平成20年度第3回
一般教養科目公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成20年7月17日
 
人間の意志はどこまで自由か
~脳科学と哲学の接点~



大阪府立大学総合リハビリテーション学部
教授 
西川 隆氏

      講演要旨


                      
私たちは、自分の決断と行動が自らの自由意志に委ねられていることを信じて疑いません。 しかし、現代の脳科学はそうした自由な主体の存在に大きな疑問を投げかけています。 
脳科学と自我論の接点を探ってみましょう。


●自己決定・自己責任

 自己決定・自己責任という言葉は、現代をあらわすのキーワードになっている。例えば「インフォームド・コンセント(説明されたうえの同意)」がそうであり、医療、年金、金融商品などでよく使われる。

 十分な情報が与えられ、他者と平等の条件で、自らが自由に決定した行動の結果は、自らが責任を負わねばならない、ということが現在、生活のルールとして盛んに強調されている。
 これにはいろいろ社会的に問題があるが、きょうはそれ以上に、「われわれが自由に決定した行動」 というのが、果たして人間にはあるのだろうか ということをお話したい。


●自由とは? 意思は自由か?

 自由とは何か? 責任をもって何かをすることに束縛・強制がないこと が、一般にいう自由の概念である。辞書などで調べてみると、その中には社会的自由・意志の自由・倫理的自由などが項目的に並んでいる。

 しかし、人間は自分の行動を自由に決定しているのか?  これは「決定論」vs「非決定論」として、昔から宗教的、哲学的論争の的であった。
 「決定論」とは、人間の意志は自然法則・神・運命などによって必然的に想定されているという説で、意志が自由という考えは決定原理を知らないだけだという。
 一方「非決定論」では、神の摂理や自然法則による必然的決定を認めず、偶然による変化や、主体の任意な決断で未来が決定されるという説である。

 現在の哲学状況は、こういう古い宗教や、マルクス主義、実存主義の後に、これも古くなりつつあるが構造主義という考え方が、未だに一番影響を与えている。構造主義とは、深層構造(言語とか社会制度など)の必然的過程が、われわれの行動や考えを決めているという考えで、現在主流になっている。

 そういった状況を前提に、きょうは 脳科学 の立場から、われわれの意志がどこまで自由なのかをお話したい。


●意思と行動の時間的順序

 一つ目は、意志と行動の時間的順序の問題である。われわれは意志があって行動すると考えているが、行動してから意志を自覚するのではないのかという問題である。

 B.リベットの研究(脳波データの分析)では、意志的な筋運動が起こす0.55秒前に運動準備電位が現れ、行動の決断が意識されるのは、運動の0.1~0.2秒前であることがわかった。
 人間には主観的経験を0.5秒さかのぼって体験する仕組みが備わっているというのが、脳科学の知見である。

       意志と行動の順序は、意志⇒行動ではなく 行動⇒意志


●意図の抗争

 二つ目は、われわれは脳で考えているが、左右の脳を健康人は一つの心で結んでいる。それが二つの意志をもつ場合があるのではないかという証拠がでてきたという話。

 左右の大脳半球の間には、脳梁 といって左右の半球を連絡する神経線維の束がある。
この脳梁が切断された脳を、スプリット・ブレイン(分割脳)というが、さまざまな症例がある。

 ・作話反応・・・左半球は右半球の情報に基づく行動を後から合理化して作り話をする
 ・拮抗失行・・・右手の意図的な行為を打ち消すように左手が反応する
 ・全身的行動を意図すると別の意図が出現する

   大脳の左右半球には、別々の意図を生み出す潜在力がある。

   どうやら私たちの自覚的な意志とは、事後的に辻褄を合わせて正当化しているだ   けらしい。


 では、私たちを行動に駆り立てているものは何か?
それは、生得的・先天的な行動パターンではないか。その代表的なものが反射と本能である。反射とか本能といったものは、生まれもった行動パターンである、或いは生まれたあと習慣として身につけた行動パターン、そういった幾つかの例をお話したい。


●原始反射と本能的行動

 キリンやシマウマは、生後数時間で歩き始める。ヒトの赤ちゃんも、潜在的な起立・歩行能力は、生まれたときに既に備わっている。乳幼児にみられるこれら原始反射の多くは、成長とともに消えてしまう。反射は迅速だが、単純であるため、ヒトの意図的で複雑な行動にそぐわないからである。ヒトの行動は、先天的な能力を抑えることにより、発達することができる。成人後に、脳損傷を受けると、原始反射が再び出現するのはそのためである。
大人は、より複雑な行動をするために、反射を押えて意図的に行為を作り出すことができるのである。

 もうひとつわれわれを動かすものとして、本能的行動がある。個体維持本能としては、食欲、闘争・逃走本能があり、種族維持本能としては、性欲、母性本能がある。

 人間の動機は予め決まっているが、自分の意志である程度本能を抑えることで、社会に適応している。前頭前野が、習慣的行動や潜在的記憶にもとづく行動を抑えることによって、新しい行動を創り出すことができるのである。この前頭前野の抑制がはずれて習慣的行動と反応的行動が前景に現れるのがピック病である。

