第6回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年11月17日
医療費の給付と負担の可能性を探る
〜経済学の立場から見た社会保障〜




関西大学経済学部 准教授
佐藤 雅代 氏

講演要旨

医療体制を強化し、より密に効率化することが求められています。一方で、お金には多様な使い道があります。
セーフティーネットに何を求め、どこまでその負担を享受する覚悟がありますか?

 

 「はじめに」
 本日のお話、タイトルは硬いですが、頭の体操になると思ってお聞きください。
私は現在、関西大学の経済学部におります。経歴を逆にたどりますと、その前が北海道大学、厚生労働省で国家公務員、同じ所で研究員、民間の某シンクタンク、大阪大学博士課程、名古屋市立大学勤務、筑波大学修士課程、大阪市立大学学生、茨城県の高校生という順になります。これで私が一番西は大阪ですが、日本国内の比較的いろんな地域を見て来て、夫々の組織の健康保険や年金制度、さらに夫々の役所の対応などにかなり接してきたことが解かってもらえると思います。このような経験を加味しながら若輩ではありますが、「医療費の給付と負担の可能性を探る」というタイトルでお話をさせていただきます。

「経済学をどうとらえるか」
 キーワードは3つ、家計(個人)、企業、政府です。我々個人はみんな満足感を追って生きています。企業は儲けを最大にしようとします。政府は家計(個人)も企業も含めて社会全体の満足感が最大になるように図るのが使命です。これをもとに家計(個人)だけでなく社会全体も同じように幸せになるにはどうすればよいかを考えるのが経済学のスタート地点であります。
 経済学が個人の金儲けの学問であるなら、金持ちの経済学者が多いはずですが、私の周りにはいません。自分だけではなく社会全体として誰もが幸福になるにはどうすればよいかを考えるのが経済学であり、その意味では、人間らしくとても“大人な”学問であります。
 最大限の幸福を得るためには資源が必要です。必要なだけいくらでもあれば経済学は不要です。が手に入る資源は希少な上に、欲求は多様であります。みんなが満足するために少ない資源で多様な欲求を満たさねばならない。「天からマナは降ってこない」のです。ですから少ない選択肢の中から選んでいくしかありません。そして家計(個人)と企業がそれぞれの欲求を満たそうと個々に活動し当事者利益を手に入れます。これが市場メカニズムであり、それでメリットがあり、夫々が満足すればなんら問題は生じません。アダムスミスの言う「神の見えざる手」が働いてうまく調整され満足するなら、あるいは競争市場という言葉がありますが、夫々が切磋琢磨して自分に一番いいように働いてもみんなが満足するなら問題はありません。しかしそんなにうまく事が運ぶでしょうか。

「社会保障をどうとらえるか」
 その前に社会保障の問題を取り上げたいと思います。この用語「社会保障」(Social Security)は1935年にアメリカで(ルーズベルトのニューディール政策の一環として制定した法律で初めて使われた)日本語では初めて公文書に「社会保障」として載ったのは憲法第25条でした。
 同じような制度は海外でも救貧法などの呼び方で存在しました。しかし「社会保障」という言葉では、その歴史は100年に満たず、人々がそれに対して持つイメージ、考え方は様々です。
 受け取る側からいえば憲法にも保障されているし、受けるのは当然の権利である、国にはその義務があるという考え方がひとつ。かわいそうだから助けるという負担者の側(制度を支える側)から見た社会保障がもう一つ。これは社会における大きな仕組み、自助と連帯の仕組みであるといえます。
 自助つまりリスクを回避したいという合理的、利己的な欲求、もう一つはみんなが良ければ自分も良いという考え方、つまり連帯という価値基準であります。その目的は経済的困窮に対する備えです。その原因は、大黒柱が死んでお金に困る、失業、産休育休で仕事ができず収入がないなど、さまざまでありますが、言い換えれば、自分の責任に帰することのできない理由によって発生する様々な経済的リスクを経済的に分散、軽減し社会全体で備えるということです。

「政府による再分配政策」
先ほど触れた問題点ですが、市場経済に任せて家計、企業がそれぞれ合理的な行動をしてうまく経済が回るのかという点です。答えは否で、社会的な必要性や分配の公正性が満たされるかどうかは疑問で、市場メカニズムには限界があります。貧富の差が出てくるのは経済学の理論でも証明されています。「神の手」はそんなにうまくは働かないようです。
 自分に責任のない理由によって結果として格差ができたら是正すべきであります。あまりにも大きな格差が出るのはやはり問題なのではないかということです。
 理論のようにうまく機能しない、そして公正性が満たされないことを「市場の失敗」と呼びます。こうして家計と企業に任せておけないところで政府の出番なのです。市場の失敗を調整し、その機能を補完するのが政府の役割です。補完機能の一つが所得再分配機能です。税金を取って手当や補助金で配ることです。しかしこれもやりすぎて、働いても働かなくても同じだけ分配されるなら労働意欲は阻害されるでしょう。誰も働かなくなり、究極の形はすべての人の所得が0。悪平等が現出してしまいます。だからと言って再分配政策は必要ないとは言えません。我々がいつ何時事故に遭ったり、病気になったりするかもしれない以上、運・不運の結果として所得変動が予想されるときには、事前にリスクを共有するような再分配政策はやはり必要ですし、前もって財源を備えておくことは重要なことであります。
 かといって社会保障をやりすぎてもよくないし、やらないでいいとも言えません。市場は便利だが任せておくだけでもいけない。政府が出てきて政策を立案、実施しても、周知のように、うまく機能していない。どうすればいいのでしょうか。
 そこで市場のよいところと政府の強いところ、夫々のいいとこ取りをして進めていけばよいのではないかということになります。
 政府については、その権限を小さくして市場の役割を増やす、つまり「小さな政府」という考え方と、その反対の「大きな政府」というのがあります。
 市場については、どこまでその役割を認めるか、あるいは反対にどこまで規制を強めるかということです。強く介入規制をして北欧のように高い税金は取るが、手厚い福祉を施せる国家を目指すのかどうかという問題です。その効率面と公平面とを考えてみましょう。前者を重視するなら税金は安くなり、後者を重視するなら高くなります。両方ともに重視することはできません。両立できないのです。低い税率と高い税率は当然ながら両立するはずがありません。どのあたりに落としどころを求めるかという再分配政策の現実的な有効性は重要な政策論点でありますが、政治的にも微妙で昨今の政府の施策はいかがなものでしょうか。

