第4回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成24年9月20日
空海~その生涯と戦略~




四天王寺大学人文社会学部 准教授
藤谷 厚生 氏

講演要旨

弘法大師・空海は、平安朝に真言密教という最新の仏教を我が国に導入し、高野山に金剛峯寺、京都に東寺を開創し、日本仏教界の頭領となります。
今回は、その波乱の生涯と空海の成功への戦略をお話致します。

 

はじめに
 本日、出席されている方で、個人的に四国88ヶ所、西国33ヶ所を巡礼され、また、「南無大師遍照金剛」と拝んでおられる方もいらっしゃると思います。宗教的には空海・弘法大師と言う方は、とても偉大で、まさに雲の上の人ですが、今日は少し裏の姿を、つまり空海がどうして弘法大師になられたか、その成功物語というべきものを、お話したいと思います。
 世俗的で、少しドロドロした話にもなりますが、歴史的にこういう事もあったのだと、とらえて頂ければと思います。

空海の生涯

 774年6月15日 香川県多度郡に父・佐伯直田公と母・阿刀氏女との間に善通寺付近で生まれ、幼名を真魚と言いいました。佐伯氏は、もともとは大伴氏の流れをくむ軍事集団で、直は奈良時代の役職の地方長官で、その子息として誕生した訳です。母は阿刀氏で、百済系?であるとか、また物部氏(八尾市にある跡部あたりを本拠地としたという氏族)だと言われています。高野山大学の武内孝善先生は、八尾の阿刀氏の実家で誕生したという説をあげておられ、それ故、空海は河内の出身だと言う人もいるくらいです。
 788年(15歳)で南都(平城京)に上京し、伯父で漢籍に精通した阿刀大足(桓武天皇の皇子の伊予親王の家庭教師)に論語・孝経などを習います。当時、中国は唐の時代でした。なぜ、空海が伯父に就き勉強したかは、まさに受験勉強であって、大学(当時は都に1校)に入るためでした。その甲斐あって、18歳で入学し明経科(儒教の専門分野)に所属した訳ですが、1年少しで中退します。それはこのまま大学を卒業しても、恐らく普通の官僚で終わってしまうと見切りをつけた訳で、空海の心中には壮大な夢(野望)があったに違いありません。従来、その資料の乏しさから、あまり青年期の空海については言及されていませんが、空海が書いた書物を読んでいきますといろんな事がわかってきます。
 実は、19歳から31歳までの約11年間、空海は一切、歴史の表舞台には出てきません。その間、何をしていたかについては、詳らかな史料は残っていません。しかしながら、空海が書いた書物(『三教指帰』)から、彼が何をしていたかが、よく見えてくるのです。

なぜ『三教指帰』を書いたか?
 797年(24歳)に、『三教指帰』(儒教、道教、仏教を対比し仏教の優位性を主張した日本最初の私小説)を著わします。ここでなぜ、宗教を題材とした小説を書いたのでしょう?これには、大きな疑問が起こります。
 私の持論を申しますが、『三教指帰』の序文の最後で、空海は母方の甥子が放蕩してるのを、少し説教をする気持ちで書いたと言っています。それならば、なぜここで儒教、道教、仏教を対比しないといけないのか、また仏教の優位性をことさら主張しないといけなかった?と思うのです。しかも、空海は自分の心の中の憤懣やるせない気持ちをここに述べたと言い、また一方で、この書物を学識ある者に見せるつもりはないと言いながら、実際は公表されて日本初の私小説として歴史にその名をとどめています。
 実は、唐の時代は、儒教、道教、仏教が国家の宗教として鼎立して認められた時代でした。しかも、仏教界では教相判釈と言って、お互いの宗派の優位性を主張して、大論争をしていた時代でもあった訳です。実際、仏教界の中では、この三教の優劣を述べ、仏教の優位性を主張した完璧な書物はありませんでした。空海は、晩年に淳和天皇の勅命により、自らの真言宗の綱要書としてだけではなく、儒教、道教、仏教の諸宗派を踏まえた上で、その優劣と特性を総合的にまとめた、『十住心論』という大著を書きあらしています。この『十住心論』は、単に仏教だけではなく、当時の三教(儒教、道教、仏教)を合わせた総合宗教論でもあったのです。
 こういった晩年の大著の先駆けとして、空海の深い問題意識は、既に24歳の時には、その胸中に抱かれていたことが、如実に分かってくるのです。それ故、彼の宗教的興味は、当時世界の中心として最も隆盛を極めた、中国の唐の都である長安に向けられたのでした。空海の『三教指帰』の序文の最後にある「憤懣の逸気を写せり。」という言葉は、彼が当時の仏教界には、儒教、道教を批判し、仏教の優位性を主張できる程の見識をもった人材がいないという嘆きであり、同時に三教の優劣を論じ、仏教を体系的に論ずるのは、自分をおいて他にはないという自負であったのだろうと考えられます。そうして書かれたのが、『三教指帰』であったのでしょう。空海は、そこから宗教界の頂点を極めるため、唐への留学を早くから決意していたのです。

