第10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成25年3月21日
民際交流がつなぐ未来への希望
日朝民際交流への一つのチャレンジ




公益社団法人日本ユネスコ協会連盟理事
元帝塚山学院大学文学部教授
同大学国際理解研究所所長

米田 伸次 氏

 

はじめに
 1ヵ年前、当講座での話しをお引き受けしました。その際、すでに皆さんのお手元に届いているテーマで話をさせていただく予定でした。しかし、この1ヵ年、わが国をとりまく北東アジアの国際情勢に大きな変化が生じてきました。丁度いま、私、この地域で国際交流のプロジェクトに取り組んでおり、この厳しい北東アジアの現実に直面しつつあります。そんなこともあり、講座事務局のご理解をえて、今日は表記のテーマでお話させていただくことにいたしました。皆さんのご理解をいただければと願っています。

中国の人々との出会いから
 私は大学を卒業後、学校の教員(中・高校、大学)のかたわら、ユネスコの活動やさまざまなNPO/NGO活動、国際交流活動に取り組み、またいまも取り組みつつあります。国際交流活動については、その主な対象は、北東アジア(中国、韓国、北朝鮮)です。こうした私の国際交流には2つの共通点があります。その一は、交流の相手国がかつてわが国が侵略し、いまも私たちの歴史認識が厳しく問われている社会主義の国が中心であること、その二は、青少年を対象にした交流活動であることです。
 ところで、先ず私がこうした北東アジアの国々との交際交流に取り組むようになった出発点、原点について少しお話しておかねばなりません。大学卒業後も現代中国の研究を続けていた私は、1967年、日本と正式な国交のなかった中国(中国社会科学院)から招かれ中国をはじめて訪問することになりました。当時の中国は、歴史上有名な文化大革命がはじまった初期の頃です。私は約2ヶ月間中国に滞在、さまざまな体験をすることになりましたが、その一つに、中国の河北省の石家荘という地域の農村の訪問がありました。かつてこの一帯は日中戦争の時代、日本軍によってひどい略奪を受けたことで有名なところです。私は通訳の唐家璇さんと2人で李さんという農家に民宿させていただくことになりました。日本のメディアから訪中の原稿を依頼されていた私は、これは好機と、李さんに日本軍の具体的な略奪の体験を聞き出そうと必死にトライしました。口の重い李さんをやっと口説いて耳にした話はとてもここで申し上げられないほどの想像を絶する内容でした。「同じ日本人として申し訳ない」という私に、李さんは「悪いのは日本の軍国主義者たち。先生は謝る必要などない、こんどは、先生の中日友好運動について話を聞かせてほしい」と問いかけてきました。この李さんの一言が、私に「私にとっての中国研究とは」、「私は何のために中国へ来たのか」を自らに問いかける契機を与えてくれたのでした。私はこの訪中を契機として、日本と中国の青少年交流を私のライフワークのひとつとして取り組むことになりました。1970年代は、数度にわたるさまざまな若者たちの日中交流に責任者として取り組みました。例えば身体に障害をもつ若者たちが作った詩に若者たちがフォークのメロディをつけて歌う「わたぼうしコンサート」活動、ユネスコ活動をする高校生や日本の社会活動の青年達の訪中などさまざまでした。時間の関係でこうした交流の中でのエピソードは割愛させていただきます。日中の交流が必ずしもスムーズにいかなかったこの時代、私の日中交流を支えてくれたのは、最初の訪中のとき私をずっとサポートしてくれたのは、のち中国の外務大臣、副総理になられた通訳の唐家璇さんでした。