「日本の医療保険制度の特徴」
 では社会保障政策の一つである我が国の医療保険制度について考えてみましょう。これには国民皆保険、フリーアクセス、それに現物(=サービス)給付方式の三つの特徴があります。どこに住んでいても誰もが何らかの保険に入っている。国内ならどこででも保険証が使える。海外でもそこまでやってそれだけの保険料でどうしてやっているのかと聞かれるくらいです。保険負担分は立て替え等なくその場で3割払うだけでサービスが受けられる。世界に誇れる制度です。保険者から保険給付や保健事業等も受けられます。主な医療保険制度には国保、協会けんぽ、組合健保、共済組合、それと最近話題になり、廃止の声がありながらも踏み切れない独立した後期高齢者医療制度があります。
 医療費については、平成21年度(2009年)の資料で総額36兆円、一人当たり28万円です。しかし年齢別にすると65歳以上が一人当たり80万円、現役世代は一人当たり15万円位です。
 1984年では一人当たり12万円でした。が年を追うごとに増えてきています。人口が増加し、医療技術は進歩し、経済状況も進展しているのです。
 では保険料の負担についてはどうでしょうか。後期高齢者で年63,000円となっています。市町村国保で年83,000円です。
 患者の一部負担については、全額保険給付にしてほしいものですが、やはり自己負担にも意味があります。三つのメリットがあります。まず利用する人としない人との衡平の確保という点です。二つ目は、無駄な、あるいは非効率な医療を避けるためで、つまりコスト意識を高めるということです。そして三つ目に、保険料以外の財源の確保ができるという利点です。
 負担の割合は、年齢や自治体によって異なることもありますが普通3割です。70歳以上の負担は来年からは2割ですが、現在は1割です。
 払い方には2種あって、一定の額しか払わない定額負担、これは窓口事務が簡単で済むという利点がありますが、かかった医療費に関係ないのでコスト意識の喚起には役立たないところがあります。もう一つは、医療費に一定の比率を乗じた分の負担、これを定率負担と呼び、使った医療費に応じて払うので公平であり、医療機関と患者のコスト意識の喚起には役立つと考えられます。一方、窓口事務は煩瑣になります。もう一つ公費負担では、すべての人が同じ条件で、同じシステムでサポートを受けられるように公費(税金)が使われています。37.5%が公費で賄われています。
 高齢者に特化した保険制度も世界では珍しいものです。制度が出来た経緯は、高齢になるにつれて疾病リスクが高まり、経済力は低下し、国保に多く偏在することになりますが、国の財政事情は厳しく、国庫負担で調整する余力もなく、無料制度を廃止しても、現役世代の「拠出金」が増え続けるなど、責任が不明確などの理由から独立した新しい高齢者医療制度を創設する必要に迫られたということです。それが後期高齢者医療制度です。
 現役世代については、年齢が上がるほど給料が増加する年功序列制度のもとで保険料を多く払っていながらあまり医療サービスを受けていないのが実情です。

「医療提供体制」
患者が0人なら収入は0、しかしもしもに備えて医療機関は維持していく必要があります。1日24時間365日維持するとして単純に計算して医師4人体制で時給1000円としても月給20万円にもなりません。他に外来、手術、入院、薬剤、機械、建物の維持などにも対応しなければなりませんからこれは現実的な数字ではありません。いてくれるだけで安心感を得られることに対してどれだけ報いるかは考えるべきことではあります。
 大阪狭山市の医師数は医育機関の近大病院を入れて、市民1.000人当たり9.542人ですが近大病院を除けば1.696人と全国平均にも及びません。
 大きな役割を果たしてきた公立病院の実情を見もると赤字のところが増えて廃止されるところが次々と出ています。採算が取れないところだからこそ安心のために設立した公立病院が利用されず赤字が膨らんでいるのが現状です。
 患者の域外流出も問題点の一つで、利用しなければつぶれるのです。フリーアクセスが裏目に出ているように感じます。北海道での経験ではネットワークを作ろうという話し合いでも地域エゴが出て「わが町をコアに」と主張し合う傾向がありました。

「まとめにかえて」
 地域医療については行政にも医療機関にもそして住民にも責任があります。地域づくりを考えた財源の使い方を真剣に考える必要があります。
 政策を考える時に重要なのは5W1Hですが、なかでも「どのように」は財源の使い方だけでなく、どう生きるか、どう死ぬか、どう産まれるか(どう産ませるか)まで想像を膨らませる必要があると思います。政策立案の際にこういうことをも含めて考えることが大切です。唯一無二の正解はありません。納得行くまで話し合う中から生まれるものだと思います。
 経済学は正解を与えてくれる学問ではありませんが、考え方やヒントは提供できます。しかし一番強いのは皆様の知見であり経験です。知見をどう活用するかは私たち次第ですが、皆様のご意見、お話もお聞かせ願いたいと思います。

《講師未見承》


平成23年11月 講演の舞台活花



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