第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成26年12月18日

黄金のパゴダの国ミャンマー
〜現地で見る民主化の動き〜




ミャンマー・マンダレーYMCA国際会員
惠美奈 博光 氏

  

講演要旨

2007年9月に日本人ジャーナリストのカメラマンが、ミャンマー軍兵士に至近距離から狙い撃ちされた驚くべき映像が世界を駆け巡りました。
1988年以降今の軍に支配されているミャンマーは2011年3月にタンシュエ将軍からテイン・セイン大統領に変わり、民主化へと大きな変化をしています。
2015年には総選挙が行われますが、今の政府がどう動くか、アウンサンスーチーさんが大統領になれるでしょうか、世界中が大きな関心を持って見守っています。

 

 はじめに
 惠美奈博光です。YMACA、ワイズメンズクラブの会員で、永年スモールスケールの会社経営に携わっています。
 12年前に腎臓がんで、右腎臓の2/3を切除しました。早期発見で、5年間経過後医者から「大丈夫」と言われ、現在こうして元気にしています。
 時間的に少し余裕が出来たため何か世間にお役に立ちたいと思い、1985年に訪問したビルマ、ミャンマーで日本語教師をすることを決心しました。
 ボランティアなので、交通費、滞在費は自己負担ですが、宿舎、滞在中の身分保障的なことは先方で責任をもってもらいました。
 2006年に初めて訪問し、2008年5月からミャンマーに滞在し、昨年帰国しました。 当時は軍事政権で、現地の情報がなかなか伝わってきませんでした。
 特に2008年5月ヤンゴンをサイクロンが襲い、大混乱の中、2日後にやっと、マンダレーに着きました。死者 行方不明が13万〜14万とも言われる、大惨事でした。
 本日はミャンマーの軍事政権時代から今日の民主化の動きについて、又、ボランティアを通じて見た現地の状況を話します。

ミャンマーの紹介
 「おーい水島、一緒に日本に帰ろう」。小説『ビルマの竪琴』の一説です。一昔前、ビルマと呼ばれた「黄金のパゴダの国」ミャンマーに私は一年のうち、6ヶ月〜9ヶ月滞在し、マンダレーYMCAで日本語を教える傍ら、運営面でもお手伝いをしています。学生は大学生、大学卒業した男女が大半です。
ミャンマーの概要
国名=ミャンマー連邦共和国。国土=日本の約1.8倍。人口=2014年3月現在 5,141万人、以前は6,200万〜6,300万人とも言われていました。
 周辺は南からタイ、ラオス、中国、インド、バングラディシュ、西にインド洋、ベンガル湾に囲まれています。首都 2006年よりネピドーに移りました。
 気候は、雨期=6/中旬〜10/中旬、乾期=10/下旬〜3/中旬、暑期=3/下旬〜6/初旬。今、丁度、乾期にあたり、一番いい季節です。ミャンマーでは4月17日前後がお正月になります。4月に各地でも水祭りが行われ、先生、お坊さん、会社の社長にも水をかけあいます。無礼講なので、水をかけられた方も笑いながら「ありがとう」と言う会話が交わされます。そして4月17日にお正月を迎えます。
 ミャンマーの宗教。仏教=85%、キリスト教=5%、他にヒンズー教、モスレム、土着のナッツ教があります。多民族国家で135以上の民族が住んでいます。主な民族はビルマ族、モン族、カレン族、カチン族、シャン族、インド系、中国系のミャンマー人もおり、少数民族の多く集まった国がミャンマーと言っていいでしょう。
 公用語はビルマ(ミャンマー)語ですが、英語も通用します。各民族が各言語、文化を持っています。ミャンマー人は語学に堪能な人が多いと言えます。
 ミャンマーから、小説『ビルマの竪琴』、映画『戦場に架ける橋』、軍事政権、第二次世界大戦のインパール作戦、民主化運動の指導者、アウンサンスーチーさん、経済成長のすさまじい国、そう連想されると思います。
 しかし、実際訪れてみると、ミャンマーは想像以上に多様な国です。広大な大地を包み込む深い緑、透き通るように青い空と白い雲、金色の寺院やパゴダが光り輝く光景、真赤な夕陽が大地と空を赤く染めて、世界三大仏教遺跡の一つである古都バガーンの幻想的な雰囲気に包まれた光景、私はミャンマーでこの様な光景を何度も経験しました。

