第9回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成21年2月19日
 
800年の文庫を今に伝える



財団法人 「冷泉家時雨亭文庫」 理事
冷泉 貴実子氏

                講演要旨
平安時代から鎌倉時代にかけての歌人、藤原俊成・定家を祖とする冷泉家の歴史と、その伝えてきた文化を解説すると共に、何故現在まで伝えることができたか、その理由を考えます。
         
本日は冷泉家のお話をする。 まずお手元に冷泉家の系図をお配りしているのでそれをご覧になりながら話を聞いていただきたい。

冷泉という名前がどこから出てきたか、それは京都の通りの名前からである。平安時代の貴族は大概藤原氏であった。 多くの藤原家があったので住んでいた京都の通りの名前をとってその名前としたものである。


道長から5代俊成、そして6代定家の時代

お手元の系図では道長が始めに記載されているが、その遡上は藤原の不比等鎌足を考えてもらえればよい。 

道長は摂関政治の頂を極めた人、源氏物語の光源氏がそのモデルとも云われた最高権力者であった。 道長から下って5代目が俊成、次が定家となる。 

この二人は鎌倉時代の歌詠みで大変有名。  五、七、五、七、七の短歌がそれ。 当時は歌詠みが大変重要な朝廷文化であった。 なぜか?・・・日本の貴族社会では皆和歌を詠んだ。 このリズムが心地良い。 現代の標語でもこの五・七の繰り返しのリズムを踏んでいる。 この和歌が平安時代から王朝文化の正統となっていたのである。

和歌は当時非常な値打ちがあった。 たとえば源氏物語でもお解りのように和歌ができなければ恋は成り立たなかった。 当時のお姫様は、御簾の中に入っていて外に出なかった。 そのお姫様に近付き相手に気持ちを伝える手段が 花に例え鳥に例えた五・七・五・七・七の和歌。 だから昔の貴族は和歌ができることが最低限の資格だったのである。 

次に大事なポイントが勅撰和歌集。 撰は選でもよい。 天皇や上皇の命で和歌の集を編んだが、一番古いのが古今和歌集。 その伝統は平安時代から室町時代まで続いたが各貴族たちにとっては、自分たちの和歌がそこに選ばれることが大変な名誉であった。 さらに名誉なのは、この勅撰和歌集の選者に選ばれることであった。

実は俊成、定家、為家は勅撰和歌集の編者として有名だった。 平安から室町までの編集スタイルは古今和歌集以来不変。 勅撰和歌集を編めとの勅を受けるのは当時の貴族にとっては大変名誉なことだったので、いつ何時でもそれに応じられるよう自分たちの資料を持っている必要があったのである。 その資料を私家集と言う。

つまり個人の歌集である私家集を自分で持つには、写本しかなかった。 俊成も定家もこの写本を作るのに熱心でありそれに長けており、俊成工房・定家工房、つまりアトリエがあったと思われる。

7代為家から為相へ

その定家の子が為家、やはり勅撰和歌集の編者なっている。 為家が最初に結婚したのが宇都宮頼綱女。 二人の子、為氏(二条家)と為教(京極家)がいたが、頼綱の女の死後、若い阿仏との間に為相を設けた。 為家は死の直前まで為相のための遺言状を残し、異母兄弟の相続争いとなった。 

若い為相の代わりに表に出てきたのが阿仏尼。 遺言状を胸に、当時の鎌倉幕府に訴えるため東海道を鎌倉に下向した。 その道中日記が有名な十六夜日記である。 当時の鎌倉は、蒙古来襲の元寇の役でそれどころではなかったので阿仏尼は鎌倉に留まり、その間の記録も十六夜日記に記したたまま亡くなってしまうが、死後、結局遺言状が執行され、多くの荘園や曾祖父・祖父・父が書いた色々な本が為相の元にやってくることになったのである。 

冷泉家の黎明は阿仏尼

為相は冷泉通りに面していたので冷泉家と称しそれから800年近い年代を刻んできた訳である。 これが日本文学史上に残された有名なお家騒動であるが、これをめぐりいくつかのことに気付く。 

まずは、あの時代に遺言書が執行されたことは、13世紀のこの国が、武力によらず法によって裁かれた世界に稀なる法治国家であったということである。 

800年前に阿仏尼のような女性の字が読み書きができたことも驚くべきことである。 為相から私どもで25代になるが、この家を作ったのは阿仏尼、つまり女性であった。つまり女性が地位を持っていたことである。

さて、これ以降は南北朝時代に移っていく。 そのとき力があった為氏の二条家と為教の京極家は南北の争いに飲みこまれて断絶するのに比し、あまりパッとしていなかった冷泉家が唯一俊成定家を継ぐことになったのである。

この後の冷泉家の話しだが、この国には古典がたくさんある。古今集・源氏物語などは成立以後ずっとこの国の古典籍として取り扱われてきた。 1000年前に書かれたことが現代でも解ることが凄い。文化がずっと続いてきたことになる。
   
