第5回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成24年10月18日
大阪城の男たち




大阪大谷大学文学部 日本語日本文学科教授
高橋 圭一 氏


講演要旨

江戸時代に書かれた小説の中で、大坂方は関東方に勝利しています。
家康は逃げ回ります。真田幸村を孔明並の軍師にしたのも、後藤基次を天下の豪傑にしたのも、その小説です。痛快な小説をご紹介します。

 

はじめに
 私は日本文学を専門としています。今日私がお話しする題名は「大坂城の男たち」となっています。皆さんは、おそらく歴史の話だとお思いになるでしょうが、歴史ではなく文学のお話しをいたします。では、文学とは何か。それは一言で言えば「嘘」です。言い換えれば「創作」であり、「想像力を駆使して作り上げた嘘」です。これから、江戸時代に作られた「嘘」を紹介いたします。
 資料を用意しましたが、これは昨年出版された私の本からの抜粋、抄出、要約です。講師紹介の文にある“痛快な小説”というのは『厭蝕太平楽記』及びその増補作です。このジャンルを近代に入って「実録」と呼んでいます。

手書きの本、実録
 江戸時代前期を代表する作家井原西鶴は『好色一代男』『世間胸算用』などの浮世草子で知られ、後期を代表する曲亭馬琴は『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』などの読本で知られていますが、これらの作品はすべて木版刷りであり、多くは専門の画家による挿絵があります。しかし、実録『厭蝕太平楽記』に挿絵はなく、しかも手書きで、江戸時代には「写本」「書本」と呼ばれていました。

実録と貸本屋
 『厭蝕太平楽記』巻一には「貸本 全部丗冊」と書かれた方簽(ほうせん)が貼られています。浮世草子や読本は新刊本屋で買えましたが、実録は貸本屋が読本とともに背負って得意先を回ってこっそりと貸す商品で、本屋で堂々とは買えませんでした。

存在してはならない書物
 実録はなぜ手書きだったのか、なぜ本屋の店頭にはなかったのか。『厭蝕太平楽記』は大坂の陣を描いていて登場人物は真田幸村、豊臣秀頼、片桐且元、さらに家康、秀忠も加わっています。実在人物が実名で出されていますが、これは危険なことでした。幕府の禁令を破っているからです。江戸時代にも出版条例がありました。享保七年の出版条例には、「人々家筋先祖の事などを、彼是相違の義ども新作の書物に書き顕し、世上流布致し候儀これ有り候。右の段自今御停止に候。若し右の類これ有り、その子孫より訴え出で候におゐては、急度御吟味これ有るべき筈に候事」とあり、今で言うプライバシーの保護を謳っています。御家騒動・敵討などを新作の書物にして世間に広めることはできなかったのです。もう一条は、「権現様の御義は勿論、惣て御当家板行・書本、自今無用に仕るべく候。拠ろ無き子細もこれ有らば、奉行所え訴え出で、指図受け申すべき事」。徳川幕府にかかわる実録は、板本は元より写本であっても許されないというお触れ(禁令)だったのです。とはいえ貸本屋はしたたかで、他で手に入らないのをよいことに、盛んに手書きの写本を作っては読者に貸し出しました。旗本の隠居が内職に書いたともいわれています。江戸時代に造られた様々のジャンルの中で最も多く現存しているのは間違いなく実録です。
 古本としての現在の値段が読本などの10分の1位であることからもそれが分かります。幕府は貸本屋から罰金を徴収したり、本を集めて焼き捨てることもありましたが、事例はそれほど多くはなく、見とがめられてもこれは自分がメモとして手元に置いてあるものですなどと言っては見逃してもらっていたようで、この辺が江戸時代の一筋縄ではいかないところです。幕府も写本であれば大目に見ていたようです。
 『厭蝕太平楽記』以外には『平家物語』や『太平記』の流れを引いた軍記物で『関ヶ原軍記』『太閤真顕記』『難波戦記』『天草軍記』、御家騒動では『伊達厳秘録』『仙台萩』などがありました。実録の主人公の名前を列挙すると、石川五右衛門、大久保彦左衛門、水戸黄門、由比正雪、佐倉惣五郎、大岡越前守忠相、大塩平八郎などが挙げられます。「実録」というジャンル名は聞いたことがないという皆さんでも、大久保彦左衛門なら天下のご意見番などと、これらの名前はよくご存じだと思います。