ミャンマーの家庭と日常生活
 日本との大きな違いは、ミャンマー人は血族愛が深く、家族思いの人が多いと言う点です。部屋には、肉親、近親者の写真、肖像画が掲げられ、自分の子どもが大学の角帽をかぶった写真は大きな誇りとなっています。
 大家族主義で一家に親兄弟初め、一族十数人が住んでいるのはザラで、お金を稼いでいる人が一家の面倒をみるのが、ミャンマーの一般的な家庭です。
 「タナカ」と言う化粧品があります。柑橘系の木を大理石にこすり、できた白い液体を顔や頬にすり込みます。ひんやりとして気持ちよく、日焼け止め、ニキビや汗を抑える効果があり、子どもから大人、特に女性に使われています。
日常生活で日本と違っているところを、お話します。
@朝食は外食で済ます人が多い。ミャンマーの家屋は、火災を起こしやすい構造で、火を起こすのが大変だからです。お店のテーブルに、モヒンガ、ビーフン、春巻、あげパンが乗せられ、食べた分だけ支払うようになっています。
A履物は草履です。公式の場にも、民俗衣装に草履で出かけます。
B洗濯は町にある井戸を掘った公衆浴場で、女性が行水の終わった後に行ないます。
C停電、断水が日常的に起こります。事前予告はなし。停電、断水になると、各自対応しています。特に水は、井戸か池の水を汲み上げ、生活用水にしています。
Dミャンマーのお持ち帰り焼きそば。もやし、キャベツ、トマト、インゲンの野菜、鳥肉、内臓に味の素、塩を入れて混炒め、香辛料、麺をのせ、チキンスープかけ、ビニール袋に入れ持ち帰り、ご飯を一緒に食べる人が多くいます。
Eミャンマーの交通ルール。日本と違い右側通行です。日本では考えられないが、ミャンマーでは、飲酒運転してもお咎めなしです。私は2011年3月6日に交通事故に遭い右足の踝、お尻、大腿骨を負傷しました。ミャンマーにも救急車の制度もありますがお金がなければ来てくれないのが現状です。
 私の場合、加害者がタクシーで、マンダレーの中央病院に連れていってくれ、軍の将校、政府高官が入る特別室に一週間入院しました。
 加害者は若い妻帯者で、夫婦で厳しい毎日を送っています。私が訴えれば、彼はバイク没収、1年~1年半懲役になります。そのことを知った私は警察に念書を提出して、彼を許しました。
 彼は毎日のように病院に来て感謝してくれましたが、彼らにはお金がないので入院費は私が支払ました。入院費10万円弱。公務員の給料2年間分にあたり、驚きました。
Fミャンマー人は殺生をしない。町の中犬、猫、牛、豚、馬が歩いています。宿舎でネズミを捕獲し、従業員に処分を頼むと逃がしました。日本では考えられないことです。

