第1回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA大ホール
平成23年5月19日
日本古来の文明開化は大阪から




大阪府立近つ飛鳥博物館館長
白石 太一郎 氏

 

講演要旨

4世紀末葉以降、多くの渡来人が海を渡って東アジアの優れた技術や文化を倭国に伝え、ここに日本列島の文明化が始まる。
この新文化受容の中心は一貫して大阪平野であった。
その契機と歴史的背景を探りたい。

 

1)「大和王権」は実は、「大和・河内王権」と呼ぶのが正しい。
 飛鳥・奈良時代以前の古代政権は「大和・河内王権」であったと言える。日本で一番大きな前方後円墳は、堺市大仙陵古墳(現仁徳陵)であります。この古墳は本来の形が崩れており、外域は明確ではないが、墓域全体では70〜80haはあったと推測される巨大な古墳であります。二番目は羽曳野市誉田御廟山古墳(現応神陵)、三番目は堺市上石津ミサンザイ古墳(現履中陵)であります。巨大古墳は大和にもあるが、和泉を含んだ河内の地に多くあります。
 この時代、日本列島各地の首長達は、大和や河内の大首長を中心に首長連合を形成していたと考えられます、古墳の造営はこの首長連合の身分秩序に応じて大小さまざまな古墳を造っていたと思われます。

 古墳時代の前期(3世紀後半から4世紀)の巨大古墳は奈良盆地東南部、現在の桜井市から天理市南側付近に集中しています。奈良盆地では4世紀後半には、北部の佐紀古墳群に大きな古墳が造られますが、4世紀末から5世紀(中期)になると大阪平野に大きな古墳が造られるようになりました。河内の「古市古墳群」や和泉の「百舌鳥古墳群」に巨大な古墳が数多く見られます、これは古墳時代の前期に奈良盆地の勢力が主導権を握っていた大和王権に代わって、中期には河内・和泉の勢力が王権を掌握した結果と考えられます。

 古墳は必ずしも政治勢力の本拠地に造られたとは限らないとする考え方もありますが、私は古墳は政治勢力の本拠地に造られたとする考え方です。例えば、雄略天皇の時代に、倭国は朝鮮半島に出兵し、大将軍に紀ノ川流域を中心とする大豪族、紀氏の族長、紀小弓宿祢(きのおゆみのすくね)が派遣されます。この時、小弓宿祢が現地で亡くなり遺骸が帰ってきたので、雄略天皇はその墓を紀氏の本拠地に含まれていたと思われる和泉の南、淡輪に造らせたとの記録がある。この伝承からも当時の人々の古墳は本拠地に造るのが大原則であったと考えられます。

大和王権を支えた地域的な基盤は畿内(大和・河内・和泉)でも南の地域であったと考えられます。大王墓級の墳丘長200メートルを超える前方後円墳は、淀川水系(三島の古墳群)には1基しかない。これに対し大和川水系では200メートルを越える前方後円墳は33基もあります。これは大和王権を支えた地域的な基盤が畿内全体ではなく、その南の大和川水系の大和・河内・和泉にほかならなかったことを物語っています。したがって、4世紀末葉以降大阪平野南部の勢力が王権を掌握したということは、この大和王権、すなわち大和・河内・和泉連合の中で河内・和泉の勢力がリーダーシップを得たことに他ならないとおもわれます。

2)日本古代の文明開化は大阪から
 4世紀の東アジア情勢について
 中国では秦の始皇帝が中国全土を統一するが、次いで漢帝国の時代となる。邪馬台国の時代には魏・蜀・呉の三国分立時代となり、魏が覇権を握ることになりますが、魏の権臣司馬氏が皇権を握り、3世紀後半には晋が成立する。4世紀には北方の遊牧騎馬系の民族が大挙して中国に進入して来て、漢人の王朝は南に追いやられて、北半分は五胡十六国時代となります。いわゆる南北朝時代です。

 五胡の一つ鮮卑族が朝鮮半島の高句麗を攻め、高句麗は大きな打撃を受ける。そこで高句麗は南下、新羅・百済を攻めた。新羅は高句麗に降って生き延びようとするが、百済は伽耶諸国を通じて倭国に救援を求めてきた。当時の倭国は鉄資源を朝鮮半島に頼っていたのと、高句麗が新羅や百済を滅ぼして、倭国に攻めてくる危険も感じたのか、倭国は百済と同盟関係を結び、百済を助けるために、朝鮮半島に出兵をすることになります。高句麗は強力な騎馬軍団を持っているが、当時の倭国には馬はいなかった、倭国は騎馬文化を取り入れ騎馬戦術を学ばねばならない。従って百済は積極的に倭国に騎馬文化を伝えることになります。このような歴史的背景があります。