北朝鮮人道支援にかかわる
 1980年代の私の北東アジアとの交流の中心は韓国でした。これについてもさまざまな交流の展開がありましたが、これも割愛させていただき、本日のメインテーマの北朝鮮との交流に話しを進めさせていただきます。私の北朝鮮との直接の交流は2005年より始まり、現在も続けており、この間私は5回北朝鮮へ行きました。今日、北朝鮮にはミサイル・核開発、拉致問題を中心に関心が高まり、また北朝鮮に厳しい批判の目が向けられています。北朝鮮についての情報は決して少なくありませんが、5回も訪問した私にとっても正直真実はよく分かりません。なるほど首都平壤(ピョンヤン)については、それなりに説明できますが、それもピョンヤンのすべてではありません。ピョンヤンはあくまでも北朝鮮の「ショーウインドウ」でしかありません。北朝鮮の人口は2,400万人、ピョンヤンの人口は325万人ですが、ピョンヤンと地方とは、経済をはじめあらゆる面で格差があり、地方の人々は勝手にピョンヤンに住むことはできません。
 ここで気になるのは意外と北朝鮮についての基本的なことが知られていないということです。例えば、北朝鮮は国連だけでなくユネスコ、WHOなど国連のすべての専門機関に加盟しています。国連に入っている194カ国のうち、162カ国が北朝鮮と国交を持ち、そのうち100カ国がピョンヤンに大使館を置いているのです。なかには、現在、北朝鮮は行くことができない国と思いこんでいる人もかなりいるようです。現在、日朝間は国交が正常化していませんから、中国の北朝鮮大使館でビザを取得のうえ、北朝鮮へいくことは制約はあるものの決して不可能ではありません。
 ところで、私が北朝鮮に関心を持ったのは、かつて国連職員であったユネスコ運動の盟友が取り組んでいた北朝鮮人道支援に1990年代後半からかかわったことがきっかけになっています。北朝鮮では、1983年に食糧危機が表面化し、1994年8月には、北朝鮮の建国者金日成主席が死去します。1995年~98年に国連をはじめとしてアメリカや韓国、日本など国際的な支援の活動が始まります。実はこの食糧危機の原因は大水害にあり、森林の伐採、無理な土地の開墾など、北朝鮮の政策に誤りがあったことは明確です。そもそも人道支援とは、政治的な立場を抜きにして、率直な「苦しむ人びとを助けたい」という心情的なところに基本があり、この考え方は国際的に共有された常識であり行為です。具体的には、戦争、内戦、自然災害など国や地域への水、食料、住居、医療などの面で行われるのが世界的傾向です。しかし、日本の北朝鮮への人道支援は、ミサイル・核開発、とりわけ拉致問題などのため最初から大変難しい活動でした。

ミサイル・核開発と拉致問題
 1990年代後半に北朝鮮人道支援にかかわり、最初に北朝鮮に行ったのは2005年4月です。当時は、ミサイル・核開発、拉致問題をめぐって北朝鮮は、わが国をはじめ国際社会で厳しい批判の的になりつつありました。ここで少し、当時のこうした問題についてみておきたいと思います。
 当時、多くの人びとがミサイル・核開発に対して(今日もそうですが)が思っていた疑問は、「なぜ、北朝鮮は、民衆を犠牲にして、また国際的批判と経済的制裁を受けてまでミサイル・核開発をするのか」です。こうした疑問は、人道支援活動にかかわっていた私も最初から持っていました。この疑問を解くヒントの一つは、朝鮮半島のおかれている現状の理解にありそうです。それは、朝鮮半島ではかつての朝鮮戦争はまだ終わっていない、いま休戦下の厳しい状況にあるということです。韓国にいる米軍からいつ攻撃を受けるか分からない、韓国には米軍の核があるという現実に北朝鮮が向き合っているということです。北朝鮮に言わせれば、ミサイル・核開発は、こうした厳しい現実の中で自国を守るための対抗手段だというわけです。また、北朝鮮のリーダー金日成氏は、すでに1970年代から核開発を考えていたようです。エネルギー資源のない北朝鮮では、原子力発電に頼らざるをえないという事情もありました。
 1997年8月、北朝鮮は、平和利用の名目で人工衛星と称してミサイルの発射実験を断行します。これは国際社会の非難を受け、北朝鮮のミサイル問題は国際社会の新たな争点となってきます。そこで、朝鮮半島の冷戦体制を終結させ、この地域を非核化し、北東アジアの安全保障の枠組みをつくっていくことが、喫緊の課題となってきました。こうして2003年には、米国、中国、北朝鮮、韓国、ロシア、日本の六カ国がこの地域の安全保障のシステムづくりのための六者協議を立ち上げます。そして2005年には、朝鮮半島の非核化をめざした「共同声明」を発表します。これは歴史的に大きな出来事でした。丁度、この年、私は第1回の訪朝を実施しています。しかし、日本と北朝鮮の間には、ミサイル・核開発とはまた違った新しい拉致問題が出てきました。拉致問題はすでに1990年頃クローズアップしていました。それでも、日朝の国交の正常化に向けて1991年には両国に動きが出てきます。しかし、残念ながら、この動きは、拉致疑惑や核保有疑惑などもあり継続していきませんでした。こうしたなかで、2002年9月、当時の小泉首相が北朝鮮を訪問して日朝首脳会談を開きます。この戦後はじめての日朝両国の首脳の出会いの中から、その後の日朝間に大きな影響を与える2つの動きが出てきます。その一は、「日朝平壤宣言」が採択されたことです。ここには、「国交正常化の早期実現」「過去の反省とおわび」「賠償としての経済援助」の3点が盛り込まれています。今後も日朝間のあり方を考えていくとき、この「宣言」は出発点になるものです。その二は、北朝鮮側が拉致を認めたことです。この背景には、経済的なピンチを国交正常化による経済援助(賠償)によってしのごうというところにその目的があったことは確かです。しかし、このことは裏目に出て、拉致問題の解決をめぐって日朝間の国交正常化は遠のいてしまいます。拉致問題は日本の人びとの国民感情を反北朝鮮に向かわせ、わが国は、北朝鮮に経済ばかりでなくさまざまな制裁(渡航なども)をかけるようになり、それは今日まで続いています。