現地で見る民主化の動き
 2011年3月軍事政権に変わって、新しい政権が誕生しました。タンシュエ将軍からテイン・セイン氏が大統領になり、現在も続いています。以来、情報がよく入るようになりました。経済面では、日本企業の進出。又、アウンサンスーチーさんの来日、安倍首相の訪問とこの数年間急激に変化していることに不安を感じ「大丈夫だろうか」と見守っています。
 2007年9月 日本人カメラマン長井健司氏がミャンマー軍兵士に至近距離から狙い撃ちされた映像が世界を駆け巡り、驚かされました。
 1988年以来、26年間今の軍によって支配され、言論・報道は厳しく制限されていました。アウンサンスーチーさんの15年に亘る自宅軟禁、政党の活動禁止、秘密警察の暗躍、不要発言者の投獄、インターネット・電話の妨害、TV・新聞は政府系。そんなミャンマーが大きく転換しています。振り返ってみると、私は「大きな転換期を現地でみることができたんだなぁ」と思っています。
 2011年6月 軍治政権はスーチーさんに政治活動を止めるよう通告しましたが、世論におされ、スーチーさんの動向、国内情勢は内外に伝えられて来ました。
 その後、テイン・セイン大統領は保守強硬派大臣更迭、改革派閣僚起用し、民主化を加速の布陣を打ち出し、日本、米国からビジネスマン、観光客、企業が出かけました。
 2011年月アウンサンスーチーさんは「8888民主化運動」の式典に参加しました。「8888運動」は1988年8月8日 当時のビルマ連邦社会主義共和国の独裁者、ネ・ウイン大統領を退陣に追い込む大衆運動の起こった日に由来したもので、ミャンマーの政治の大きな節目と捉えられ、知らない人はいない位です。
 この年テイン・セイン大統領は首都ネピドーで、スーチーさんと初めて会談しました。これ以降、政府は矢継ぎ早にソフト路線を打ち出し、9月にはスーチーさんの写真が店頭に並びました。当時、スーチーさんの話をする時、あたりを気にしながら、話していただけに、大変驚きました。
 10月、テイン・セイン大統領は、中国が建設進めている巨大ダムの開発中止を表明しました。中国の怒りを買いましたが、ミャンマー世論は歓迎しました。 又、2013年中に政治犯全員の釈放も明言しました。
 この2〜3年の動きは、私にとっても驚きの連続でした。現地の人々も半信半疑で見守っていましたが、歓迎しています。社会も明るくなり、政治的なことも、気にせず話せるようになり、喜んでいます。元々、明るい国民性なので、日本にいる学生も、民主化が進んでいる自国に自信が持てるようになってきました。
 一方、軍事政権の圧力が薄らいだことで、全体に緊張感が緩み、犯罪が増加しました。2008年に比べ、昨年、未成年者誘拐37倍、殺人1.7倍、強姦1.5倍、強盗1.8倍に増加しました。又、民族間の摩擦、衝突が起きるようになりました。今まで表面に出ていなかった住民の権利の主張で、反対運動も起こっています。

アウンサンスーチーさんと民主化運動について
 2011年秋、アウンサンスーチーさんは。政治に復帰表明をしました。
アウンサンスーチーさんは 1945年6月19日生れ、満69歳。父はアウンサン将軍、母はキンチーさん、祖母はスーさん。彼女はこの三人からとって名付けられました。ミャンマーでは名前は一生、変わりません。スーチーさんは三人兄妹の末っ子で、長兄アウンサンヌーさんは米国在住で、スーチーさんの政治活動には、あまりいい顔をしていません。次兄 アウンサンリーさんは幼い時に亡くなっています。
 父は1947年 スーチーさん2歳の時に政敵に暗殺されました。15歳の時、母がインド大使に就任、一緒にインドに渡りました。以来、28年間、外国、主に欧米で生活しました。オックスフォード大学に学び、ウタント事務総長時代国連にも勤務しました。
 1972年オックスフォード大学の一年後輩の英国人、マイケルアリス氏と結婚、二人の息子をもうけています。彼は英国諜報機関MI6のスタッフで、スーチーさんは逆ハニートラップにかかったのでは?との説もあります。
 1988年母の病気見舞いに28年ぶりに帰国しました。丁度「8888民主化運動」の最中で、彼女は国民民主連盟の書記長として、祖国の民主化の為にミャンマーに留まりました。外国生活が長く、半分英国人、半分ミャンマー人と言う人もいますが、国民的人気は絶大です。スーチーさんが大統領になれるか、どうか大きな関心事です。

