第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成24年12月20日
中国の古典〜故事成語に学ぶ〜




大阪大学大学院文学研究科教授
湯浅 邦弘 氏

講演要旨

「温故知新」「杞憂」「矛盾」「呉越同舟」など、中国古典の中には、今も使われているたくさんの古事成語があります。 成語の本来の意味とその変容の様を追いながら、中国古典の魅力に迫ってみましょう。  

はじめに
 皆様こんにちは、本日は公開講座にお招き頂きありがとうございます。
今日お話ししますのは、漢文のエッセンスで、多くは四字熟語なのですが、これを「故事成語」と言います。これをお話しする事で、皆さんの明日からの生活になにがしかのプラスになればとの思いで来ました。これから話す中で、一つでも二つでも、何か心に残るものがあれば、お土産として持って帰って下さい。ゆったりとした気持ちで聞いて下さい。

1)韋編三絶(イヘンサンゼツ)
 孔子や孟子の時代、人々は何に文字を書いていたのかというと、今から2500年位前、まだ紙が無く竹簡(ちっかん、竹の札)に文字を書いていました。その時に出来た言葉として、「韋編三絶」という言葉があります。孔子の故事に因む言葉です。孔子は晩年によく易を愛読しました。韋編とは文字を書いていた竹簡を綴じていた横糸(皮の紐)のことをいいます。
 「韋編三絶」とは、孔子が竹簡に書いてある書物を、何度も繰り返し読んだので、韋編が三度断ち切れたことで、何度も繰り返し読むことのたとえです。
 これから故事成語を紹介しますが、この中から気に入ったものがあれば、何度も何度も読んで心に反芻(はんすう)してください。それによって学びが深まっていきます。
 孔子の時代、人々は竹簡に文字を書いていましたが、それより前は(今から3000〜4000年前)甲骨文といって、亀の甲羅や獣の骨に文字を書いていました。何のために文字を刻んでいたかというと、占いの言葉とか、神様からの予兆の言葉を記録する為に刻んだもので、神様と王様を結ぶ道具(ツール)であります。同様に鼎(三本足の青銅器をカナエという)も内側に文字が書かれており、内側にあることがミソで、内側ですからこれを保有している一族だけが読むものでした。これも神様のお言葉とか、青銅器が作られたいきさつを記しています。
 そこに大革命を起したのが竹簡です。竹簡は、人と人のコミュニケーションを取る為に使われたもので、ここに中国の文字の大革命が起きたのです。
 神と人を結ぶ文字から、人と人を結ぶ文字への大革命が起こり、その文献の中から多くの故事成語が生れて来たのです。冊は竹簡の形から来ています。竹簡にも大小があり、比較的大型の書籍を「典」と言いますし、巻いて保存する事から一巻・二巻というなど、「論」や「編」の文字に、竹簡の形は色んな漢字に大きな影響を与えていることが分かります。

2)温故知新(オンコチシン)
 孔子は、「故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以て師(し)たるべし」と言っています。私達は何を頼りに生きていたら良いのか分からなくなる事があります。先のことを知りたいと思っても先は分からない、過去から学ぶしかない。古典や歴史を勉強しましょう。その中から新しい事(先の事)を知りましょう。そういう人が人生の師となる事が出来る、と言っています。(教師の条件を言っています)
 孔子は「子曰わく、我は生まれながらにしてこれを知る者にあらず。古(いにしえ)を好み、敏(びん)にしてもってこれを求むる者なり」と言っています。孔子は生まれながらの天才ではない。でも私はいにしえを好み、そして敏感にそれを求めていこうという姿勢を持つものだ、と言っています。
 「いにしえを好む」と「温故知新」とは共鳴すると思います。千年以上前の古典を勉強する事に意味が有るのかと言われれば、その中に今日明日生きていくために新鮮なものが沢山含まれています。古い物を愛好して、その中に常に新しさを発見していく、こういう姿勢が大事だと言っています。

 次に、孫子の兵法が生んだ故事成語を紹介します。孫子の兵法は負けないための兵法です。中国を知る為には、中国の思想の両輪の『論語』と『孫子』を読むことをお勧めします。中国の卓球チームは『論語』と『孫子』を読むことを指示されているそうです。

3)−1 呉越同舟(ゴエツドウシュウ)
 呉越同舟、呉の国の人とその隣国の越の人とはお互いに憎み合う間柄ですが、それでも、同じ舟に乗って河を渡る際、強風にあって舟が転覆しそうなときは、日頃の憎しみを忘れてお互いに助け合う様子は、まるで左右の手のようです。この状態を呉越同舟と言って、危険になった時はお互いに助け合う、という意味で使われます。
 最近誤った使われ方をしていますが、お互い助け合うと言う意味を含んでいます。