実録と講釈
 従来「実録」は主に講釈師(講談師)が書いたとされ、たとえ書かなくても講釈の種本となったのである、とも言われてきました。これは、実録は知らなくてもストリーは知っているという事実と深い関係があります。実録は講談になり、目で読むだけでなく耳から聞くものにもなったのです。
 大阪には現在旭堂一門しかありませんが、彼らが釈場で実録の内容を講釈したのです。さらに明治に入って速記が行われるようになります。最初は落語の「牡丹燈籠」でしたが、講談もそれに続きます。現在の新聞の連載小説の欄には昔は講談速記が載っていました。雑誌も同列で、連載が終わると講談速記本と呼ばれる単行本になって非常に多く出版されました。立川文庫は全国的に有名です。

筋を通す文学、実録
 実録はごく限られた情報―確かなものかどうかは保証できない真偽未詳の噂の類でも構わない―を核にして辻褄を合わせながら、想像を膨らませて筋を新たに拵えた虚構の読み物です。くり返しになりますが、言葉を換えれば「嘘」です。顛末のわからない事件についていかにもうまく筋道を通して読者になるほどと思わせ、納得させるのが作者の手際でした。確かな史実をもとにして書かれているわけではありませんから、今の歴史家はこのジャンルのものを相手にはしません。実録を読む人には、史実を追い求めるのではなく、巧みに吐かれた嘘を楽しむ姿勢が望ましいのです。それが文学です。有名な川柳に「講釈師見てきたような嘘をつき」があります。その通りでして「見てきたような嘘」が実録です。

「難波(なんば)戦記物」の変容
 大坂の陣を扱った実録は何種類かあります。時代が下っていくと変わっていきます。徳川贔屓の『難波戦記』ですが、講談のなんば戦記と区別するためになにわ戦記と読んでおきます。その前に、『大坂物語』がありました。上巻は冬の陣が終わったすぐ後に書かれました。夏の陣が始まる前に書かれましたのでその時点では上巻ではなかったのですが、夏の陣も書かれたために上下の巻の名称が生まれました。これは最後に徳川の御代になったことを寿いで終わっています。
 その次に書かれたのが『難波(なにわ)戦記』です。歴史書によくありますように漢字片仮名交じりで記されています。117章に分かれていまして、その梗概を書いたりするときには煩瑣に感じるのですが、登場人物が多いためにどうしても章立てが多くなるのです。時期は寛文12年(1672)以前とされています。多分将軍家光の頃でしょう。作者は徳川方の人物で大坂の陣の全容を描いています。大坂城の諸将の奮戦とその最後(後藤又兵衛、薄田隼人兼相、木村長門守重成、真田左衛門佐幸村等)は華やかに描かれています。大坂方にも十分な同情が注がれているように読めます。しかし、本文全体の文脈は終始徳川寄り(正確には家康贔屓)の姿勢で貫かれています。東軍は家康様の恩を担い徳を戴いてきたと書かれています。つまり家康様を慕って集まってきているというのです。たとえば家康は人命が失われるのを非常に嫌がっている、だから力攻めには責めなかったなどと書かれている。大坂方には淀殿や大野治長などのばかな人物がいたから自滅したのだとなっています。
 そのあと、この『難波戦記』の構造を引き継いだものが多く作られて、それらの増補作ではページ数を増やして章数は減らしています。大坂方諸将の伝記が増え、大坂寄りの記述が増えています。