虚空蔵求聞持法で学力増強
 ここで『三教指帰』の序文の内容を見ますと、空海は私度僧として吉野・四国の山野を遍歴し仏教の修行したと自ら述べています。しかもその際、四国の太龍嶽と室戸岬で虚空蔵求聞持法を2回行っています。なぜ、虚空蔵求聞持法をやらなければいけなかったのか。それは暗記力増強の効果を得るためだったのです。当時僧侶になる為には、公験制(受験制度)すなわち、国家の正式な官僚僧の試験に合格し、東大寺の戒壇院で受戒しなければならなかったからです。難しい仏教経典の内容を理解し、それら経典の文章を暗記する不思議な力が備わる秘密の修法、実はそれが虚空蔵求聞持法であったのです。
 当時、虚空蔵求聞持法のメッカは奈良の吉野でした。この吉野には龍門寺や比蘇寺などの寺がありました。特に、この比蘇寺は神叡や道璿、仏哲という唐からの渡来僧が住んだ寺院で、当時は大安寺西塔院に来た渡来僧が次々に隠遁する、いわば中国僧の隠居寺でもあった訳です。空海は虚空蔵求聞持法を奈良の大安寺の僧・勤操から伝授されたと言われますが、空海はこの大安寺と大変関係が深いのです。恐らく、空海は大安寺系の僧から私度僧としてこの求聞持法の手ほどきを受け、この吉野界隈にあった龍門寺や比蘇寺に出入りしていたに違いありません。
 私は、空海が修得しえた中国語の語学力は、これら中国僧の寺に直接出入りし、寝食をともにすることで得たのではないかと考えています。つまり空海にとっては、仏教の知識と語学力を得るという一石二鳥のメリットをここで成し遂げることができた訳です。今でも留学する場合にはどうしても不可欠な要件があります。それは、語学力と留学資金です。空海の類い希なる語学力は、この中国僧の寺に出入りすることで修得しえたのでしょう。
 しかし、次にその資金はどのようにして、手に入れたのかという問題が起こります。留学資金については、実は空海は804年に遺唐船で留学しますが、彼はこの時、私費の留学僧として渡ります。一方この時渡った最澄は、国費の還学僧として、しかも通訳付きで留学したのです。当時、留学僧は大体が次の遣唐大使がやってくるまでの20年間くらいは、在唐しなければならず、しかもその生活費は唐政府から客分待遇で支給されていました。私費留学で渡航しないといけない空海にとって、留学資金を得ることは大きな問題であったはずです。空海は後に沢山の宝物を唐から持ち帰り、これは『請来目録』として記録が残されております。それらを見ても分かりますが、空海が持ち帰った宝物は、当時唐政府から支給される生活費用だけで、とうてい買い揃えられるようなものではなく、とても高価な品物ばかりだったのです。こういった空海の資金力は、一体どこにあったのでしょうか?

留学資金は水銀鉱脈から
 そこで空海は語学力と資金力をクリアーする戦略として、吉野から四国の山で修行することを行ったに違いありません。一説には空海の修行場である、高野山あるいは四国の霊場の約60%は水銀や鉱山(銅鉱)の側にあると言われています。実は空海の行ったとされるところには、丹という字がついた地名が多く関わっています。丹というのは水銀を表し、空海が彷徨いた場所は、中央構造線の地殻変動でできた水銀の鉱脈の宝庫なのです。空海は高野山を後に建てますが、高野を守護する神として、空海は二つの神様を祀るのです。一つは高野山へと空海を案内した狩場明神であり、もう一つは当時高野の所有者であった丹生都比売なのです。しかも、この丹生都比売の神は、水銀の精錬に携わる氏族の神であるのです。水銀は、当時は薬(丹)にも用い、金の採掘やメッキの技法にはなくてはならない素材でもあったのです。その上、朱などとして防腐剤や塗り物にも用いられていたので、その汎用性が多岐にわたっていた重要な品物です。空海は、この水銀などの鉱脈を掘り当て、それを留学資金に替えていたと私は考えるのです。つまり、空海には山師としてのもう一つの顔があった訳です。
 それでは、空海はそれらの水銀や鉱物をどうして売りさばいていたのでしょうか。私は、恐らく当時日本に来ていた渤海使、それに随行してきた渤海の商人であろうと考えております。当時、水銀を買い漁って、吉野界隈を彷徨いている渤海人を取り締まって欲しいという内容の要請が史料として残っております。渤海は、我が国にとって、まさに水銀の輸出国であったのです。勿論、空海と渤海商人との交渉があった確たる史料はありません。しかし、当時の状況(空海と渤海使との交渉)から推測すると、空海の留学資金とその送金、そのバックアップには渤海との関わりが不可欠であったのは否定できない事実です。つまり空海は、吉野の山々で修行をしながら、語学力を身につけ、山を掘り当てることで資金を調達し、一方で渤海からの使節や商人を通して、遠く唐の長安の情報を、しかもほぼタイムリーに掌握し、虎視眈々と留学の機会を伺っていたのです。まさにここに空海の隠された戦略がある訳です。
 こうして11年間行方不明だった空海が、803年の春、突如として再び歴史の舞台に登場します。留学僧として遣唐船に乗るため、奈良に出て東大寺戒壇院にて正式な僧侶になります(官僧としての度牒を得る)。そして804年7月6日留学僧として遣唐船(還学僧は2年で帰国:最澄)で出発します。この時4船で出航し、第1船には空海、橘逸勢が、第2船には最澄が乗船していました。(残りの2船は途中事故で渡航できず)1ヶ月をかけて第1船は福州長渓に漂着しました。ここで大きな問題がおこります。当時、遣唐船が中国本土に渡るのには、明州(寧波)から上陸するのが通例であったのです。いわば入国管理局が、明州にあり、遣唐船一行はどこからでも自由に上陸できた訳ではなかったのです。福州の長渓に漂着した第1船の一行は、たちまち捉えられてしまいます。この時、第1船には遣唐大使の藤原葛野麿が乗船しており、その通訳が役人との交渉をしますが失敗に終わるのです。そこで仕方なく交渉役をかってでたのが、空海だったのです。ここで空海の語学力と文才が見事に功を奏し、特例をもって都に赴く許可を得て、何とか12月23日に長安の都に到着することができたのです。勿論、空海は正月の祝賀式に遣唐大使とともに参列し、皇帝に拝謁したのだと思います。