北朝鮮の人びとと出会いから
 北朝鮮人道支援にかかわっていた私は、本当にこの支援は人びとに届いているのかという疑問をずっと持っており、必ずしも支援に力が入っていたわけではありませんでした。そこで、このことを確認するためにも、2005年4月、思い切って訪朝することにしました。当時、一般の訪朝者には行動の制限があり、人びととの直接出会うことなどは思いもよりませんでした。そこで、訪朝に際し、朋友の団長を通して条件・希望として人びととの出会いを強く出してみました。この最初の訪朝は、私のその後の北朝鮮とのかかわりのうえで大きな意味をもつ2つの出会いがありました。
 その一つは、5月1日、メーデーの日、私たち訪朝の一行はまちへ繰り出しました。ピョンヤン市内はお祭りムードで市内の中央を流れる大同江岸は人びとの飲み踊りのグループでいっぱいでした。私は、思い切ってある勤労青年たちのグループにとび込み、共に飲み、踊り、話し合う機会を持ちました。通訳の金さんはこんな体験ははじめてとのことでした。話し合いの中で、青年たちは「日本と国交が開けたらいいのに」「朝日の私たちは仲良くしたいネ」「あなたはなぜ私たちの国へ来たのか」などなど質問を投げかけてきました。ふと、私はかつて中国の農村で李さんが私に問いかけたことばを思い出していました。日本の私たちは拉致、ミサイル・核開発、政治体制によって北朝鮮を否定することが人びとをも否定、忌避することになってはいないだろうか。北朝鮮にも私たちと同様平和を、幸せに生きたいと願っている人びとがいるという現実を視野から遠ざけてはいないだろうか。この出会いは、私にそんな思いを深めさせる契機になりました。
 その二は、北朝鮮のトップクラスの大学ピョンヤン外大を訪問、学生たちと話し合ったときです。学生たちは、「日本のことをもっと知りたい」「朝日国交正常化を願う」と口々に語ってくれました。日本語を学ぶ学生が激減しているとの話は耳にいたい話でした。このピョンヤン外大の卒業生たちは、将来の日朝のさまざまな国際関係のうえで大きな役割が期待されている人たちです。この体験は、日朝の未来を担う、未来を視野に入れた、未来をみすえた支援こそこれからの新しい支援活動ではないかと気付かせてくれました。こうして私のピョンヤン外大への日本語、日本理解教材の支援と日朝学生交流に向けての活動が始まります。しかしこの活動も、教材支援の募金が集まらない、日本の学生も北朝鮮へ行ってみたいがまわりの反対でなかなか行けになど決してスムーズに進んできたのではありません。でも、少ないが志のある人たちの支援、チャレンジ精神のある若者たちを得て、今日まで何とか続けているというのが現状です。

