平成18年度
熟年大学
第四回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成18年9月21日

 
狭山の「亥の子」の持つ意味



神戸女子大学名誉教授
帝塚山学院大学講師
田中 久夫 氏

                    講演要旨
大阪狭山市の山伏地区には珍しい行事が残っている。子供たちがそろって稲の収穫を祝って家毎に藁鉄砲をついて回る行事である。これは大正時代の大阪では多くの地域で行われていたが、その後失われていたものであった。それが山伏地区の親たちの暖かい眼差しの下に、今に残っているのである。


狭山の「亥の子」の様子

末永先生と大阪狭山

大阪狭山市が生んだ世紀の大学者 末永雅雄先生の元で勉強をしていたおり、末永先生から与えられた「祖先祭祀」の研究をいまだに続けています。偉い先生から指導いただいたことは幸運なことで、やはり先生は選んでいかないといけないと思っています。大学卒業後は兵庫県で高等学校の教師をしていましたが、末永先生からお使いがきて、大阪狭山市の郷土資料館に学芸委員会を作り民俗学を置くので、学芸委員として来るように言われ学芸委員になりました。そうこうしていたところ、また末永先生からのお招きで、今度は大阪狭山市史の民俗編の編纂に関わりました。


「亥の子」との出会い

そうしたら驚きました。今日の講題の「亥の子」というのをしているのです。「亥の子」というのは現在の11月23日の「勤労感謝の日」にあたるもので、稲の収穫祭でした。もともと11月3日(旧明治節)の文化の日の翌日から始まる稲刈りが無事終了し、収穫をお祝いする日でした。この頃になると稲に関する外の仕事が終わり、籾殻をおとす臼挽きの仕事をするだけになっています。このことからも日本全国の祝日になったのです。11月23日という日は大変いい日を選んだ収穫祭です。

一般的に農村では稲の収穫祭は子供が主役です。ムラの子供たちが全員で収穫をお祝いしたものです。しかし北の松原市、藤井寺市とか、もっと北の摂津市では、子供たちが公然とグループを組んで、夜遊びが出来る日と理解されているようです。収穫祭としての「亥の子」がすたれているのです。
「西宮市神呪」(『西宮の年中行事』1978年刊)によると、「十一月の菊の花の咲く頃の子供の行事であり、藁でツトを作り、亥の子の晩に 重箱ひろて あけてみれば ほこほこ饅頭握ってみれば ジュベサンのきんたま” と唱えながら地べたをパチパチと叩いていた。まわって来た子供には食物などを与えたようです」 とあります。

摂津市のJR鳥飼基地辺りでは、11月の亥の日には新藁の藁のしぶを取り、それを束ねて細なわでくくった物を「亥の子」といい、これを夜になると子供が一本づつ持ち寄って、新しい嫁の来た家に行きお祝いしていました。
この時のとなえ言葉も “亥の子の晩に重箱ひろて 開けてみれば ほこほこ饅頭 握ってみれば ジュンベさんのきんたま” その後ろに “祝いましょう” というのです。それを家の者が戸を開けるまで叩いている。家ではぼた餅を作る日なので、子供たちはグループを組んであちこちを回ってお祝いしていました。

ところが同じ摂津市の真下というところでは夕食の後、村中の家々を子供が「亥の子」で地面を叩いて回る。家の人は “ごくろうさん” と労ってくれる。これが済むと子供たちは別れて、それぞれの家の柿の木を叩く。そうすると柿の実がよく実るという。その後「亥の子」は焼き捨てる。子供たちが言って回る「・・・ジュンベさんのきんたま」とは違う様相を示しています。


狭山の「亥の子」


こうしたなかにあって、ここ狭山の子どもたちの11月23日は、大きく他と異なる「亥の子」があるのです。今でも山伏地区(山本東とその周辺)の小学校の子供たちは、全員が「亥の子」をしています。男の子も女の子も藁をかたく縄で巻いてバットみたいな槌を作り、暗くなってから元の鍬池の所に集まってきます。


そして男の子と女の子のグループにわかれ、小学校1年生ぐらいの子供までつれて家々を回るのです。そして、最初に池の神さんであった弁財天社から「亥の子」をつきはじめます。それからだんだんと村の家々にもついて回るのです。女の子と男の子がニ手に分れてついていきました。全部つき終わって元の弁財天の所に帰ったのは夜もだいぶん遅くなった8時ごろでした。それからいただいたお祝いを子供たち全員が平等に分けてから別れます。