豊臣贔屓の『厭蝕太平楽記』
 『厭蝕太平楽記』の秀頼は大坂城で死なず、真田幸村・後藤基次らに守られて薩摩に落ち延びます。『難波戦記』のような大坂方の負け戦のあとに、秀頼脱出のエピローグを付けることもできたろうし、その方が自然に見えますが、『厭蝕太平楽記』のどこを読んでも、大坂方が勝っています。幸村が総軍師になって東軍に圧勝しています。軍師とは戦略を立て諸将に命令する、時には先頭に立って戦う人物です。秀頼の影は薄いですし、総司令官だったはずの大野治長はむしろ敵役になっています。『三国志』の諸葛孔明の影響が色濃く出ています。
 冬の陣も終わりに近づいたある日、家康からの和睦を進める使者を、怒りもあらわに淀殿は追い返します。「東軍は戦うごとに敗北し、すでに数万人が討死し、陣屋は焼かれ、家康も秀忠も逃げ惑っているではないか・・・」。確かにそう書かれています。あっけなく終わったはずの夏の陣でも城方は強いのです。真田幸村によって平野で大焼打ちに遭って敗走した家康は己の陣所が燃え上がっているのを見て切腹しようとする。それを留めたのは大久保彦左衛門です。秀忠も平野に近づいたときに幸村の伏兵に襲われ、一度は脇差に手を掛ける。幸村が家康か秀忠のどちらかは打ち取ろうと支度していると、城内の浅井周防守(淀殿の兄:秀頼の伯父)が東軍と内通して秀頼を暗殺しようとしていることが分かり、幸村は秀頼守護のために城へ戻る。その後も残っていた長曽我部盛親とその息子たちが秀忠に迫るが、真田河内守・外記兄弟によってかろうじて秀忠は救い出される。寄せ手の内、外様の上杉と佐竹はとても城方には勝てないのでいっそのこと降参しようかと相談し、家老たちも秀頼からの書状を待つよう進言する。五月四日も幸村の銅蓮火砲と言う摩訶不思議な武器(着弾するとガスが出る)によって東軍は敗走する。その直後に家康は後藤又兵衛基次に鑓で腿を貫かれる・・・。
 『厭蝕太平楽記』の成立は江戸時代中期の明和年間(1764〜72)以前にまで遡ります。冬の陣でも夏の陣でも大坂方が関東勢に勝ち続け、家康も秀忠もなすすべもなく逃げ回るのみという徹底した大阪贔屓のこの作が近世半ば、江戸幕府が安泰であった時期に、作られていたことに私は驚きます。大阪贔屓は反権力・反権威と言うこともできます。徳川幕府が治めている時代にその始祖をやっつけるという野党精神の表れと言うこともできます。恐らくは、大坂の講釈師の作であります。

最後の『難波戦記物「泰平真撰難波秘録 本朝盛衰記」』
 『本朝盛衰記』は総字数90万余りで非常に長く、今の文庫本で4冊余りになります。この長さに至ったのは近世後期、幕末の事でしょうが、文政年間(1818〜30)以前の事です。『厭蝕太平楽記』を全部取り込んでさらに増補したものですから、あらすじは1篇から4篇までは『厭蝕太平楽記』と同じです。5篇は真田昌幸が関ヶ原の戦いの時に上田城での籠城戦で秀忠勢を食い止めたという話から始まります。最終的には石田三成等が負けましたから敗戦の将となって高野山・九度山に蟄居します。九度山で真田昌幸は薩摩に琉球を攻めさせようと図ります。昌幸に踊らされて薩摩は出兵します。この第一次出兵は、妖術使いが出てきて失敗に終わります。大坂の陣後、秀頼・幸村・後藤又兵衛らは薩摩に入り、島津の騒動を鎮めた幸村が軍師となって第二次琉球攻めを行い平定します。軍師幸村は大野治長らの失敗も上手に処理し、ことごとく勝利を収めます。『厭蝕太平楽記』をすべて吸収したうえで、その内容は、悪く言えば水増し、よく言って大増補しているのですが、中には面白くしている所もあります。薩摩にすでに居を移していた幸村が星(大将星)を見て家康の命数の尽きたことを知り、駕籠に乗って鶴ヶ丘八幡宮参詣に来た家康を南蛮流の龍車筒(ピストル)で撃ち殺し見事宿敵を倒した、というような話も書かれています。現在の講談「難波戦記」では家康を撃ち殺す話はないそうで、江戸の実録は平成の講談より過激だったと言えます。