 また、われわれの意識に上らなくても残っている記憶が条件づけで行動を起こすことがある。今のコマーシャリズムの中では盛んに行われている。


●アフォーダンス

 最後に、われわれの行動は環境が決めている。われわれが考えて行動しているのではなく、環境に要求されてする行動パターンで、環境情報そのものが行動を決定するとする。これをアフォーダンス理論という。環境依存症候群というのがそれで、外的刺激の性質が行動を誘発する症候群である。

 われわれは殆んど自覚しなくても行動できるほど、私たちの日常環境は、アフォーダンスの記号に溢れている。コマーシャル情報では、意図的に潜在記憶や条件づけなどの仕掛けによって、購買行動を起こさせるための伏線を張っているのである。

ここまでをまとめると、

 ・私たちは行動を意図してから自分の意志を自覚する。

 ・そして自覚する前に、私たちを行動に駆り立てていたのは
    
    先天的な反射・本能
    後天的な習慣・潜在記憶
    環境が要請するアフォーダンス


だったということができる。

 ここで再び 「人間の意志は自由か?」。最初に申した 決定論と非決定論のどちらが正しいのかということについて考えてみたいと思う。



●人間は自らの意思に責任があるか

 『情欲を抱いて女を見るものは、心の中ですでに姦淫したるなり』(マタイ伝)
これに対する B.リベットの見解は、「人間は情欲を抱いてしまうことに対する責任はない。なぜなら本能がそのように命じているからだ。しかし、実際の行動の決断には責任がある。情欲を拒否する自由はあるからである。」 とする。

 しかし、これに対する反論が出てくる。拒否するか許可するかの決断もまた、意識下で0.35秒前に決定されているのではないか ?という疑問である。

 私たちの意志は意識下で決定されているのではないか について、「決定論」が有力ではあるが、脳科学の見解はまだ結論が出ていない。問題は自覚的な 「自我」 だけを行動主体とみなすところにあるのかもしれない。

 かつて、犯罪者の動機を問う際の決まり文句は、
『罪を憎んで人を憎まず』 であった。深層の動因を重視する思想の反映である。しかし、最近では 『心の闇』 が常套語になっている。深層の動因を探求する努力の軽視が懸念される。例えば青少年の残虐な犯罪は、ゲームやマンガの暴力シーンの潜在記憶が作用している可能性がある。


●では、私たちにできることは何か?

 最初にこの倫理的自由とは何だったのかということを疑問として皆さんにも考えてもらった。欲望に従って道徳に束縛されないことが自由なのではないかと思ったが、こうやってみてくると、自分が考えてもいないのに欲望の命じるままに、姦淫の目で人を見てしまう、生まれつき定められた本能や反射によって行動が作られてしまっている。だからそういうものに束縛されずに、自分が正しいと思う道徳に従うこと、これこそが本当の自由ではないのか。

 『欲望に束縛されずに道徳に従うこと』 とカントが言った意味は、おそらくそういうことだと思う。そうすれば、われわれは自覚しなくても(無意識でも)、道徳・倫理にかなった行動がとれる、そういう意図が働くよう習慣づけることが、一番望ましい生き方ではないのかと考えることができるかもしれない。

 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒・・・これらは仏教の基本的な戒律だが、仏教に限らずわれわれが知っている宗教的な戒律といったものは、そのように習慣づけることによって、自分の中で無意識に働いていた本能や潜在的記憶などの要因が働かないようにする、そのように訓練するのが戒律の意義だったのではないか。

 つまり、自分の意識に上る意図、そしてそれを許可するか拒否するか、どういう行動をとるかということについては、反射や本能が生得的にもってうまれて働いている。

 ところが意識下で、生まれたあと自分の生活の中で組み立て習慣化されたパターン、例えばプライミング効果・サブリミナル効果の刺激はそれを与える社会の環境に働きかけることによって、手続き記憶・古典的条件づけ・アフォーダンスは、自分の行動を習慣づけることによって、道徳に則したものにすることができる。

 こういうことによって自分の中に生じる欲望・反射本能をコントロールすることができる。実はこれは文化、文明そのものである。

 われわれの文化が、環境刺激の中で一体何に価値をおいて、何を社会の人々に求めているのかということについては、文化のあり方がよく表している。こういった文化の内容を、道徳的・倫理的なものにすることによって、われわれの意識に上る行動も、あまり誤りのないものになっていくのではないか。まさに、善い習慣・善い環境が善い行いをもたらすことになってくるんだろうと思う。

●まとめ

 ◇脳科学の知見からは、人間は自覚的意思によって行  動を自由に決定できる主体とはいえないようである。

 ◇反射や本能は先天的な行動の決定要因であり、習慣  や潜在記憶、環境は後天的な決定要因である。

 ◇私たちが誤った行動をしないために私たちにできるこ  とは、節度ある習慣や環境を創ることである。





平成20年7月 講演の舞台活花


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