ところが、古今集の原本や源氏物語の原本はどこにもない。それがいかにして現代に伝わったかは、写本がそれである。 その写本を探っていくと必ず定家の本に当る。 藤原定家はそれほど古典写本を持っていたことになる。 ではどうして伝えられたかは、結局は冷泉家が伝えたのであり、この文庫が何故重要かは、日本古典籍の最古到達点が、定家の写本に至るからである。

なぜ冷泉家に伝わったか、代々の冷泉家が、これらの写本を大切に保持することが、すなわち冷泉家の正当性を保証するために必要だったのである。 かくして多くのものが現在に残されているのである。 持っていることが重要で必死に守ってきたのが冷泉家の文庫という訳。

冷泉家の江戸時代は9代為満から

9代の為満は江戸時代の始めの人だが、現代に一番近い過去が江戸時代。 当時日本には、京都、大阪、江戸の三つの都があった。 政治の江戸、浪速商道の都。 それに朝廷・公家文化の京都の三つである。 

このとき朝廷を取り巻く京都の公家衆はなにをしていたかが私の次の話。 

政治の実権のない天皇は、年中行事を司っていた。 新嘗祭などの諸事をやり続けることが天皇の力であり仕事であった。 その行事のやり方一般を有職故実と言いう。 天皇を取り巻く公家も、年中行事に終始したのである。 

江戸時代は皆その雅な宮中文化に憧れていて、このことが上方文化と言われるものである。 この宮中文化をサポートするのが公家衆の大きな役割となっていった。 さらに公家衆の役割が家業と言われる個別のプロフェッショナル化をした年中行事屋となっていったのである。 つまり一子相伝の知的財産権。 これが日本の家元制の始りでありブランド暖簾である。  

冷泉は勿論和歌の家。 歌道の家元になっていった。 なぜ冷泉家が歌道の家として成立したか・・・命がけで守った定家からの文庫があり、代々の伝授があったからである。 かくして古今和歌集以来の精神的にも人間的にも高みを求める家元の歌道が成立したのである。 これが京都の文化・王朝の文化として日本社会の根流をなした訳である。

文明開化を迎えた20代為理

この次に明治維新を迎えるのだが、20代為理がその人。 明治維新は現在に至る大変重要な市民革命であり、殖産興業・文明開化の日本を作り上げることになったのは間違いない事実。 これを御所から眺めると、有職故実の天皇が突然東京に行って、西洋化したのが明治維新の姿。 そして公家衆は、鹿鳴館ダンスのような新しい西洋文明を取り入れ、一子相伝の有職故事を徐々に打ち去ってしまったのである。 古きものがどんどん流出消失した混乱の時代であった。

冷泉家は伯爵の地位であったので食べるには事欠かなかったが、困ったのが第2次世界大戦のころの22代・23代である。 冷泉家は京都だから焼け残った。 本当に苦しかったのは戦後。 文化財などだれも顧みなかった時代。 戦後すぐは財産税・相続税などで、多くの什器類の文化財が出て行ってしまったが、俊成以来命がけで守った本(文庫)は、その売却は罰が当たるとして蔵(庫)を閉めてしまった。 他の蔵のものはどんどん出ていってしまい、家は荒れ放題の状態だった。

現在の当主 25代為人
 
戦後60年たったころ24代であった父が、今後をどうするかが冷泉家の悩みであった。 同志社大学に売却の話もあったが、京都府文化財保護課が文化財に関心を持ってくれ、調査の話に進展したのである。 

学術調査が始まったとき、朝日新聞社を連れてきて、しばらく経って「冷泉家の蔵開く」との大トップニュースに至った。 朝日新聞の論調が、個人がこの様な貴重な文化財をよく保持してくれた・・と非常に格調高いものであった。 

「冷泉家時雨亭文庫」

このお陰で財団法人化に至り、先祖藤原定家が編んだと言われる小倉百人一首の小倉山に設けた時雨亭に由来し財団法人「冷泉家時雨亭文庫」として発足しこれまで30年程経過したのが現状である。

「私たちはまさにこの古典籍を守ってきた伝統であるが、それを皆さんにお見せするために、朝日新聞社の大協力を得て、この2月に冷泉家時雨亭叢書という84巻の写真版が完成した。それで、今秋から東京都の美術館と来春は京都の文化博物館で、日本の祖本である古典籍を一堂に集めた展覧会を催すのでどうぞご覧いただきたい。 

冷泉家の文庫は、今まで800年間も守り伝えられてきたが、これから800年この国がある限り、これを保存していきたいと思っている。 神宿る、罰あたるとして守ってきたことを考えるとなにか精神的に大切なものだよ・・との心も一緒に保存できたらな・・・と思っている。 どうぞこれを機会にみなさんの広いご支援をお願いする次第である。 


平成21年2月 講演の舞台活花

活花は季節に合わせて舞台を飾っています。
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