平成18年度
熟年大学
第九回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成19年2月15日

 
旅は文化の体験
~旅の知恵と効用~



旅行作家 日本ペンクラブ所属
西本 梛枝 氏

                    講演要旨

旅は文化の体験であり、旅することは自己の文化度を上げると同時に、社会の文化度も上げることにつながります。

気力なお十分に旺盛な近年のシルバー世代に提案したい「旅の知恵あれこれ」をお話します。

                      

1.旅の原点は「風景」を見ること

 
旅の楽しみは何か?あえて言うなら、美味しいものを食べるとか、温泉に入るとか、綺麗なものを見るとか、楽しい体験をするとか かなと思う。少し前までは何処かへ行くこと自体が旅の楽しみだったと思うが、今はず風光明媚だけではダメで、一歩突っ込んで、そこの味覚とかカルチャーとか体験とか、なにか絞ったものを消費者は求めている。
 しかし私は、旅の基本はあくまでも風景を見ることだと思う。そこで何かができるのも、美味しいものいただくのも、やはりその風景や環境があってのことだと思う。

 今、私たちは科学技術の進歩によって何でもできると錯覚するほど何でもできるが、大きな自然は人間の手には負えないもの、変えられないものだと思う。それを時々認識するためにも風景を見て欲しい。風景を見る旅をして欲しいと思う。人が風景をつくり、風景が人を育てる。人は美しい風景の中で生きていく権利があると思っている。

 その風景が昭和40年代位から変わってきた。山が削られ、川がコンクリートで固められて、ここ数年では熊の被害があちこちで出ている。それは里山がなくなったからという指摘もあるように、動物たちが彷徨っていると私たちは考えているが、本当は人間も同じように彷徨っているのではないか。

 私は山が好きでこのあたりの山にも行くが、岩湧山に下から登ったときに感動的な経験をした。それは虫の声が麓で聞いた声と上の方で聞く声と違うことだった。草花や樹木や鳥が違うことは分かっていたが、虫は見えないので気がついていなかった。やはり人間は環境の変化に順応してしまうから、日本の山程度の標高の山だと、微妙な変化は感じないし差しさわりがない。小さい虫たちは、自分たちが生きていける一番住みやすい場所で生きているということに気がついた。人間も環境に適応しているように思えているが、本当はゆっくりと生きていける場所をなくしてきているのではないか。

 それと合わせて思うのは『音』。今、私たちの周りには音がいっぱいある。「音が多いのは
文明の証だ」といった人がいたが、確かに「ピピピ」という電子音であったり、「ブー」という自動車の音であったり、お店の音楽であったり、沢山の音がある。それも文明の証であろうが、私はそれを喜ぶより、「文化の証」を大切にしていきたいと思う。

 自然の音が聞こえてくる。虫の声、鳥の声、風の音、樹木の葉ずれの音、お祭の囃子とか、雨の降る音を聞くために、それが都会で聞くことが少なくなっているだけに旅に出たいと思う。
日常の生活の中では通り過ぎることが多いが、環境を変えることで、新鮮な思いで耳を傾けることができるのではないか。

 ただ、今の世の中、充分便利になってきているので、家で居ながらにしてバーチャルな体験をすることができる。バーチャルで充分だという価値観の人がいてもいいが、目的だけしか視野にない、疑似体験でことを終えるのは、一寸危ないのではないか。一方で「ホンモノ」に居りたいといいながら、見るだけとか食べるだけの旅になってはしないかという気もする。その背景も一緒に見る旅をして欲しいと思う。

 今まさに蟹の季節。みなさんの中にはもう食べに行かれた方もいると思うが、例えば蟹を食べに行って、その町の様子や、蟹が揚がる港や、蟹を獲ってきた船を見てきましたか。蟹を食べに行った時に、その辺りの周辺の風景を見ることで、旅が楽しくなる。現地に食べに行くことは、その命が生まれたところを知り、その食材がこういう環境のところで獲れ、こういう人たちが食べるようにしてくれてお料理に出されたと思って食べると、蟹も自分たちも同じ地球上の生き物であることを認識すると思う。食べるだけでいいということは、自分のことだけを切り取って疑似体験をするバーチャルな体験と似ている気がする。