子供たちはムラの家々に行き “亥の子つかしてください”と言ってつくのです。村の人たちは子供が「亥の子」をつきに来るのを待っています。村をあげての祭りでした。それはそうです。こんなお祝いの言葉をうたいながらつくものですものですから、喜ばないほうが不思議です。“亥の子の晩に 重箱ひろて 中開けて見れば 今年の新米いったった ソレ祝いましょう”

稲の豊作の喜びが伝わって来るような唄でしょう。別の所では少し違った唄の文句を教えてもらいました。“亥の子の晩に 重箱ひろて 中開けて見れば ほこほこ饅頭 いったった 今年の新藁祝いましょう” というものです。村の人々は稲の収穫の喜びと共に、子供の情操教育を、ムラを上げて喜んで待ち受ける体制です。山伏地区の人々は子供の教育を、昔から一生懸命にかかっているのです。


狭山近辺の「亥の子」

松原、羽曳野、鳥飼でも(真下を除いて)、今は大人が子供の教育を手放しています。しかし、今も風習が残っているものですから、子供たちは三々五々グループを組んで回っている。子供がおおっぴらに夜遊べる時期と理解しているのです。そういったことを考えると “今年の新米いったった” といい、家々を回る伏山の行事が、いかに大切なものかわかっていただけると思います。

「亥の子」は秋の稲の収穫祭です。本来は旧暦の10月の亥の日の行事でした。亥の子餅を搗いてお祝いをします。稲刈りが済んだ後からでした。この時に田の神さんへお礼をするのでしょう。それにしても、この近辺では「亥の子」の行事はだいぶん昔にすたれてしまいました。北の藤井寺の方では昭和の始めのころにはすでに失われていました。その行事を狭山ではしているのです。どういうものか一度みなさん覗かれてはいかがでしょうか。それを参考に、みなさんの地域の子供たちの教育に役立ててはいかがでしょうか。

「亥の子」がすたれてしまったのは、学校の先生にも原因の一つがあると思います。家々に行ってお祝いを言って金や餅などをもらったりするような “カッコの悪いことはするな” というのが先生の言い分でした。しかし、狭山の山伏地区のように子供の教育や地域の共同性などを勉強する機会だと、なおかつ村の生産性にかかわっていることを意義づけて展開すれば、話はだいぶん変ってきます。とにかく学校の先生は “そんなことせんともっと勉強をしなさい” そんな話でしょう。


日本各地の「亥の子」

じつは私も広島で「亥の子」をしていました。広島県三原市、昔は豊田郡沼田東村といいましたが、そこへ行きますと旧暦の10月の亥の日、11月23日頃になると男の子たちは宿をつくり、一晩泊まりで「亥の子」をするわけです。私たちは男の子供だけでやり、親は付いてきません。そして宿からつきはじめてぐるっと50軒ほどをつき回り、一番奥の神社へいきますから、帰るのは夜の8時頃になります。帰ってきたら、もらってきたお金や餅、みかんなどを宿のお母さんに渡し、食事を作ってもらい朝に家に帰ります。


広島県因島市にある「亥の子」は、重ね餅のようにした丸い石です。この石のかんの輪にばちなわをつけてつきます。私たちがいって “こんばんは 亥の子を祝うてつかーさい” というのです。家の人は11月の寒い風をがまんして、縁側の雨戸を一枚だけ開けて子供たちが来るのを待っていて、”「はいはい」 お願いします” といいます。子供たちは、
“一で俵を踏んまえて 二でにっこり笑うて 三で酒を作って 四で世の中といように五ついつものごとくなり 六つムネを息災に(私達は六つ無病息災といいましたが)七つ何事ないように 八つ屋敷を広めたて 九つここらで蔵を建て 十でとうとう治まった 繁昌せい繁昌せい 繁昌せい 繁昌せい” といいます。この繁盛せいを4回いうときに石をつくのです。

続いて “鶯や 鶯や 初めて都に上るとき 三階松の三の枝それに巣をかけ 巣をくんで 十二の卵を生みそろえ 生んでそろえてたつ時にや 金の兆子をくわえたつ お家繁昌と舞い立つ 繁昌せい 繁昌せい 繁昌せい 繁昌せい” このとき“どすん どすん どすん”する。さらに “子供衆や 子供衆や うんと力があるならば 三つ星なんかと やってくれ繁昌せい 繁昌せい 繁昌せい 繁昌せい” と。この時きちっと息をそろえてつくと庭に穴が3つできる。御幣を持っていっていますので、この真中に立てて帰ってくる。

