第2回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年6月16日
聖徳太子の教え(十七条憲法)




和宗総本山四天王寺 第110世管長
出口 順得 氏



出口講師とお友達の方々

講演要旨

明治以来、いかに宗教(仏教)無視の風潮が続いたことであったか。宗教をこのようにネグレクト(廃仏毀釈)したこと、従って人間そのものを尊重しなかったことが、今日の教育の荒廃を招いたのではないでしょうか、今こそ、聖徳太子の教え(唯仏是真)に耳を傾ける時と思考します。
 


 1)始めに
 私は寺の長男として生まれたので坊さんになろうとは思っていたのですが、60年前終戦後の日本は科学万能の時代であり、高校生の頃は建築家になろうと思い、大学も工学部に進みました。その頃2年先輩のお寺の息子が、偶像崇拝だと寺の悪口を言っていたのですが、東大に入学して3カ月程で亡くなりました。お見舞いに行った時、部屋には1冊の本も無く、机の上にただ小さなお経の本が1冊置いてあった。彼は「私は今仏様を拝んでいる。おまえも拝まないといかんよ。」と言って3日後に死んでしまった。私はショックを受け、2年後卒業の時、寺か建築か、二者択一を迫られた時、小さい頃からお経は覚えているが、仏教の勉強は一切していなかったので大いに悩みましたが、思い切って寺を継ぐことを決心したわけです。 そんなわけで仏教のことはあまり知りませんので、質問はしないで下さい。

2)仏教の伝来、豪族間の戦争、四天王寺建立

 聖徳太子は、30年間摂政(現在の総理大臣)をされ、49歳で亡くなられたわけですが、太子の生まれる30年前に朝鮮の百済から日本に仏教が入って来ました。百済は新羅に負け、百済人は奈良の飛鳥地方、大阪の百済に多数逃げて来ました。当時の飛鳥地方は、70%が百済人だったそうです。

 仏教は、2,500年前にインドでお釈迦様が悟りを開き、法を説かれ、日本に入って来たのはその1,000年後になります。インドから中国に伝わり、朝鮮に伝わり、日本に入って来たわけです。百済の聖明王が、日本の欽明天皇に仏像とお経を献納し、仏教が伝来したわけです。

 欽明天皇も字を読めなくて豪族の蘇我氏、物部氏に尋ねたところ、蘇我氏は外交をしていたのでよく知っており、朝鮮、中国の高い文化だとして賛成、逆に物部氏は、日本は神国だからと反対しました。天皇は、蘇我氏に仏像とお経を渡し蘇我氏は拝んでいたのですが、その頃伝染病が流行り、物部氏は、仏像を拝むから神様がお怒りになったのだと、仏像を拝んでいる場所を焼いたのですが、仏像は金銅仏だから焼けなかったので、大阪の阿弥陀池に捨ててしまった。後日談ですが、本田善光という男が、この仏像を拾い信州へ持ち込み、祠を建てた。これが現在の善光寺です。

仏像は焼いたが、相変わらず伝染病は治まらず蔓延しました。今度は蘇我氏が、そんなことをするから罰が当ったのだと言い双方戦争になった。実は両氏とも仏教とは何かを知らなかったのです。それを材料にして、権力闘争から戦争にまでなってしまったのです。
欽明天皇の後、敏達天皇、用明天皇と続きましたが、伝染病が流行り両天皇とも早く亡くなられました。

 用明天皇の子供が聖徳太子ですが、その時に崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が戦争し、蘇我氏が勝った。太子は蘇我馬子方で戦い(14歳)、勝利したらお礼に四天王を安置するお寺を建てるという戦勝祈願をしていたので、摂政になった年(593年)に四天王寺を建立されたのです。

3)聖徳太子の政治−朝献外交から対等外交へ
 この時代の天皇は、政治はされなくて、権威はあるが権力は無かった。(現在の天皇も同じ)中国は、天子(日本の天皇)が実際に政治をされ、権威も権力もあった。それゆえ天皇は、狙われ、殺され、その都度国名が変わったわけです。(隋は家来にやられ唐になったように)
 中国は、世界の中心に中国があり、東西南北の国は野蛮国であるという中華思想により、相手国に朝献を迫り、日本も太子の時代までは朝献をしていたわけです。(倭の五王)

 太子は「国の大小に拘わらず、対等でなければいけない」として、607年小野妹子を遣隋使として派遣し、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなきやと…」と対等の文書を送った。対等外交を行ったわけです。
 嘗てアジア、アフリカは欧米の植民地であり、独立国は日本とタイのみであった。太子は日本を独立国とし、それ以来続いているのは日本のみである。(2,000年間続いている)

