ち、多数の人命が失われたとあります。『太平記』の巻36には、摂津難波浦が干上がり飛び跳ねている魚を拾いに行った海人数百人が大山のような波にのまれ生きて帰れなかったと書かれています。ところで年号に元年が多いことに気づかれたかと思いますが、これには理由があって、災害があると当時は朝廷が年号を変えていたからです。昔は年号を変えれば災害が収まると考えたようで、つまりは神頼みの時代だったのです。
 ここで6〜7世紀の大阪の地図を見てみましょう。南の方に狭山丘陵、7世紀に造られた狭山池も載っていますね。歴史地理学の先生である日下雅義さんの『古代景観の復元』という本に出ている有名な地図ですが、この頃の大阪の地形は今とは随分違います。元々縄文時代の大阪は海でした。今は存在しない河内湾がまるでロバの首のように入りこんでいました。2千年前の弥生時代の河内平野の地形は北に淀川、南に流れる大和川は藤井寺あたりで石川と合流して北上し河内湾に注いでいました。この二つの川から運ばれた土砂が堆積するとともに上町台地が北に伸びて河内湾の入り口を狭めたことで淡水化して、河内湖になっていきます。中世でも大阪は水面が多かったわけですが、何が言いたいかといえば大阪は地盤が非常に弱く、0メートル地帯があるように海抜が低いことです。しかも埋立て地が多い。そこで大地震があるとどうなるか。大きな津波が襲ってくる、埋立て地では必ず液状化が起こり、あちこちで水が噴き出す。これが現在の大阪の地形上の現実の姿なのです。
 室町時代には、明応7年、1498年9月20日に東海道全般にM8.2〜8.4の巨大地震が起きて、紀伊から房総にかけての海岸と山梨県の甲斐で大きく揺れましたが、特に津波の被害が大きく伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢志摩で溺死1万、静岡県志太郡で流死2万6千という石碑が残っています。ただこの数字は全国合計ではないかという説もあり、はっきりしていません。これは駿河・南海トラフ沿いに起きたプレート境界巨大地震とみられますが、南海地域でも地震が起きています。1707年の宝永地震と同様、東海、東南海、南海地域で同時期に起きた地震ということで最近注目されています。天下統一期に、近畿地方で二つの地震が起きています。1586年の「天正地震」、その10年後の1596年、慶長元年の「伏見地震」で、伏見では秀吉が築いたばかりの伏見城の天守閣の上半分が滑り落ち、京都では方広寺の大仏の左手や胸が崩れおちています。秀吉は1598年に亡くなっていますから晩年に当たりますが、上町台地にあった大坂城は被害が軽微でしたが、先程の地形と景観で分かるように周辺の低地にあった町屋は大半が倒壊。兵庫でも家々が倒壊し焼けたとあるのですが、地震考古学の寒川旭さんによりますと、神戸の発掘調査で焼土層が出ているそうです。強調しないといけないのは「伏見地震」で動いた全部、あるいは断層帯を構成する多くの断層が1995年の「阪神・淡路大震災」で活動したということです。400年後に大災害が巡ってきた。その間近畿地方は巨大地震、活断層による地震はそれほど動いていなかったので安心していたんですね。実は専門家は神戸で地震があるだろうということを警告していまして、調査報告書を出していました。ところが、兵庫県や神戸市の行政担当者は「それより台風や水害の方が怖い」と本気にしなかった。海を埋め立てて新しい土地を作って売るという株式会社的な行政運営をやっていたので災害があるということを言うのを極度に嫌がるのですね。これはどこの自治体でも同じです。私が災害史の話をしますと「そんなこと言ってもらうと困るよ」「地価が下がるから言わないでくれ」といわれることがよくあります。でもお金の問題ではなく、命に係わることですからね。こう言うと女性は賛同してくれるのですが、男性はそうはいかないようです。でも大災害が起これば経済的な損失は計算のしようがないぐらい膨大なものになりますし、そもそも人の命に値段はつけられません。福島のような原発被害があると後始末にどれだけのお金がかかるか、地域がどんな苦難を強いられるか、という観点で考えなければいけないと思います。
 淡路島に行きますと、「伏見地震」では活動しなかった野島断層、地面がはっきりとズレている所が展示されていますが、「阪神・淡路大震災」は野島断層によって引き起こされたというのが専門家の見解です。1605年2月3日(慶長9年12月16日)には、東海・南海・西海諸道を襲った「慶長地震」が起き、房総半島から南九州の沿岸部を津波が来襲。災害史の第一人者の北原糸子さんの『日本歴史災害事典』には「慶長東海・南海地震」と名付けて解説されています。

4 江戸時代の大地震
 1707年(宝永4年)10月28日には遠州灘から四国沖までの南海トラフ沿いの広い範囲を震源域とするM8.6の巨大地震が起き、「東日本大震災」までは、日本で規模最大の地震とされていました。津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲い、全体で少なくとも死者2万、潰家6万、流失家屋2万とされていましたが、最近になって実はもっと被害が大きかったことが分かってきています。水都大阪では、港にいた千石船が津波に乗って川や水路を遡上し、橋を次々と破壊しました。大阪の死者数は5千〜1万と推計されていましたが、2年前に矢田俊文氏によって発表された古文書の記録で死者は2万1千以上であることが分かりました。当時の大阪の人口は35〜36万人。実に6%の人が亡くなっています。この地震の49日後に富士山が噴火。現在も残る宝永火口はこの時に出来ました。
 1854年(安政元年)12月23日にM8.4の「安政東海地震」が起こり、さらに32時間後の24日には同規模の「安政南海地震」が襲ったのですが、近畿地方の二つの地震の被害は区別出来ません。運が悪いことに前日の地震で震え上がった人々が小舟に家財道具を積み込んで避難しようとしていたところに二つ目の地震が来たため多くの人が水上で亡くなりました。この『地震津浪末代噺乃種』に載る図は、津波で道頓堀川を押し上げられた大船が小舟に避難していた人々を跳ね飛ばしている様子で、宝永地震の際の教訓が安政地震で生かされなかったのです。

5 大阪の地震対策、備えはー
 さて、大阪の災害対策です。専門家は30年以内に南海トラフが動くと警告を出していますが、行政の対策はどうなのか。あらゆる備えをしておかなくてはいけません。ここ大阪狭山市は災害の記録がないということですが、確かに地形的に恵まれている所ですね。狭山池は過去何回か決壊していますが、いまはそんなことが起こる危険はないでしょう。しかし、私が住んでいる堺市や大阪市は土地が低いのでそうはいきません。行政も対応していくとは思いますが、怖いのは地下鉄でして水没する可能性が高いことです。
 教訓の一つとして挙げておきたいのは、安政南海地震の時の「稲むらの火」です。これは和歌山で、現在のヤマサ醤油のご先祖の浜口梧陵(儀兵衛)さんが東海地震のあった次の日、南海地震で津波が来るかもしれないということに気がついて稲藁に火をつけて逃げ道を示し地域の人々を救ったという有名な話です。篤志家であった浜口さんはその後救援基金を出して自費で堤防を作っています。このような歴史的事実を忘れている人が多いのですが、大阪にある安政地震の石碑とともに、大阪の学校教育の場に教材として取り入れていただいたら役に立つと思います。
 ここまでの話で分かるように巨大地震の多くが日本海溝付近で発生する三陸沖地震、相模トラフや駿河トラフ、南海トラフに至るプレート境界で起こる東海、東南海、南海地震が百年か百五十年ごとに繰り返し起きていることです。そのうちに巨大地震が来ることは間違いないということを知っておいていただきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。




平成27年6月 講演の舞台活花



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