ビルマの民主化について
 根本敬氏著『アジア読本』に「ビルマ民主化運動と言えば、アウンサンスーチーさんの名前が浮かぶが、当時、全ビルマ学生運動の議長 ミンコーナイン、副議長 コウコウジー、書記長モーティズインといった学生たちを忘れることはできません。彼らの活動が大衆を動かし「8888運動」に突き進んだのです。しかし民主化を進める中で、スーチーさんと学生たちの考えが食い違い一枚岩ではありませんでした。軍隊はその隙に乗じ、政権を掌握した」と言っています。
 その後、スーチーさんは総選挙で勝利しますが15年間軟禁されます。軍治政権は「民主化より国の安全を優先する」と民主化を拒否します。
 1991年ノーベル平和賞を受賞しますが、一旦出国すると、再入国が拒否されるので、授賞式にも出席できず、また夫の死に目にも会えませんでした。
 こうした歴史背景から「性急な変革ではなく、緩やか民主化」を望んでいる人びとも多いのではないでしょうか。

ここ数年間で見るミャンマー社会の変化
・ミャンマーの通貨チャット。2008年当時100$=125,000チャット。物価は日本の1/10。2013年100$=80,000〜85,000チャット。2013年後半〜現在、100$=95,000〜100,000チャット。物価が年1割〜2割上昇し、チャットは1/3に目減りしています。ドルで給料を貰っている人は大変な影響を受けています。
・町を歩く女性=ジーンズ、ホットパンツが目立ち、民俗衣装が少なくなりました。
・車=以前はポンコツ車でしたが、良くなり、日本メーカーの中古車が走っています。反面交通渋滞が増えました。バス、トラックは日本の社名が入ったまま使われています。
・道路=整備が進んでいる。マンダレー〜ヤンゴン700kmを以前は16時間かかっていましたが、現在は9時間で行けるようになりました。バス代は1,300円〜1,650円、飛行機で9,000円〜10,000円かかります。
・建設ラッシュ。
・スーパーマーケットの品数も豊富になり、一流の店ではカードも使用できるようになりました。
・テレビ番組=スポーツ、音楽、仏教講話、テレビショッピング等。但し全て政府のチェックが入っています。
・ビジネスマン=軍関係者の親族がビッグビジネスマンとなっています。国営事業は電力、石油、鉄道、郵便等です。
・ホテル事情=3年前は閑古鳥が鳴いていましたが、今は満室状態。物価上昇が著しく、料金は日本並です。ビジネスマン、観光客が世界各地からやって来ています。

これからの課題
@人材育成。トップダウンに慣れ親しんだ所為か主体性がありません。自分で考えることが苦手。私自身、自分の意見を出す教育を進めていますが、なかなか難しい。
Aインフラ整備。電気、水道、道路整備、町全体の整備はまだまだの状態。鉄道整備も含めこれからです。
B少数民族との和解。135以上の民族、宗教間の対立。各地で起こっている住民デモ等多くの課題を残しています。
C軍事政権の持つ利権。軍関係親族が関わっている大企業。これらをどう一般人に移していくか。又、賄賂の習慣を断つことができるか?
 日本は過去、援助を行ってきましたが、20年のブランクがあります。その間、中国、韓国が、ミャンマー市場を抑えて来ました。今後、どれだけ日本企業が追いつけるか?ミャンマー政府は中国一辺倒から「自力で頑張る」と言う姿勢を見せながら、日本や欧米に急接近しています。ミャンマー政府のしたたかさが窺えます。
 ミャンマーは親日家が多く、お互いに組んで問題はないと思います。
 2015年に総選挙が行われます。スーチーさんが大勝した場合、軍治政権がすんなり、政権移管するでしょうか?又、アウンサンスーチーさん側に統治能力が備わっているでしょうか?ミャンマー憲法では「正副大統領の親族が外国籍であってはならない」と規定されています。この辺りも見所です。大統領候補として、アウンサンスーチーさんは勿論、下院議長のトラシュエマンさん、テイン・セイン現大統領が予想されます。
 色々な波乱も含みつつ、益々、民主化が進むミャンマーは将来に多くの可能性、ビジネスチャンスを秘めています。日本との関係も深まって行くと思います。これからのミャンマーに注目してください