 最近私たちの生活の中から、「感謝」という言葉が減ってきている。若しそうであれば、私たちが風景と関わらなくなってきたのも、原因の一つだと思う。風景を見るということは、ただ見えているものを見ることではなく、その風景を支えている風景、いってみれば風土を見ることだと思う。そこに暮している人たち、暮らしそのもの、自然現象、風習、お祭り、食べ物・・・全部ひっくるめて、先人たちの生活の知恵から生まれ伝えられたものを見ることで、風景が見えてくる。そういう意味では歴史と同じで、年表を見るだけでなく、一歩突っ込んでその奥にあるものを見ることで歴史が面白くなるのと一緒である。

 この大阪狭山でも、狭山池が日本で一番古い人造池であることは教科書にも書いてあるので多くの人が知っている。ただこの池の築造に当たって、どんな苦労があったのかとか、どれだけの民が築造に力を貸したのか、どんな権力の駆け引きがあったんだろうとかは、なかなか歴史の表に出てこない。そういうところを歴史を一枚めくり二枚めくって行くと、この地方に言い伝えや伝説となって残っていると思う。そういうものを穿ったり聞き歩くことで自分のものになっていく。それが旅になる。風景も同じことで、見える風景を見て、「広い池やなぁ」だけで帰ってくるよりも、狭山池は自分の中に入ってくる。旅に出たときは、一歩その土地に踏み込んでいくという歩き方をするといい。


2.文明と文化

 岐阜の白川郷の屋根、沖縄の家の造り、島根の石州瓦(省略)など、先人はその土地と一番上手く暮していける暮し方をしてきた。
 滋賀県余呉町の椿坂では、雪が瓦を持っていかないように、今でも屋根に筵を敷いている(昔は茅葺きだった)。先人たちは自然を充分受入れて、敵対することもなく、諂うこともなく、人間が傲慢になることもなく、対等に一緒に生きていた。
 琵琶湖の高島は、扇子の骨では日本有数の産地だが、竹の骨を天日で干すのに、天気予報を鵜呑みにしない。漁師なども同じだが、天気予報も参考にはするが、先祖からの伝承や自分の経験値も大事にする。科学万能ではない。

 昔から積み上げてきた「暮らしの知恵」に、旅に出ると出会える。私たちが日常忘れていること気付かさせてもらえるのが、旅の場の一つだと思う。

 人間の暮し方は、自然との関わりの中で生まれたものだと思う。しかし今は違う。寒かったら暖房をつけ、暑かったら冷房をつけるのが普通になり、自然に左右される生活はうんと減ってきた。日々の生活の中で自然を意識することは、都市に暮していると少なくなってきた。都市の人は自然と関わらなくても、生活していけるようになってしまったというべきかも知れない。と同時に、動物としての能力とか生命力を失ってきていると思う。

 旅をしていて実感することは、
文明と文化の違い。あえて一括りにすれば、
西洋は、自然を克服すべく文明を生み出してきたところだと思う。ワットが蒸気機関を発明し、人間は飛躍的に便利というものを手に入れた。その恩恵を日本人も預かっているのだが・・・。

 しかし、私たち日本人は、自然を克服しようとか、超越しようといったことではなく、自然と共に暮せるよう知恵を絞ってきた。自然と折り合いをつけながらの暮らし、それが日本の文化だと思う。

 日本には、春夏秋冬の四季がある。それをもう一つ細分化するのが日本の感性だと思う。早い春(早春)、春たけなわ、晩春とか。そうすると四季は12に分化される。言葉も沢山持っていて、雨が降ることも、ただ雨が降るではなくいろいろな名前をつけている。町中に暮しているとなかなか気がつかないことに、旅に出ると気付かせくれる。