密教を学び帰国
 翌年2月には、空海はただ一人、西明寺(かつて大安寺の道慈が居た)に寄宿し、そこから近い醴泉寺のインド僧・般若三蔵からサンスクリット語の教育を直接受けます。その後、青龍寺の密教高僧の恵果に就くこととなりました。7世紀の中頃になりますと、インドから中国に密教という最新の仏教が入ってきます。それを伝えたのが、不空(705~774)という人でした。この方は『金剛頂経』という密教経典を漢訳し、その他多くの訳経をして、四大翻訳僧として名を残されています。しかも、この方は玄宗、粛宗、代宗という歴代の皇帝の帰依を受け、俗に三代の国師と言われたほどの、つまり皇帝を弟子にもした、中国仏教界随一の高僧だったのです。755年には安史の乱が起こり、玄宗皇帝は都を追われ地方に逃げるのですが、実は色々と影で画策をして玄宗を都に復帰させたのが、この不空とも言われているのです。そして757年には上表して玄宗の遷都を祝っています。さらに、759年には、不空は宮中内道場に護摩・潅頂法を修し、玄宗に結縁潅頂を授けます。この灌頂を皇帝に授けるという出来事は、極めて重要なのです。つまり、このことによって皇帝自身が事実上は不空の弟子になったのです。こうして絶大なる権勢を誇った不空は774年6月15日に遷化します。その後を受けたのが恵果(746~806)いう方で、さらに空海はその恵果の弟子になる訳です。ところで、不空が亡くなったとされる774年6月15日は、実は空海が誕生している日でもあるのです。これは何という因縁でしょう。偶然にしては、あまりにできすぎた話に思えます。しかし、この話にはあたかも空海が不空の再来であったという暗示が潜んでいます。そこには、空海という若き僧が目指した目標が、まさに不空であったという秘密が隠されている訳です。
 唐の皇帝をも弟子にし、中国仏教界の頭領にのし上がった「不空」、その成功談の情報を早くから得、これからの時代は密教の時代である、密教を日本に導入して、自らも不空のように成功を収めたい、そういう野望を空海は抱いたに違いないのです。だからこそ、大学を中退し、吉野、高野の山野を巡り、留学の資金と語学力を身につけ、唐に渡って「密教」を持ち帰るという偉業をなしたのです。空海は、まさに時代の最先端を読み取り、見事な戦略とたゆまぬ努力をなし得た、類いまれなる天才宗教家であったのです。
 それで805年6月には、恵果より金剛界、胎蔵界の両部の学法潅頂を受け、「阿闍梨」となります。阿闍梨というのは、正式な密教の伝承者であり、マスターである訳です。恵果には千人の門弟がいたのですが、その内二十数名が阿闍梨になったと言われ、空海がまさに恵果の最後の弟子(阿闍梨)となった訳です。
 こうして、僅か8ヶ月で密教の奥義を極めて、多くの宝物を持ち帰って806年10月に帰朝(太宰府に到着)します。その後、嵯峨天皇に認められた空海は、平安京に入り、めきめきと頭角を現していきます。810年には、東大寺の別当、つまり日本の国分寺の総元締め寺である東大寺の別当になります。事実上、日本仏教界の頭領となるわけです。後に816年には高野山を賜ります。そして823年東寺を都の密教の道場として開創し、ここで嵯峨天皇に結縁潅頂を授けます。ここで空海は天皇を弟子にする事とを成した訳です。まさに、空海は不空が唐でなした偉業を、この日本でやり遂げ、仏教界の頂点を極めたのです。まだまだ話しを致したいことは沢山ありますが、丁度時間となりました。有難うございました。




平成24年9月 講演の舞台活花



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