子どもたちが絵とメッセージでつながる
 北朝鮮への私流の支援活動のアプローチのなかで、2008年より「南北コリアと日本のともだち絵画展」という北東アジアを視野に入れたユニークな文化交流活動にかかわることになりました。前代表の三木睦子さん(元三木武夫首相夫人)のあとをうけて代表を引き受けることになりました。勿論、今までの活動と平行してというよりドッキングさせつつ進めています。残念ながら、北東アジアの子どもたち(北朝鮮、韓国、中国、日本)は政治的な理由のため今日自由に交流することができません。こうしたきっといつか出会うであろう子どもたちが絵とメッセージで出合う場、つながり合う機会をつくっていく。そんな仕掛けがこの「ともだち展」という国境をこえた文化交流活動で、2001年に始まり、今年でもう12年間続いているのです。この12年間、ミサイルの核開発、拉致問題という厳しい国際情勢のなか幾度となく挫折しそうになりつつ、続けられてきたことは有難いことで、北東アジアを対象したこんな草の根活動はわが国ではこれ以外にはありません。私が代表を引き受けてからの5年間でも核実験やミサイル開発もどんどん進み、六者協議も全く進んでいません。拉致問題も解決の糸口さえみえません。わが国の北朝鮮への制裁も年々厳しくなるばかりです。
 ところで、この「ともだち展」は、4カ国(中国の参加は2011年から)の子どもたちが同一のテーマで絵を画いて、それにメッセージをそえるというものです。この「ともだち展」は各国で実施するほか日本でも、大阪でも開いています。次第に日本各地でも理解と共感の輪が広がり絵画展が各地で実施され、メディアも注目するようになってきました。この大阪狭山市ででもやれたらと願っています。
 ところで、子どもたちのメッセージをみると「会いたいネ」「仲良くしようよ」のほか、「世界が平和になれば私たち会えるのにネ」という一歩進んだコメントも多くみられます。絵画とメッセージをみていると、子どもたちの心の中には、国境なんてない、国境を越えた何か共通したものが感じられます。ここ北東アジアをつなぐ希望の未来を感じとることができます。だから、私たちはこの活動は「しんどい」けれど続けているし、続けられるのです。

さいごに
 北東アジアの国際情勢、とりわけ北朝鮮をめぐる状況は、近頃ますます厳しいものがあります。ミサイル、核をもった北朝鮮は、自分たちはアメリカと対等になったと考えつつあります。それがミサイル・核開発のねらいであり、それゆえなかなかミサイル・核は放棄しないでしょう。北朝鮮との関係でよく語られる対話とは、お互いに対等な立場にたってのみ成立しうると北朝鮮は考えています。北朝鮮がアメリカと対等な立場で対話のテーブルについたと考えるとき、はじめて対話への可能性への展望も開けてくるのかも知れません。
 日朝の国交正常化の見通しは、今のところ私には明るい予想はできません。しかし第2次世界大戦で日本が平和条約を未だ結んでいない国は、ロシアと北朝鮮のみということを忘れてはなりません。北朝鮮問題の変化、前進の基本は北朝鮮の変化にこそあるという人が多くいます。しかし、相手を変えるためには、私たち自身も変化しなければなりません。
 私たちのこの支援、交流活動は、確かにささやかです。ある知人は、私たちの活動を「ドンキホーテみたい」と言います。たしかにそうかも知れません。大切なことは、未来に目をやって、まず、自分のできるところから動いてみる、そして継続していくことです。でないと他人も動いてくれません。これは、長い間私がNPO/NGO活動で学んだ哲学です。北朝鮮の変化は経済制裁だけでは不可能です。教育、スポーツ、そして「ともだち展」のような文化交流など、さまざまな分野でのいきの長い相互交流が大切です。確かに今わが国では北朝鮮への反発、敵意が先行し、民間交流が大変やりにくくなっているのが現状です。そんなわけで少しでもいいから前進のために先ず現状をご理解いただきたいというのが今日私がこのテーマをとりあげお話をさせていただいた理由です。
 ご清聴有難うございました。




平成25年3月 講演の舞台活花



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