 この大阪狭山にも、おじいさん・おばあさんたちが語っていた古くからの言い伝えとか暮らしの知恵があると思うが、みなさんがお子さん・お孫さんに語ってほしい。それがお子さんやお孫さんの旅の動機になるでしょうし、故郷を誇りに思い大切に思うキッカケになると思う。愛国心などと大上段に構えなくても、私たちの身の周りのことをチャンと伝えることで、故郷・町・日本・地球・宇宙を愛する心は育っていくと思う。私たちがチャンと子供たちに伝えるためにも、旅に出たらそこで聞いていかなければならないと思う。

 「郷愁」には三つあるという。
   ①動物(生物)の本能としての郷愁
   ②民族としての郷愁
   ③生まれ育った場所への郷愁

 この生物としての郷愁を納得してしまう例が「水」である。綺麗な水があるところ、清流のある風景、美味しい水があるところには、心が引かれる。お米も、野菜も、お酒も、美味しい水があるところで生まれる。人間の身体も70%は水だそうだから、褒めてやると健康にも心にもいいそうだ。


3.旅の知恵と効用

 自分の興味でつくる旅であれ、ツアーの旅であれ、日程はどうあれその時間はまるまる自分のための時間。特に女性は(家事から解放され)実感されるところ。旅先でアクシデントに出会うとイライラすることになるが、そこは一歩引いて深呼吸し、まあまあ日常を離れた時間にいるのだからと、頭の中から日常の物指しを外してしまうのがいい。

 旅というのはムダのないスケジュールで動くのもいいが、時間をロスしたり、アクシデントがあったり、エネルギーをロスすることで、それがまた想い出になったりする。だから、旅は全く自由な感覚の中で自分を放り出してやれば、全く違う自分が見えてきたりすることもある。スケジュールどおりにいってもいかなくてもいいという感覚で旅をしていると、思いがけない出会いがあったりして楽しいことが増えるかな と思う。

 ムダというのは余りいいニュアンスで使われることが少ないが、ムダが全て悪いとは思わない。世の中には必要なムダがあると思う。今の世の中は、その必要なムダが排除されて、不必要なムダが大事にされていることが沢山あるが、車のハンドルの遊びのように、必要なムダが必要だと思う。

 例えば旅にあってのムダに、列車の接続が悪いといったことがある。しかし地方に行って、たとえばその数時間をムダな時間と思わずに、駅を出てこの町を歩いてみてはどうか。そこの町の人と話したり出会いがある。何よりも町の空気を吸ったことで、今まで無関係だった町が、少し近づいてきた気がする。地元の人に聞くことで、プラスアルファの情報がもらえる。

 要は「自分完結型」にしない。例えばグループで行っても、「グループ完結型」ではつまらない。朝少し早く起きて、周辺を散歩するとか、宿の風呂ではなく共同湯に行くとか、地元の人と交流することを奨める。


4.旅の仕方

  心に残る旅をするには、まず地図をもつ。今自分がどこにいるのかがわかる。できれば25,000分の1の地図がいい。地名からもまた楽しみがある。

  目的地に着いたら町の地図(観光マップ)を手に入れる。役場(観光協会)に電話して、いろいろな資料を事前に送ってもらうのもいい。

 歩く。とにかく 「歩く」。歩く速度と思考の速度とは同じ。歩くことで、町の空気が、町の風が、人が感じられる。町のディテールがわかる。

 
旅は文化の体験である。文化とは難しいことではなく、人そのものだと思う。私たちが関わっているもの全部が文化だと思う。それに触れようと思ったり、会おうと思ったり、お話しようと思ったら、やっぱり歩くことしかないと思う。日常生活は忙しいから、効率よく時間を回転させなければならないが、旅は日常の時間から離れていい時だと思う。どうかゆっくり自分を遊ばせてやっていただけたらと思う。



2月 講演の舞台活花



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