ミャンマーの歌「シャブノミナジ」
 ミャンマーのお正月前に行われる「水祭り」は若者が集まり、恋の芽生える場でもあります。偶然、出会った若い二人はお互い一目惚れしますが、彼女の連絡先を書いた紙を水で濡らし、連絡を取ることが出来なくなりました。諦めきれない彼は翌年の水祭りの出かけ、彼女を探し歩きます。そんな歌です。日本の歌と少し違うと思いますが、お聞きください。


  「シャブノミナジ マンディルカヤケビ ・・・   ♪ ♪ ♪                      ママニドカタラレビ」

(映像で見る日常生活)《スライド》
@国旗…2010年に現在のものに変わりました。
Aアウンサンスーチーさんの遊説…2012年3月撮影。翌月の総選挙で大勝利しましたが、当時と比べると、スーチーさんに対する国民の気持ちはトーンダウンしています。
Bミンコーナイン…民主化運動リーダー、ビルマ学生連盟議長。スーチーさんに次いで、国民的人気があります。20日程前に来日し、「長く独裁軍治政権を経験している我々は自らの手で、民主的な社会を築くために何をすべきか」を強く訴えていました。
Cマンダレーの風景…王宮の町と呼ばれています。
Dミンドン王の祝宴…ビルマ最後の王1853年即位。当時の民族衣装着たイベント。
Eマンダレーの市場・マンダレーの夕陽
Fマンダレー街美化運動…2009年開始。大阪なにわロータリークラブ会長として、御堂筋で実施していたのを思い出し、マンダレー市に提唱し賛同を得て実施しました。
Gバガーンの風景…1044年、ビルマ族によって最初に統一された王朝。1287年チンギスハーンに攻め込まれるまで栄え、エラワジ河流域には、大小2,000〜3,000のパゴダがあります。
H教室風景…2008年から教えました。学生数約150名。日本にあこがれているので、日本語の上達が早い。日本の歌を通して、楽しく教えています。
Iミャンマーの結婚式…招待者1,200名位。簡単な料理で新郎新婦の挨拶を受け、短時間で帰って行きます。お祝い返しにうちわがもらえます。
J葬式…「必ず出席してくだい」と案内状が来ます。
Kバースデーパーティー…誕生会を迎える人がごちそうするのが、習わしです。
L中古部品…錆を取らず、日本製であることが、わかるようにしています。
M溶接…道端で、昔ながらの作業をしています。
N道路建設と高速バス…手作業で道路つくりを行っています。バスは日本車、韓国車が目立ちます。ゴールデンロック=金箔を施すところは、男性しか立ち入れません。
Oインレイ湖…南北22km、東西12kmの風光明美な湖。乾期には南北15km、東西6kmになります。
Pヤンゴン…2006年迄の首都。英国植民地時代の建物が多くあります。
Q得度式…敬虔な仏教国で男子全員、僧侶になるよう、勧められています。
Rミャンマーで見た珍事…ニシキヘビの排尿、排便。
Sモスレムのお祭り…牛が神に生贄として、捧げられます。

最後の写真=ウーペイ橋の夕陽をご覧になりながら、お話を終わりたいと思います。長時間のご清聴ありがとうございました。

  

  


平成26年12月 講演の舞台活花



活花は季節に合わせて舞台を飾っています。


平成24年3月までの「講演舞台活花写真画廊」のブログはこちらからご覧ください。
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