4)日本の文化水準が高いのは何故か?
 現在、国連加盟国は200国、そのうち150国強が共和国(大統領制)、君主国は24カ国(日本、タイ、オランダ、ベルギー、デンマーク、スペイン…)、それが現在日本が繁栄している基である。日本は戦争に負け焼け野原になったが、それから20年強で第二の経済大国になった。何故か?日本人は頭がいいとか、勤勉だとか言われているが、頭も勤勉さもどの国でも大差は無く、実は天皇が続いたから文化も続いたわけです。
 中国は4,000年の歴史があるが、何故あんなに文化水準が低いのか?
 日本は遣隋使、遣唐使と300年間毎年勉強に行ったが、菅原道真の時中止した。中国の文化が落ちて来たので中止したわけです。その原因は天子が変わったら、前の文化も潰してしまうからです。最近では、毛沢東の中国共産党国家で文化大革命をやり、儒教を潰した。中国古来の文化を潰したのです。今の中国の近代化は、日本人が技術を教えているわけです。日本人が頭がいいとか、勤勉だからではなく、文化が2,000年も継続しているからなのです。
 親から子、孫へと蓄積して行き、知らず知らずの間に身につけているわけです。

 今インドには仏教が無い。中国も今は簡体字に変えたから、古典が読めなくて、お経が読めない。中国は共産主義だから仏教を禁止していたが、最近仏教を勉強し直すにあたり、漢文が分からず、日本に勉強に来ている。今、仏教を勉強しようとすると、日本に来ないと分らないわけです。

5)聖徳太子の師匠
 6世紀の朝鮮内乱の時、日本の軍部が強かったので、高句麗の慧慈(えじ)禅師と百済の僧慧聡(えそう)、両高僧が応援を頼みに来日されました。当時朝鮮には立派な仏教文化が有り、太子は両高僧からその後20年間に亘り仏教、儒教、道教を教わったわけです。太子は大変よく出来たので、仏教のお経や法華経、維摩(ゆいま)経、勝鬘(しょうまん)経の3つのお経の解説書を書いておられます。(これを義疏(ぎしょ)といいます)

 その解説書を師匠の慧慈(えじ)禅師が、全部朝鮮に持って帰り、20年後に朝鮮で教えており、それが中国に渡り、中国人がその解説書の解説書を5冊も書いている。それを平安時代に遣唐使が行って、太子の本を又日本に持ち帰っており、それは現在法隆寺にあります。それぐらい聖徳太子はよく出来たわけです。

 慧慈禅師は、日本で20年間教えて朝鮮へ帰られたが、太子は622年2月22日に49歳で亡くなられた。その訃報を聞かれ、悲しまれて、慧慈禅師は、翌年同じ2月22日に自殺されたのです。天寿国(極楽)へ行き、太子に会って一緒に人民を指導されたという話が、日本書紀に載っています。それほど慧慈禅師は聖徳太子に惚れこんでいたわけです。

6)聖徳太子の教え
 太子の言葉に「唯仏是真」(ゆいぶつぜしん)という言葉があります。これは、中宮寺に「天寿国曼荼羅」という刺繍が残っており、その刺繍の中に多くの亀がおり、その背中に「世間虚仮」(せけんこけ)という言葉が有ります。その言葉を太子の奥様が刺繍で後世に残されたわけです。「世間虚仮」「唯仏是真」とは、「世の中の事は仮のもの、嘘・偽りであり、ただ仏のみが真(まこと)である。」という教えです。

 この太子の教えは、平安時代に遣唐使で中国に渡った伝教大師(天台宗最澄)、弘法大師(真言宗空海)を初め、鎌倉時代には法然上人(浄土宗)、親鸞聖人(浄土真宗)、道元禅師(曹洞宗)、栄西禅師(臨済宗)、日蓮上人(法華宗)、一遍上人(時宗)へと引き継がれているわけです。日本の宗教は、@南無阿弥陀仏の3人、A南妙法蓮華経の1人、B禅宗の2人、の3つに分けられます。この6人全員、比叡山から出ておられます。

 太子は在家で、一般の生活をしておられました。親鸞聖人を初め浄土真宗のお坊さんだけは結婚しておられます。大衆化しなければいけないので、現在のお坊さんは、ほとんど結婚しています。家庭を持ち生活しないと、本当の苦しみは分らないと思うので、私はそれでいいと思っています。