3)−2 臥薪嘗胆(ガシンショウタン)
 臥薪嘗胆とは、目的を果たすために努力し、苦労するとの意味で使われますが、臥薪嘗胆は元々二つの故事です。臥薪は、仇討ちの志を忘れないように薪の上で寝て身を苦しめることを言います。嘗胆は、仇討ちの志を忘れないために肝をなめて身を苦しめた。臥薪(薪の上に寝る)と嘗胆(苦い肝をなめる)が合わさったものです。現在では、「臥薪嘗胆」は目的を果たすために努力し、苦労することの意味として使われています。

3)−3 会稽の恥(カイケイノハジ)
 敗戦の恥辱を表す成語です。会稽とは山の名前です。越の王様勾践(コウセン)が呉の王様夫差(フサ)に敗れて降伏した。勾践にとって会稽山は忘れがたい屈辱の地です。そこで敗戦の屈辱をはらす事を「会稽の恥をすすぐ」と言います。

4)塞翁が馬(サイオウガウマ)
 人間の幸・不幸は予測しがたいという意味で使います。人間万事塞翁が馬ともいいます。これは今から2000年前に前漢の劉安という人が編纂した『淮南子(エナンジ)』の人間訓(ジンカンクン)に出て来ます。「人間」とは人の世、世間の意味、「訓」は編に同じです。
 意味は、砦のほとりに老人がいまして、その家で飼っていた馬が突然逃げ出してしまった。そこで村人達は皆その不幸を同情したが、その老人は「これがどうして福とならないことがあろうか」といった、数ケ月たって、その馬が北方から駿馬を連れて帰ってきた。村人は皆それを祝った。だがその老人は、「これがどうして、禍とならないことがあろうか」いった。家は馬のお蔭で裕福になったが、その家の子供が乗馬を好み、馬から落ちて足を折ってしまった。村人はその不幸を同情した。するとその老人は、「これがどうして福とならないことがあろうか」といった。一年たって、北方の異民族が砦に侵入し、砦の成人男子はみな徴兵され、十人中九人が戦死した。しかし、その家の息子は足の骨を折っていて徴兵されなかったので、親子ともども無事であった。このように、実は、福が禍で、禍が福である。と言う話です。
 ノーベル賞を受賞した山中伸也教授は、「塞翁が馬」を座右の銘としているそうです。失敗の連続の中に新しいチャンスがある、という意味で使っておられるのだと思います。
 卑近な例ですが、「宝くじの高額賞金が当たった人が、その後不幸な人生を歩む」という統計結果があります。何故か。実際に当たったらどうなるか。途方に暮れてしまう。そして異様な興奮と不安に包まれる。人間関係も滅茶苦茶になる。高額賞金に当たった幸せがその人の人生の不幸を招く最大の原因になるかもしれない。
 この言葉には二つの側面があります。今不幸と思っている人には励ましの言葉になり、逆に得意の絶頂にある人には誡めの言葉になります。「塞翁が馬」のポイントは、このように、私達がこれは幸せだと思っているものが実はそうでないかもしれない、或いは不幸だと思っているものが実はそうでないかも知れない、何が福で、何が不幸であるか、その真実は私たち凡人には見えないということです。この老人=塞翁だけは、真実を解っていたのであります。

5)沈魚落雁(チンギョラクガン)
 『荘子』の言葉に出てきます。意味は、「魚を沈め、飛ぶ鳥を落としてしまう」ほどの絶世の美女。
 春秋時代の越王の美姫毛?(モウショウ)と晋の献公の夫人麗姫(リキ)とは、ともに古代中国を代表する絶世の美女です。この二人の前では、魚も恥らって水中深く潜ってしまい、雁もその美にひれ伏してしまったという。「沈魚落雁」とは、この故事に基づいて、出来た成語です。
 ところが、この成語の出典である『荘子』をよくみると、微妙に意味が違います。原文では、毛?・麗姫のような美人を見ても魚は恐れて水中に潜り、鳥も高く飛び去り、鹿も逃げ去ってしまう、と記されています。野生の動物は、人間が来ると逃げます。つまり『荘子』の元々の故事では、「美人」とは私達人間が思っているだけであって、世界の真実ではない、決して絶対的な美人ではないと『荘子』の原文は言っています。
 同じように、「人間は、じめじめした湿気あるところに寝れば、腰の病にかかって死んでしまうが、ドジョウはそうだろうか。高い木の上に登れば、おそれ震えるが、猿はそうだろうか。ではこの三者のうち、だれが真実の住まいを知っているというのか」。つまり絶対的な価値観は無いと言っている。
 「人間は家畜を食べ、鹿は草を食べ、ムカデは蛇をうまいと思い、鳥はネズミを好む。ではこの四者のうち、誰が真実の食を知っているというのか」。
 「猿は?狙(イヌザル)を雌とし、トナカイは鹿と交わり、ドジョウは魚とたわむれる。毛?・麗姫は美人の代表だが、魚は毛檣・麗姫を見ても恐れを感じて水中深く潜り、鳥は高く飛び去り、鹿は駆け足で逃げ去ってしまう。ではこの四者のうち、だれが真実の美を知っているというのか」。
 価値観を持つことは大切ですが、それが絶対であるという固定観念を持つことはよくない、と「沈魚落雁」は教えてくれます。