天下無敵の軍師 真田幸村
 真田山の近くにある三光神社には幸村の銅像と抜け穴の跡があります。九度山にある真田庵の近くにも幸村の抜け穴があります。ほかにも抜け穴は見られ、幸村はそれを使って縦横無尽に活躍したとされています。そして好んで鉄砲や大筒を使用したこの人物を、私は著書の中で「怪しい幸村」と呼んでいます。
 実際の彼は、父昌幸の陰に隠れた目立たない存在だったようです。総軍師に仕立て上げたのはこの『厭蝕太平楽記』でした。歴史家小林計一郎氏によると、彼は世間的には小さな存在にすぎなかった、大名になったこともなく壮年で禄を失い、九度山で浪人生活を送り大坂城に招かれて落城の悲劇の中で雇われ師団長として奮闘し、名を後世に残したというに過ぎない、だから「軍師」などではなかったそうです。と述べています。実像はこのようなものです。ただ、この小林氏の本は、幸村は軍師であり大活躍したと信じている人々が読めばその虚像と実像の落差に興味を覚えるものでしょう。
 夏の陣以前には特に何の逸話も残っていないこの幸村が、壮烈な討死によって天下に名を轟かせました。「薩藩日記」は、幸村が、「御所様の御陣へ仕かかり、御陣衆追いちらし」たが、「三度目にさなだもうち死にて候、真田日本一(ひのもといち)の兵」「惣別これのみ申す事に候」と、夏の陣の跡の噂話を書き留めています。さらに大坂の陣の小説化の段階で彼を主役に据えようとし、戦の話の主役は軍師なので、もともと指揮権など少しも持たなかった幸村がどんどん軍師化していったのです。

忍びの者
 さて、猿飛佐助の事です。現在の若者の間ではほとんど知られていません。彼は今治出身の玉田玉秀斎らの作った「立川文庫」で有名になりましたが、実は『厭蝕太平楽記』に幸村の家来として登場しています。関ヶ原後、昌幸と幸村は九度山に蟄居し、上田城には家康の使者が送られる。この使者と応対した真田の郎党が猿飛佐助と根井浅右衛門でした。そのあと諸国を廻って情勢を伺いますが、この後『厭蝕太平楽記』には出てきません。霧隠も幸村への恩返しとして情報を伝えるために登場しますが、それきりです。その後、忍びの者の活躍が飛躍的に増えるのは『本朝盛衰記』です。夏の陣で東軍を苦しめ、東軍が退却するところを真田方が追い打ちする中、雲隠右浅衛門以下五人の忍びが前面に登場する所を紹介します。幸村の影武者となり、忍びの能力を最大限に発揮して、家康を大いに苦しめています。関東方は、「かの朝日に霜のきゆるがごとく、散々に成りて乱れ」る。東に向けて逃げる家康を追うものの、彦左衛門の命令にこの五人を取り囲み鉄砲で、「雨より繁く打ちければ、岩木にあらざれば鉄砲の囲みを出ることあたはずして」忍術で姿を消す。
 幸村は忍者を使うことにも長じていました。後続の作になるほど、彼が使う忍者の数は増えています。「忍者使い」幸村もまた「怪しい」軍師と評せるでしょう。
 真田の出丸には千早城のイメージが重ね合わせられています。平野の焼き打ちは『三国志』で諸葛孔明が司馬仲達を焼打ちにした場面を思わせます。逃げる家康を幸村が次々と伏兵に待ち受けさせる場面は、赤壁の戦いの後大敗を喫した曹操が華容道を逃げるのを孔明が伏兵を使って追わせる場面を思わせます。こうして悪くて強いがよく逃げる曹操のイメージが、家康に重ねあわされています。
 幕末ではなく、江戸時代の中期に禁令が出ているにもかかわらず、このような内容の写本が出回っていたことは驚くべき事だと思います。幕府が何らかの意味で許容していたのではないかとも思わせます。 痛快な小説だと思っていただけましたでしょうか。




平成24年10月 講演の舞台活花



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