7)17条憲法

 第1条  原文
「一に曰(い)わく、和を以(も)って貴(とおと)しと為(な)し、忤(さから)うこと無きを宗(むね)と為(せ)よ。人皆當(たむら)有り、亦(また)達(さと)れる者少し。是(ここ)を以て、或は君父(くんぷ)に順(したが)わず、乍(また)隣理(りんり)に違(たが)う。然れども、上(かみ)和ぎ、下(しも)睦(むつ)びて、事を論ずるに諧(かな)わば、則ち事理(じり)自(おのずか)ら通ず、何事か成らざらん」
 現代訳
「和を何よりも大切なものとしなさい。なるべく対立しないように心がけなさい。人は3人寄れば党が出来る。悟っている者は少ない。従って、目上の人に従わず、隣どうし喧嘩する。しかし、上の者が一つになれば下も一つになって、損得なしで初めて話し合いが出来る。議論するなら、おのずから現実と真理の正解が得られる。そうすれば、どんな事でも出来る。」
 仏教の教えは、「無我」、自己主張をしない。「虚仮」(こけ)なんです。上下一つになって、和を尊べば、どんな事でも成就するものだ。とおっしゃっておられる。
 第2条  原文
「二(に)に曰(い)わく、篤(あつ)く三寶(さんぽう)を敬え。三寶とは佛(ぶつ)・法(ぽう)・僧(そう)なり。則ち四生(ししょう)の終歸(しゅうき)にして、萬國(ばんこく)の極宗(ごくしゅう)なり。何(いずれ)の世、何(いずれ)の人か、是(こ)の法(のり)を貴(とうと)ばざるべき。人、尤(はなは)だ悪しきは鮮(すくな)し、能(よ)く教うれば従う。其れ三寶に歸(き)せずんば、何を以(もっ)てか枉(まが)れるを直せん…」
 現代訳
「三寶とは、悟った人=仏様、真理そのもの、仏教を勉強して悟ろうと努力している人である。これを敬いなさい。これは生きとし生ける者の最後の拠り所であり、全ての国の究極の規範である。昔でも今でもどんな人でも、この真理を敬わないといけない。本当に悪い人は少ない。どんな悪人でも、道理を話して分れば従うものだ。教育が大事だ。それでは間違っているのを直すには何をすればよいか?三寶(仏法、仏教)に依ればよい。」
 仏教の教えは、「名利(みょうり=名誉とお金)を捨てろ」とおっしゃっている。名誉とお金に執着しないことだ。仏教の教えは、「無我」「無常」です。一時一時を大事にして生きろとおっしゃっている。
 第3条  原文
「三(さん)に曰(い)わく、詔(みことのり)を承(うけたまわ)りては必ず謹(つつし)め。君(きみ)は則(すなわ)ち天(てん)たり、臣(しん)は則ち地(ち)たり。天覆(おお)い、地(ち)載(の)せ、四(し)時(じ)順行(じゅんこう)して、萬氣(ばんき)通ずる事を得(う)。地、天を覆(おお)わんと欲(せ)ば則ち壊(やぶ)れを致さんのみ。是(ここ)を以て、君言(のたま)えば臣承り、上(かみ)行えば下(しも)靡(なび)く。故に、詔(みことのり)を承りては必ず謹(つつし)め。謹まざれば自(おのずか)ら敗れん」
現代訳
「天皇の言葉を受けたなら必ず謹んで従いなさい。天皇は天であり、官僚は地である。天が地を覆い、地は天を担いで民間を守る。だからうまくいく。逆に地が天になろうとしたら自ら潰れる。天皇がおっしゃれば、下は喜んで承る。これを謹むという。上がちゃんとした行動をすれば、下はその通りする。だから天皇の命令を受けたら、必らず謹んでそれに従え。謹んで従わなければ、やがて国家社会の和は自滅する。」

 崇俊天皇は、歴史上初めて殺された。太子の一族は、蘇我入鹿に殺された。太子の教え(人を殺してはいけない)を守り自決されたのである。それが今日まで太子信仰に繋がったわけです。入鹿は、2年後中大兄皇子に殺された。太子が第3条の「天皇を謹め」という条文を残されたので、その後天皇は殺されていません。

 この条文を「詔承必謹」と読みます。この言葉は、終戦の時、ポツダム宣言を受諾するか、しないかで海軍、陸軍の意見は2分された。時の首相鈴木貫太郎は、「原爆投下により、これ以上抗戦出来ない」と報告、この時「詔承必謹」を軍隊に流し、「天皇陛下のおっしゃられたことに従う」と御聖断を仰いだところ、陛下は受諾を選択され、「自分の役目は、大和民族を子孫に伝えることだ。今は全てに耐えて復興して欲しい。戦争はやめる」と玉音放送をされたわけです。この御放送をドイツのカロン博士は「日本を尊敬する」として絶賛しています。私は、この第3条が今日の日本をあらしめたのではないかと思っています。時間が来ましたので、本日はこれで終わります。




平成23年6月 講演の舞台活花


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