6)朝三暮四(チョウサンボシ)目の前の違いにとらわれて、結果が同じになることに気付かない。あるいは、言葉たくみに人を騙す。どんな故事かと言うと、猿の飼い主が猿達に「これからは栃の実を朝に三つ、暮れに四つやる」と言ったら、猿が「少ない」と怒ったため、「朝に四つ、暮れに三つやる」と言い直したところ、猿は喜んで承知したという話で、表現の違いで惑わされてしまった。合計では同じである事に気付かない。サルの話しではなく人間の事を云っています。例えば、バーゲンセールで定価より何割引とか、29800円とか言ったたぐいです。

以上、「塞翁が馬」「沈魚落雁」「朝三暮四」について説明してきました。これらは別々の成語ですが、ここに共通することが一つあります。私達が、絶対だとか、もうどうしようもないと思ってしまうことが、実はそうではないのではないか、ということを教えています。もう駄目だと思ってしまう。そんなことはないのですよ。これは良いな、そこに仕掛けがあるのではないでしょうか。
 ちょっと反省してみることが大切です。世界の真実を見るのは難しい事です。終わりにあたって、このような社会の中でどのような気持ちで生きていったらいいのか、それを教えてくれる成語を紹介します。

7)明鏡止水(メイキョウシスイ)
 『荘子』の言葉です、波立っていない、静かなおだやかな水、そこに真実の姿がうつる。鏡の無かった時代、人は自身の姿を水に映しました。風で波立っていたら映らない。静止した水には真実が映る。これが止水です。では明鏡は、鏡が綺麗に磨かれているからこそ、そこに塵や垢が付着しないのです。ゴミが付着すれば、鏡はものを正しく映さない。綺麗に鏡が磨かれているからこそ真実の姿が映るのです。
 世界の真実を知りたいという人は、心の鏡を曇らないようにする、或いは心の鏡を出来るだけ波立てないようにする、ということが肝心です。心の鏡が曇ってしまい、心の鏡が波立ってしまうと真実の姿は映りません。深呼吸をして、鏡の曇りを取りましょう。おだやかな気持ちになって波を静めましょう。そうすることで自分の間違いに気付くかもしれません。これが「明鏡止水」の心境です。
8)和光同塵(ワコウドウジン)
 『老子』の言葉です。私達は、人よりも一歩でも前に、先に、知恵の光を輝かせなさいと教育されて来ました。そのことが日本の社会を大きく飛躍させたわけです。しかし一方では、そのことが他人とのあつれきを生み、自分の心を傷つけています。あまりにも知恵の光を輝かせ過ぎる、これは良くないのではないか。ちょっとでもいいから、その光を和らげる(和光)、そして、「私はあなた達とは違うのよ」という態度をとらないで俗世間の中にすすんで溶け込んで行く、これが同塵です。
 『老子』は道(世界のあるべき姿)のあり方を説く言葉として「和光同塵」を使います。しかし今では柔弱の処世術を表す言葉として使います。柔弱に対し剛強の方がよいと思いますが、『老子』は、剛強なもの、硬いものは折れてしまうが、一見弱弱しいものが長生きをするといっています。柔道に於いては柔よく剛を制すと言います。その精神です。
 「明鏡止水」「和光同塵」の意味をよく理解すれば、これが他人との関係を良好にし、そして自分の心を穏やかにします。
 中国には沢山の故事成語があります。多くは四字熟語です。安定性がいいからです。これらの故事成語を学んで、一つでも二つでも自分の座右の銘として、そしてそれを基に豊かな人生を歩んでいって頂ければ、とそういう願いを込めて、私の講演を閉じさせていただきます。ご清聴ありがとうございました。


 
講演終了後、講師の著書などの販売コーナーが賑わいました


平成24年12月 講演の舞台活花



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