第7回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成20年12月18日
 
いま、江戸時代に学ぶ

財団法人 徳川記念財団
理事長
徳川 恒孝 氏

講演要旨

江戸260年の平和のうちに作られた日本独特の高度な文化社会を、
西欧の文化、現代の日本の在りかたと比較し、
将来のあるべき姿を考えます。

1.戦国時代から江戸時代へ

 私たちが学校で習った日本史では、鎌倉から江戸時代まではお侍の時代で、明治維新になってパッと近代文明の時代になったと教わってきた。しかし欧米の日本史の学者・先生などの日本の歴史区分では、戦国時代前と関が原を挿んで戦国時代後とに分け、日本はもっと江戸時代を高く評価しなければならないという。二つの文を引用しよう。

 戦国時代・・・「土地はすべて耕作されることもなく、また耕作されていたところは種を蒔いたままで荒らされ、敵方や隣人によって強奪され、絶えず互いに殺しあった。日本全体は極度の貧窮と悲惨に陥った。商取引についても法も統治も無く、各自が勝手に殺したり、罰したり、国外に追放したり財産を没収したりした。」(宣教師ロドリゲス 日本教会史)
     (註)ロドリゲス:桃山時代のはじめ、1560年代に来日、ポルトガル人、50年日本にいた)

 江戸時代・・・「この国の民は習俗、道徳、技芸、立ち居振舞いの点で世界のどの国にも立ち勝り、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気性を持ち、生活必需品は有り余る程に豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見る程の幸福な国民である。」(ケンペル 鎖国論)
     (註)ケンペル:1680年代、元禄時代に入る頃、ドイツ人、医師)

 100年の間にガラッと国が変わった。何が変わったかというと、戦争の時代から平和の時代になったということである。

 この1600年から1700年の1世紀をみてみると、日本は1600年の関が原が境いで、その後例外はあるものの全国的に戦争のない平和の体制ができた。
 一方でこの1世紀の世界を見てみると、大変な戦争の時代であった。ヨーロッパでは、有名な30年戦争にはじまる戦火が絶えなかった。
 そういう中で、日本だけが戦争のない平和が続いて、元禄時代に入っていくのである。


2.戦国時代の生んだ新しいリーダーシップ

 江戸の話に入る前に、戦国時代はどんな時代だったのか、少しだけ話しておきたい。
この時代に、日本の組織の動かし方とか、日本のリーダーシップの形がつくられたと私は思っている。 たくさんある中から、ここに3つの「家訓」を持ってきた。

三河松平家・・・「三引き付け」:人の心を松平家に引っぱってくる一番大事なもの
  1 武辺―戦略思考も含めて戦に強いこと
  2 情け―総大将は雑兵にまで言葉をかける ⇒ これが戦を変える
  3 慈悲―領民全体のために

朝倉家(越前)・・・「諸沙汰時 理非少しも曲げられ間敷く候。若し役人わたくしも致し候由聞き及び候へば罪に固く申し付けらるべく候」

北条家(小田原)・・・「侍より地下人百姓に至るまで何れも不憫に存ぜらるべく候」。「如何なる者たりとも この者は一向に役に立たざるうつけ者よと見限ることは大将の心としては浅ましくせわしき心也」

 こういう中で出来た考え方や組織論が、後の江戸時代を通じて現代まで流れ、日本の組織の基本になるものが生まれてきたと思っている。


3.家康公の平和政策

 家康公の平和政策の最大のものは出版事業であった。世の中が乱れていつまでも戦乱が治まらないのは、人々が本を読まないからだ。本を発行するのが平和の基であると、出版事業に入り、『貞観政要』(中国史上最高の名君と称される唐の太宗の言行録)を出版した。まだ伏見城に居城するころで、活字は木活字であり、これを「伏見版」という。のちに朝鮮戦争の後、銅活字で刷られた「駿河版」が出る。

 「大阪の陣」が終わったあと、「元和」という年号にした。ここに以って和がはじまる。平和にすると宣言して家康公は亡くなったわけだが、彼の考えたことは戦争をなくすこと、200年以上続いた疲弊した日本をチャンと元に戻すということであった。

 最初の100年間にいろいろなことが起こった。その中で一番大きかったのは、軍事費用の民生への大転換である。この100年は日本大改造の100年で、大土木工事の世紀でもあった。河川のつけかえや治水、新田の開発や干拓に膨大なお金をつぎ込んだ。

 また城下町があちこちにできた。ここ1、2年、静岡・熊本・彦根・広島など、あちこちで400年祭が行われているが、今の日本の形ができたのが400年前のことである。通貨が全国に流通し、度量衡が統一され、日本中の法律がほぼ統一された。

 これらの結果、100年間で日本の人口は1200万から3000万に急増し、爆発的に経済が発展した。おそらく日本の歴史を振り返ってみて、日本中が一番明るく元気だったのが、1680年から1720年の元禄時代ではなかったか。その真ん中にいたのが大阪である。

 なぜ大阪がそんなに繁栄したのかそのポイントの一つは、年貢の免除にある。大阪は「大阪の陣」で市街地も焼き払われ無残な町になった。そこへ家光がやってきて年貢を一切免除する。米蔵ができ、銀座ができて、経済の一大中心地になり、近松・西鶴・上方歌舞伎・浄瑠璃など文化も発展した。
 
 この頃になるともう江戸の方が大きくなっているのだが、江戸はまだ新興の町で、人口の半分は武士、お武家さん支配の町であった。その点大阪は殆んどお武家さんもいないので、自由市民の町、商都として栄え今日に至った。大阪の都市としての性格は、江戸時代の年貢免除に始まったといえる。


