平成17年度
熟年大学
第十回

一般教養公開講座
於:SAYAKA小ホール
平成18年3月16日

 
日本は「海の文明」を目指せ



国際日本文化研究センター  
教授
川勝 平太 氏

                    講演要旨
日本は中国など他の文明とは構造が異なる独自の文明である。歴史的な失敗の経験を踏まえて大陸中国には深入りせず、経済的連携を深めている。 東南アジアなど「海洋東アジア」の中核として、オセアニアまでを見据え、海を媒介として「海の文明」を模索すべきである。



おそらくここにいらっしゃる皆様は、私の勤務しています「国際日本文化研究所センター」という名前はご存知ないでしょうが、略して「日文研」と総称されています。
「日文研」は、日本文化を国際的、学際的、総合的に研究する機関です。

「日文研」が設立された1987年前後の頃は、日本が世界における存在感を非常に高めた時で、ニューヨークのセントラル・パークを見下ろす超高層のプラザホテルで、先進国の首脳会議がありました。 

欧米へのキャッチアップ

日本は、後に「プラザ合意」と知られる合意をここでしました。 当時は、繊維にしても自動車にしても、また、欧米人の日常生活の中に、深く日本製の家電製品があふれていました。 ですから、日本製品が欧米にあまり入ってこないように、円の為替相場を高くする円高を決めたのが、1985年の「プラザ合意」です。

先進諸国が日本の力に兜を脱いだ、自他ともに日本の実力を認め、対等、いやそれ以上の脅威と見なしたのがこの「プラザ合意」であったと振り返ることが出来ます。

それは日本が欧米へのキャッチアップの時代が終わったことを物語っています。

軍事立国から経済立国へ

少し歴史を振り返ってみますと、明治維新で主導権をとったのが、薩摩、長州の人たちで、彼らは富国強兵の日本を建設する非常なる覚悟を立てました。 そのモデルが大英帝国で、この大英帝国に肩を並べる大日本帝国を作るのが大目標でした。

当時の大英帝国は「七つの海」を制する海軍力で世界を支配していたのです。日本はしだいに英国に認められ1902年には、日英同盟が結ばれます。

明治維新以来の宴

幕末期に薩摩や長州が、英国海軍の前に屈したとき「もっと強くなる」という決意をしたことの証は立てたわけです。

然るに第二次世界大戦で、日本は、米国には完膚なきまでに負けました。その敗因が米国との物量の差であったのですが、以後日本は軍事立国をやめて、根本は経済一辺倒の戦後がはじまりました。

もうひとつの宴

その結果が繊維に始まる経済摩擦で、鉄鋼、造船、自動車、家電製品が、米国人の日常に浸透して、米国の産業が空洞化し、残されものは、軍事産業とマネーゲームだけとなりました。 このように、日本は米国に追いつき、米国がそれを認めた結果があの「プラザ合意」です。

その後日本はどうなったか・・・いわゆるバブル経済であり、その結果、総量規制という政策により、お金の流通量が規制され、土地の価値が急速に減ってバブル崩壊となったのです。

さて、インド以東の文明と日本のかかわりを理解するためには、歴史をさらに遡り、近代以前のことにも言及しておかねばなりません。

日本が中国の文明に憧れていた時代は、平城京の奈良時代であり、平安時代も然りです。 奈良が長安をモデルにしたことは認めなければなりません。 

しかしそのその次の鎌倉時代は、どうだったかというと、京都の公家政権に対抗して新しい武家政権を打ち立てた時代と言われています。その鎌倉の建長寺や、円覚寺には、南宋から禅の坊様が流れてきています。

当時中国は、モンゴルの元に圧迫され、内陸の宋は、北の黄河流域の都を捨てて臨安という南の揚子江の河口に移り以後「南宋」と呼ばれていました。 陸から海の方に逃げ、さらに東シナ海を渡れば日本です。  そういった中国の学者が京都を訪ねても、京都では受け入れられず、鎌倉ににゆき北条氏からの庇護のもと鎌倉「五山」の建立となったのです。

では、室町時代はどうであったか・・それは、中国の北の文化のエッセンス、当時の長安あるいは、洛陽の北の文化のエッセンスを平安の都に入れきった上で、さらに中国のもうひとつの南の文化を継ぎ足しました。 ですから室町時代の日本もまだ中国文明からは自立したとは言いがたいのです。


