10回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年3月19日
 
なぜ、今淀屋なのか
~淀屋の時代の大阪とその後~



淀屋研究会 副代表 
福山 琢磨 氏

               講演要旨
400年前、焦土の大坂を再興し、「天下の台所」にしたのは淀屋でした。 巨大化した淀屋は100年後、幕府にとりつぶされました。 この淀屋の前後を通じて大坂をふり返り、大阪の未来を考えたいと思います。


本来なら伊藤代表がお伺いする予定であったが体調を崩しているので私が代わって来させて頂いた。

まずこの碑をご覧になったことのある方は挙手願いたい(パラパラ)。 

この石碑は、淀屋橋の南西、ミズノスポーツの前にあり、タタミ二畳ほどの丸石の下台座に淀屋の歴史が記されている。 そのすぐ側の淀屋橋も淀屋がつくったものである。 今は常案の町名が消えた常案橋も然り。

さて、1979年(昭和54年6月5日)に発行された日本海新聞の記事がきっかけであるが、江戸時代の豪商、淀屋清兵衛は大阪―倉吉とも同一人物であったと報じられ、倉吉の大蓮寺に残っている墓や過去貼や位牌などが話題になり、倉吉にも初代の淀屋清兵衛をはじめ、3代にわたって清兵衛を名乗る牧田家の存在が明らかになり、これが淀屋研究の発端となったのである。

その倉吉の場所であるが、東西に長い鳥取県の中央にあり、白壁の土蔵が蔵屋敷の面影を残している。


このモダンな外観の本堂がある大蓮寺に、淀屋清兵衛の墓が発見された。 表の和風構えの寺門の奥にあるこの本堂はオランダ寺のような和洋折衷の感じである。

スライドでご覧の年表が示すのは、初代から5代と続く淀屋前期、そして闕所となった後が引き継がれた倉吉の中期牧田淀屋、その後50年たって大坂に復帰した後期の淀屋の全体像である。 

では、なぜ淀屋が闕所処分になったか・・・、お金を儲け過ぎたから・・・は表向きの理由。 本意は商人にあるまじき贅沢をしたからがその理由である。

どんな贅沢をしたかの一例は、自宅の天井に水槽を作りそこに金魚を泳がせた程と言われている。 こんな武家でもできないほどの贅沢三昧はけしからぬということだが、しかし本当は、ほとんど大名が淀屋からの借金で首が回らなくなり、それから逃れるために何とかして淀屋を潰せ・・・・と相なって処分になったのが真相であろう。

闕所にもいろいろランクがあって、一番重いのが土地家財没収の上死罪。 次が重追放、中追放、軽追放となる。 いわゆる所払いであるが、淀屋が受けた闕所は一番重い罪。 5名が獄門となったが、淀屋だけはある寺坊「覚雲」の命乞いで助かった。 この「覚雲」は赤穂の大石内蔵助と深い関係があっと推測される。 一説では、大石内蔵助が京都で芸者遊びをしたが、淀屋がその遊興資金を融通したとも言われている。 また、大坂の淀屋の屋敷と赤穂の大阪屋敷が隣り合っていた事実もある。 

幕府によって没収された財産額は、一例として大名貸で現在価格で6兆円、資産は約7兆2千億円という桁はずれのものであった。 淀屋は種々の情報網をとおして、前々から闕所処分を察知していたようで、闕所処分の前に既に淀屋の牧田からの番頭を、国の倉吉に戻し、そこで受け皿作りのいろいろな事業をしていたのである。

その一例として、4代淀屋重当と牧田の番頭が、当時の藩主であった池田公に会って、鍛冶屋の町を倉吉につくり、そこで稲こき千刃の器械を作り、全国に売り出したいと許可願いでたことである。

↑これが池田公から頂いた参内許可の「ふくさと直衣」である。 これが菩提である大蓮寺に保存されている。

淀屋重当考案の「稲こき千刃」は麦の竹すきからヒントを得て、地域の鉄山を踏破調査し、良質の砂鉄を発見。いわゆる玉鋼。

倉吉の鍛冶屋町でこの「稲こき千刃」を製作し、北前船で新潟や秋田の米どころを含み全国に売り捌いたのである。 鍛冶屋町の最盛期には製造所20ケ所以上、従業員は1000名を数えたとも言われている。