 いずれにしてもこうした東アジア情勢に対して邪馬台国以来の宗教的・技術的な性格の強い大和王権では対応出来なかった。それ以前から、大和王権の中で、朝鮮半島と交渉・交易を担当していた大阪湾岸の河内・和泉の勢力が、大和王権の中でのリーダーシップを持つようになったのは当然だと考えられます。
 4世紀後半以降、このような国際情勢の大きな変化の中で百済や伽耶諸国から新しい技術が倭国に流入して来た。特に馬具の生産技術に関連して様々な技術、すなわち金属加工技術、皮革の技術・織物の技術、さらに焼物の技術・土木技術・統治技術・学問・思想・文学・文字等々様々な先進的な技術や文化が倭国に入ってくることになります。またそれと共に多くの渡来人が倭国に移動してきました。

 朝鮮半島で造られたものや、渡来人が持ってきたものに限らず、倭国で渡来人が作ったものも含めて韓式系土器が圧倒的に多く出てくるのは河内であります。大和にもありますが、葛城地方と飛鳥地方以外にはそれ程多くない。そのことからもこの時期、最も多くの渡来人が定着して、新しい優れた技術や文化を受け入れた中心地が河内・和泉地域であった事は考古学的な材料からも明らかであります。

 四條畷市の蔀屋北遺跡では井戸枠に転用されていた船材が多く見つかっています。当時5世紀の船は基本的には丸木舟で、船底の部分は丸木をくり抜いたものであり、その上に堅板や舷側板を組合せた準構造船であります。この事は埴輪や当時の絵画でも確認できます。多くの渡来人はこの準構造船で渡来し、新しい技術を伝え定着したものと考えられます。船材の多くは杉材です。杉や檜は朝鮮半島にないので、日本で作ったものと思いますが、古い時期のものには樅のものがあり、これは朝鮮半島で作った船で、彼らは、倭国に定着後も朝鮮半島との交渉・交易に大きな役割を果たしたものと思われます。
またこの時期、新しい硬質の焼物である須恵器の技術が伝えられ、河内から和泉にかけての陶邑(すえむら)窯跡群という古墳時代では最大の須恵器の生産地帯ができあがる訳であります。
 4世紀後半以降、特に5世紀にかけて、朝鮮半島から新しい技術や文化がとうとうと倭国に伝えられる、その受容の中心はあくまでも河内・和泉であったことが、最近の考古学的な調査成果からも認識できる訳であります。
 日本の本格的な文明開化は、何段階かありますが、中国や朝鮮半島の進んだ技術や文化がいっきに、纏まって、倭国に伝えられたのは4世紀後半以降7世紀までの時期、この300年の間に倭人たちは優れた先進文化・技術を我が物として、7世紀終わりには中国の律令制度を受け入れて、強力な中央集権国家体制を打ち立てる訳であります。そして、優れた飛鳥、白鳳の古代文化を生み出すことになる訳であります。
 「大和政権は大和・河内政権にほかならない」ことと「日本古代の文明開化は大阪から」と言う二つの問題は密接に関連しています。

4世紀末葉以降、大阪平野の勢力、河内・和泉の勢力が王権を掌握したことは間違いないと思いますが、王宮も全部大阪平野に移ってきた訳ではありません。当時の大和王権は奈良盆地と河内・和泉平野、大和川水系が大和王権の本拠地であります。

 王権が大和の勢力から河内和泉を含む勢力に移ったといっても、それは大和・河内政権の中でのリーダーシップが河内の勢力に移ったのであって、大和王権の地域的な基盤が大和・河内の全体であったことには変りない訳で、既に4世紀段階から大和を中心に大和王権の支配体制が出来上がっているので、従って河内・和泉の勢力も当然すでに出来上がっていた大和を中心とする支配のシステムをそのまま受け継ぐ訳であります。

 その後、継体天皇は畿内の東の方の近江や尾張や越前の勢力と畿内の北の淀川水系の勢力の支持を受けて、王権を掌握します。これが継体朝の成立にほかならないと思います。こうして継体朝以降は、北の摂津や山城も畿内の地域、王権の基盤に入ってくるのです。継体天皇出自はよくわかりませんが、入婿の形でそれ以前の大和の王権とつながっていることはうたがいありません。

 王権が大和の勢力から河内の勢力に移る時も、新しく政治権力を掌握した河内の勢力は大和の旧王家と婚姻関係を結び、入婿の形でそれ以前の王家と繋がっていたと思われます。

6世紀段階の大王家は基本的には河内大王家と考えていいと思います。その後飛鳥時代になると王の宮が飛鳥の地に固定される訳です。その後藤原京・藤原宮、平城京・平城宮に移っていく、少なくとも飛鳥時代以降は政治の中心が大和に定着してしまう。5〜6世紀段階の王権は明らかに大和・河内王権であった。大阪が古代の歴史において果たした役割は極めて大きい。特に東アジア世界との関係において、とりわけ重要な役割を果たしたということ、これは現代における大阪の役割を考える上でも重要な問題を示唆してくれるものだと思います。



平成23年5月 講演の舞台活花


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