やがて戦国時代になって、国内が乱れ、京都にいた知識人があちこちに散らばって、その影響で、小京都が各地にできます。 戦国時代は、最終的に秀吉の登場で、桃山時代が出現し考えられないような贅沢をしました。 そして中国の明の征服をもくろみ朝鮮に出兵します。 この秀吉の桃山文化が、いわばバブルで、現代の「平成バブル」に対して「桃山バブル」であったといえましょう。 

奈良時代から始まって、ついに秀吉の桃山時代に中国に追いついたのです。

その後出てきた江戸時代のモデルは外国のどこにもありません。
城下町の作り方は、各地で見事なまちづくりですけれど、外国のどこにもモデルがないわけです。 言い換えれば江戸時代に日本は中国文明から自立したということができます。

江戸時代が終わり、明治維新になって全ての藩を廃止しました。 そして東京一極に集中するというシステに変え現在に至っています。 私は日本の歴史を、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代といってきましたが、時代の名所は全て地名です。

日本は地名でもって時代を区分している国です。

では、東京時代とはいうのはどうゆう時代なのか、それは、西洋文明の生きた博物館です。東京は西洋文明の変電所であり、西洋の高い電圧をもつ文明を、日本の実力に会うよう電圧を変えて全国に配電する、そうゆう変電所の役割をはたしました。それが東京です。 しかし、東京はもう不要だというわけではありませんが、西洋の文明を受容する時代はおわりました。

新しい日本の形をどう表すか・・・

4時まであと少々の時間しか残されていませんが、新しい日本の形をどういうふうにしてあらわすかという段取りになります。

日本は、日本の顔を首都機能が置かれている場所で表す国柄ですから、国の首都を変えようという動きが出てくるのは当然でしょう。

実際1990年に国会の衆参両院で首都移転の議決がなされ、1999年には那須が一番いい候補地だとの報告書がだされ、あとは国会で決定するだけの段取りになっています。

経済力で言いますと、日本はカナダ六カ国分の実力があり、カナダと東京とはほぼ互角の経済力です。 関東平野はフランスほどの経済規模があります。

中部地方、北陸、信越は全体として東京と同じ、近畿もほぼ東京と同じで、カナダ並の経済規模です。 中国、四国、九州の三者で東京なみ、北海道と東北を合わせると、大体カナダの規模の経済規模があります。



北海道・東北を「森の日本」
関東平野は「野の日本」
中部地方は「山の日本」
近畿以西は「海の日本」と名づけると全体の首都はどこになるかです。

十年の調査報告で筆頭の候補地となった那須がいいのではないでしょうか。

「野の日本」が尽きて」「森の日本」にはいるところであり、野から森に入るところは、古来日本人はそこを鎮守の森の社を建てました。 そうなると那須「鎮守の森の都」というイメージなるでしょう。

力の文明から美の文明へ

日本には約7000の島があります。全体としては自然が多様です。その多様な自然を活かした形で、日本を四つの地域単位に分ける、そして、それぞれの地域がその風土に応じた地域づくりをすると、地球生態系を保存することの模範を日本が発信することができます。 それは国際社会の要請でもあります。

地球の7割が海で、残りの三割が大小様々な陸地に占められています。日本列島は南北に3000キロ、北から南に島々が広がっています。 それをガーデンアイランドにすればよいのです。

日本の生活風土の美しさは、西洋社会に影響を与えて「ジャポニズム」という日本趣味を生みました。 西洋人の美意識を刺激したのです。 美意識は主観的なものですが、「美しい」と感ずる心は、誰もが持っています。 自分たちの美意識でもって、ガーデンアイランズという国づくりをしていくことが地球全体の多島海を美しいガーデンアイランズにするという志につながると思います。

あと二分で4時です。 お世話の事務局では4時にこの講演を終える予定ですので、ここで締めくくりましょう。 

日本は「富国強兵」という「力の文明」を目指した時代を卒業して、あえて言えば将来の「美の文明」に向けた移行期にあると思う次第です。



                               (講師未見承)





3月 講演の舞台活花