農家では庭が仕事場ですから、庭にあいた3つの穴を踏まないように秋の仕事をしておられました。子供の時は分りませんでしたが、あとになって聞きましたら “田の神さんが亥の子の日に寒い 寒いといって帰ってこられる” と言われた。つまり亥の日に子供と一緒に田の神さんが帰ってこられるというのです。だから雨戸を一枚開けて待つんだということです。子供たちが帰るとようやく雨戸を閉めて食事をしますが、家の主人の席を空けて、そこが田の神さんの席としてお祝いをする。このように広島では、「亥の子」の日は戸を開けて寒い寒いといって、子供達や田の神さんが帰ってくるといって待つ日という考えがあります。

そのように寒い寒いと帰ってこられる日だから、一年を働いてこられた田の神さんをお迎えするのだから、何が一番ご馳走かといえば「火」です。だから囲炉裏やコタツを出すのです。したがってコタツなどは、「亥の子」が帰った後に出す。それまでコタツを出してはいけないというのです。私などは、今でも冬になりコタツがほしいなと思うとき “亥の子かなぁ” とみています。それも子供の時の教育です。この狭山でもこの日から出すということを聞きました。


兵庫県佐用町平福を調査したことがありましたが、ここでは旧暦十月の亥の日に男の子たちが「亥の子」をついて回りました。2時頃からつきはじめて2時間半ぐらいかかる。このあと子供会の役員(六年生ぐらい)が家から持ち寄ってきた食事をして解散しました。しかし今では、食事を親がクラブでまぜごはんを作りたべさせている。もちろん新米である。女の子たちも参加している。「亥の子」も子供会の親が作っています。


ここの「亥の子」は13枚の3俵の中に平たい石をかずらでくくり作る。そして参加する子供たちの数だけあら縄をつける。上には御幣をつける(上の図のようなもの)。そして「亥の子」はお宮からつきはじめて各戸を回っていく。家に着くと御幣を持ったリーダーが戸主の名を唱えてから “亥の子をつかせて祝いましょう” というと、名をいわれた人がでてきて、そして一同がまるくなって綱を引っ張り次の歌を謡いながら「亥の子」をつく。
“亥の子のよさり 餅つかんもんは 鬼うめ蛇うめ角のはえた子うめ えいや えい” “いちでたわらふんまえて にぃでにっこりわろて・・・” とか、「亥の子」を祝ってくださいといってますが、狭山の山伏地区のように、少しちがいます。大根のお祝いのようにいうのです。

友人から西宮市山口(有馬温泉の近く)で “亥の子の祭りをしているので来ないか”と誘われましたので行ってみますと、今までみたことのない箒みたいな藁と、その前に1升舛にお餅が入っているのを見ました。私が写真を撮っておりましたら、ご隠居のおばあさんが首をひねって “いやーホント言うたら大根やね。大根を昨日取り損ねてお供えしていないのが残念だ” と言われました。私もそれは残念だと思っていたところ、そこのご子息さんが “大根を取ってこよう” と言って下さいました。ところがご隠居さんがものすごく恐ろしい顔をして “行ったらいかん” と言うのです。
「亥の子」の日には根のある物、とくに大根など抜きに行ってはいけないということです。大根はこの日にはめきめきと音を立てて大きくなる。その音を聞いたら死ぬという。大根がどんな意味を持つのか。

広島県甲奴郡上下町の正月の飾りでは、お正月の神さんに対して、竹に供物をぶらさげています。右には稲の藁に餅をつけた餅花のようなもの、二又大根を掛け、左に鯛を2匹掛けています。それにほんだわら。ここは山の中ですので、大根をわざわざぶら下げている。どうも大根は「亥の子」と大きな関係があると思いますが、もう一つ解らない。しかし、大根を介在してお正月と「亥の子」とが関わってきている。今後とも考えていきたいところです。


文化財を守ろう

ともかく狭山という処は勉強するのに大変おもしろいところです。
茱萸木の八幡さんに、ものすごくよい御神体の絵があります。江戸時代に河内長野のお坊さんが描いた板絵の神像があります。金や緑青で神の絵が描かれています。明治になり神仏を合併することがありました。そのときにこれが残された。いまは当時のものが全国的に村へ返されつつあるようです。

狭山で一番問題なのはこういった文化財を市が認定する制度がないということです。堺から狭山、河内長野、橋本市には「高野山女人堂」という道標があります。これは「小左エ門」と「五兵衛」という茱萸木村の人が、堺からずーっとそれぞれの土地の人からお金を集めて回り、一里ごとに建てたものです。橋本市ではそれが市の文化財です。肝心かなめの造った狭山では文化財としていないのが現状です。

                     

狭山山伏地区の方々にはたいへんご苦労だけど、
子供達の情操教育になり、お互いが知り合い仲良くなれる場なので、
この行事を残していってほしいと思います。







9月 講演の舞台活花

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