4.江戸時代の文教政策

 天璋院さまの時代に日本は開国する。いろいろな外国から来た人が日記を書いているが、それを調べてみるると、一番彼らが驚いたのは、一般市民の識字率の高さである。都会では男性で8割、女性で6,7割の高さである。(日本全体では幕末時点で、男性60~65%、女性50~55%といわれている) 1850年で切ると、ヨーロッパの女性は殆んど字が読めないのである。私たちが何となく江戸時代は女性が虐げられた時代で、明治になって女権運動が始まり女性の時代が来たと思っているのは、かなり間違いのようである。

 高い識字率と社会性をもたらした教育について、武士の教育と寺子屋の教育と、大きく二つに分けて話をする。

○寺子屋教育・・・普通は今の小学校の年代だが義務教育でないから親が連れてくる。いまの教育と何が違うかというと、お師匠さんと1対1の教育。教えることも教科書も違う。将来なるであろう職に必要なことを教える。子どもは百人百色、全部違うのだから、教育は1対1。また子どもの数が増えると、上の子が下の子を教える。当然落ちこぼれはいない。
そして12、3才になると、親元を離れ20才過ぎまで丁稚・徒弟奉公をし、そこで大人になっていく「他人の飯を食う」制度。社会が責任を持った人材育成のシステムである。

○武士の子弟教育・・・文武両道の育成であるが、儒学を中心とした教育で、実際役に立つ知識は教えない。どういう人になるかということだけを教える。今の小学校の頃から藩校に入るが徹底的な人格教育で、子どもの頃からきちっと教えないと、上に立つ人は作れない。お金には関係なく、義すなわち正しい道を行うことが武家政治であるという考えで人を作った。


5.武士(義)の道徳規範

 日本という国は面白い国で、武家にはという道徳規範があり、これを基準に生きている。商人には利という非常に洗練された経済社会のしっかりした規範がある。職人には技というものに対する自負と誇りがある。農民には篤農としてこの国の食糧を支えているという誇りがある。

 ですから、収入の多寡とか経済の多寡ではなく、各階層の人たちが、自分が社会に果たしている役割りが明確であったし、誇りのようなものがあった。今はそれを全てお金に換算してしまう。そこが今の社会とは完全に違うところだろう。


6.天璋院が田安亀之助(徳川家達)に遺したもの


 最近は天璋院様の話をしないと叱られるので少しだけ説明すると、田安亀之助は私の曽祖父に当たる。天璋院様がその養育に当たるのだが、新しい徳川家の方針は、徹底した質素と倹約の家風であった。天璋院様が亡くなったとき、千駄ヶ谷の徳川家から上野の寛永寺までの葬列を見送りに出た人が3万人といわれている。

 また、大正12年の関東大震災の後、いろいろな流言飛語が飛び交い、当時の華族さんたちの家はお屋敷の門を固く閉じていた中で、千駄ヶ谷の徳川家だけは門を広く開けて避難民を入れ、テントを張って炊き出しをし、救援活動に携わった。
それをみていた新聞記者が、「さすがに天璋院様のお作りになった徳川家だ」と書いた。従ってその頃までは、天璋院様が江戸にとってどういう方だったかということが、市民にも分かっていたようである。

 最後に少し重たい話をするが、レジュメに現代日本の問題として、

      「家」の概念の喪失が招いたもの=時の流れの観念の喪失

と書いた。もともと日本人には「家」というものがあって、そこに曽祖父から曾孫までいて、ず~っとそういう流れの中に、ここに自分の位置があるな という感覚をみんな持っていた。この感覚というのは、余り悪いことはできないように自分を縛る凄い力がある。それを明治民法がいけなかったのか、おかしくなってしまった。それは別に法律にするようなことではなく、社会の中でみなが概念として分かっていて、出来の悪いのは退け、養子をとってもいいし、そういう流れの中にいた方がよかったのではないか。それを真向から否定してしまったことが、今の世の中に影響していると思うし、そうした上から下へ流れていくという時の観念がなくなったことが、今の日本には困ったことだと感じている。


7.江戸時代は完全なリサイクル・省エネルギー社会

 江戸時代は完全なリサイクルの時代、捨てるものがない社会であった。レジュメに付けた「日本橋」の版画は、消費エネルギー「0」の社会である。この社会を支えていたのは、太陽の光線と、雨の水と、風の力と、あとは人間と牛と馬の力、これだけでこういう豊かな社会があった。

 いま私たちは、1日1人あたり10万キロカロリーの膨大なエネルギーを使っている。1975年の万博のときが5万キロカロリーというから、そこからでも倍のエネルギーを使うライフスタイルになっていることに気付く必要がある。

 CO2 の排出が象徴的に大きな問題になっているが、なぜ大変かというと水の問題がある。世界の人口は、私が高校生のころは30億、大阪万博のときで40億、いま67億だが、2050年には90億になるといわれている。勢い食糧もエネルギーも消費が進む。その中で温暖化がが進むとどうなるか。一番心配なのは水。なぜ水なのかというと、雪とか氷河が持つ保水能力が物凄いものであるからだ。日本も積雪が減ってきて大変なのだが、一番大変なのはヒマラヤの氷河。アジアを流れている大河の水源地はヒマラヤで、その川の流域に住んでいる人口が32億人いる。いまなんとか食い止めないとエライことになる。

 そのとき問題に直面するのは、いま保育園や幼稚園に通う子供たちだ。その子どもたちが2050年、60年のときに50才とか60才になり、社会を中心になって動かしている年代になる。

 私たちの国のあり方が大変な問題に直面している。それをどうしたらいいのか。お金も大切だけれど、お金よりも、お金とは違う大切なものがあるだろう。そういうことの中の一つに、環境という問題も含めて皆様に考えていただけたら有難いと思う。



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