淀屋のビジネスで優れているのは、この時代ですでにアフターサービスを行っていること。 千刃の歯こぼれを2年ごとに交換して回り、全国的に普及した。 


牧田淀屋は、2代目から「多田屋」として、大坂にも店を開き、木綿業を営んでいたが、牧田家5代目の4男「孝四郎成康」を「淀屋清兵衛」として、大坂淀屋橋の元の地で暖簾を揚げ再興、同じく木綿業を営んだのである。



大坂に興杼(よど)神社があるが、ここに大坂淀屋再興宣言の石灯籠(1763)が「大坂淀屋」と銘刻し寄進されている。

宝暦13年(1763)の北浜を買い戻し、木綿業を営んだ初代「淀屋清兵衛」」の復帰の証と時と同じくしている。

ところがである・・・、幕末安政6年、何故かは不明だが、安政の大獄の年に、大坂とともに倉吉も店を自閉してしまった。 

当主は14歳であったため、7代の淀屋仁左衛門庸定と4代目淀屋清兵衛の決断と思われるが、朝廷に莫大の財産の9割を献納し表舞台から姿を消してしまったのである。 それがなぜかは未だに解明されていない。

予測の話だが、前に先祖が闕所処分になった事柄を踏まえ、今の世の流れみていると、将軍の時代が続くのか、あるいは天皇家の時代になるのか、その流れは天皇家の時代となってサムライ時代の終焉を読みあって、いずれ寄付などの事態に至るなら、今のうちに潔く自分たちの考えを証し、大名貸もできるだけ回収し財産を処分して、朝廷に寄進し自分たちはこの世から身を引く方向を選択したのではなかろうかと、我々淀屋研究会では今のところ話し合っている次第である。  しかしそれを証明するものは何も見つかっていないのが現状。

明治の初め、牧田家の過去貼には、欄外に「万万歳」と記されており、我が国の「王政復古」を果たしたとの意でありましょうか。

淀屋についてまとめると
●江戸前期の大坂を「日本一の商都」「天下の台所」にした最大の功労者である。
●淀屋は、大坂とともに成長し、最大の貢献をした。 そして権力に屈しなかった。
●淀屋は、財力と力を持ち過ぎたため、1705年に幕府に取りつぶされた。
        闕所⇒財産没収→追放
●しかし、倉吉で秘かに暖簾を繋ぎ、1763年、元の淀屋橋で淀屋清兵衛を公称し再興を果たした。
●1859年、突如、大坂と倉吉の店を閉鎖、資金を朝廷に献じ、この世から去っていった。


一通りの話はこれでお終いだが、淀屋・屋敷跡の解っている範囲を説明すると、東西方向は、、現在より東側にあった御堂筋から西横掘までに至り、南はガスビルの手前までの長方形の地町だった。 その中に相当数の蔵が立ち並んでいたのである。 冒頭に説明した淀屋の石碑の近辺が淀屋の表庭で米の市が開かれていたが、狭くなったので湿地帯であった中之島を開墾した。 この土木工事として、現在の場所あたりに木の淀屋橋が架けられたのある。

今の全日空ホテル辺りに堂島米取引所跡の碑があるが、その米相場が全国に発信され、その相場が他のものの値段の基本となっていったのである。 米取引以外にも、靱(ウツボ)公園辺りで「雑喉場ざこば市」も主催され記念碑も残っている。 また、野菜果物のマーケットが、天満の方で開かれており、その碑が日本経済新聞社の東側角に「青物市」として存在する。

最後に淀屋の業績であるが、これを総括すると・・・・
●正しい相場のための米市場設立と運営
●中之島の開拓
●淀川堤防の大改修
●行政への参画と地域への貢献
●青物市場の再開と運営
●雑喉場市場の設立と運営
●北前船→北方交易の先鞭
●糸割符の導入
●神社仏閣への膨大の寄進
●困窮大名に融資
●銀座設立に参画

などがそれであろう。

淀屋の初代は「常安ジョーアン」、二代目が「言当ゲント」、三代目が「筒斉トーサイ」、4代目が「重当ジュート」、5代目が「広当コート」と呼ばれているが、全てが日本離れした名前になっている。 どうもオランダに由来している名前ではなかろうか・・・との研究もあるがこれも定かでない。

これでひとまず終わらせていただく。

《講師未見承》



平成21年3月 講演の舞台活花

活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
過去5年間の舞台活花とその時の講演要旨を組み合わせた
「講演舞台活花写真画廊」のブログも
ご覧ください。

講演舞台写真画廊展
(↑をクリック)